書活156日目*失敗とはなんだ!?
みなさんは、失敗をすることに対してどうお思いでしょうか?
「失敗は悪」こんな言葉について今日は考えようと思います。
私は失敗を恐れています。
失敗をしたら足場が崩れ、奈落の底へ突き落とされる恐怖に脅かされているのです。
いつの頃からなのかは、定かではないです。けれど強烈に覚えている印象といえばすぐに思い出すのが小学校の頃の体育の時間でしょう。
私は体育が苦手でした。(あとで思い込みだったと発覚しますが、これはまたの機会に…)
担任もクラス全員の生徒も「体育が苦手なシマちゃん」と見ていたため、あらゆることでお豆ちゃん状態。
お豆ちゃん、地域によってはゴマメでしょうか?鬼ごっこであれば参加はしているけれど、タッチしても鬼にならないという特別ルールをもうけられたり、ドッチボールも私に当てる場合は、アンダースローでとか。大縄跳びでは、サポートが入ります。
最初はいいんですよ。でもやがて不平不満がところどころで勃発してくるもんです。何か失敗をすれば「またアイツか」と指さされ、ため息からのヒソヒソ声。
ちなみに私は小学3年生の1学期、転校をしています。ガラリと環境が変わり、登校初日にしていずらさが最高地点に達していました。
正直に申しますと、いままで私の周りにいた人々とどこか様相がちがうのです。何がどうとは言えないのですが、感覚的に「合わない」と思ってしまいました。
それは先生に対してもそうです。小学3年生になったからなのか、地域なのか、それはまったくわかりません。
この年、私は初めての体罰を受けました。
多少のゲンコツや平手打ちのようなことが、まかり通っていた時代の残党がまだあった時です。「シッペタイム」とかなんとかいう名前でパフォーマンス化していたそれは、生徒たち全員が受け入れていました。
教卓前に並ばされて公開処刑状態で行われるそれは地獄のようで、二度とされないようにと息を潜める方法をとりました。
息を潜め、目立たぬようにしているにも関わらずやたらと公開するその先生。体育の時間はつかまったが最後、「出来ない私」をクラス全員にさらすことになります。
「またあなたなの?」と先生、「またアイツか?」と生徒たちの視線、ため息、ヒソヒソ声は体を硬直させてますますできません。
そんななか、冬場に「クラス対抗大縄跳び大会」を催されることになりました。体育の半分は大縄跳びの練習になり、私を憂うつにさせました。
案の定、出来ないグループとして分類され、できる子の前に立たされ、タイミングを教えられました。
タイミングを測るためにと、背中や肩を優しく叩かれること、クラス中から響く声が、私はとても嫌でした。叩かれるたびに、声が聞こえるたびに「出来ないレッテル」を貼られているような気分になりました。
失敗をしたら地獄、許されない行為、それを想像するだけで胸の奥がピリピリとしてしまうのです。
だからなのでしょうか。テレビのバラエティやドラマなどで「失敗しそうだ」と予測してしまうと、とてもじゃないと見られないんです。
後頭部から側頭部にかけて痺れが広がって、心臓が締め付けられます。
よく「失敗は成功のもと」という言葉を聞くと思います。私にとってそれは、成功者のみが言える言葉だと思っていました。
失敗は悪だという方程式をなぜ脱却出来たのでしょうか?失敗をしないようにと、注意深く行動していくようになってから30年近く経ちます。
それでも失敗はします。その度になかったことにしたり、隠したりしてきました。
そうすると、できる範囲が狭まり、挑戦することもなくなってきました。ただ平和に、何事もなくそう生きてくると、一体私は何だろうか?そんな気持ちになりました。
それで言い訳がない、でも怖い。では「失敗をしないようにするため」ではなくて、「失敗」そのものを知ろうと思い立ちました。
それが書籍「失敗の科学」を読んだきっかけです。私のように失敗を隠した場合、そこには成長が見られないことを知りました。
逆もしかり、失敗に真摯に向き合った場合の成長率が大幅に上昇するとありました。航空業界のブラックボックスというものがまさにそれです。40年前の事故率と現在の事故率、その数値は一目瞭然ではないでしょうか?
いろいろな事例がこの書籍にはあります。有名企業、有名スポーツ選手、それぞれのエピソードは皆一様に「失敗はしなければならない」というのです。
私のように失敗に恐怖している人間にとっては「失敗は良い」では弱すぎました。ねばならない、という言葉が忌み嫌われてる昨今ではあります。
でも「失敗はしなければならない」が、私にとって大変な勇気になったことは言うまでもありません。
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