「いすのきもち」

むかし、ずっと思っていたことがある。
モノにも感情があるのではないか、と。

つまりこれは、喜び、怒り、悲しみ、楽しむといった喜怒哀楽の感情がはたして人間だけのものであるのかどうかといった話である。

「犬にも感情あるのかな?」と、尋ねると大半の人が「犬は気持ちがわかるよ!」という。

「じゃあ、猫は?」と、尋ねるとこちとら同じく「犬ほどじゃないけど猫もわかるよ。」という。

「だったら、魚は?」と尋ねるとほぼ九割の人が口をつぐむのだ。これは単に考えるのがめんどくさい質問だからかもしれないが、犬、猫にあって魚や虫に感情がない、というのはどうも納得できない自分がいた。

そもそも、犬猫は気持ちが分かる、魚はわからんだのと言うのは人間の勝手な思い込みかもしれないじゃないか。

犬こそ感情がないかもしれないし、そもそも脳みそが必ずしも感情を感じ取る場所ではないかもしれない。

そういった仮説を立てると

「魚は痛点がないと言うけど、捌かれる時も
実は相当な苦痛を感じているのかもしれない。」

と言った話もあながち
間違っていることにはならないはずだ。
全ては人間の勝手な独断と偏見だ。
科学なんて、人間が作り出したものなのだから。

このことは幼い頃から頭の隅で疑問に思っていたことだった。それを明かしたのは大学3年生のとき。友人Sとラインをしていたときだった。

「ねえ、魚も少なからず気持ちがあると思うんよ。でさ、花とか植物も“きれいだね”っていうと美しく咲くらしい。これって何にも感情があるってことじゃない?そういえば、AIも感情がわかるって言うよね。もはや生き物とか関係ないよね?モノにも気持ちがあってもおかしくないよね?」

何かに取り憑かれたような私の思考を
「確かにそうかもしれない」と友人Sはわかってくれた。そこから2人の仮説討論がはじまる。

繰り広げられた議論は
無機質な「モノの感情」についてだった。

「AIでなくてもモノは感情を持っていると思う。」とまた言い出したのは私だった。

「例えば、人形とかぬいぐるみって魂が入るという話がある。だったらこのペンとか、たわしとか、扉とかも同じモノとして気持ちがあってもいいのではないか」というのが私の思いだ。

それを聞いていたSは「じゃあさ、消しゴムとか可哀想だよね。」と言った。さらには「私がモノで気持ちがあるなら、風呂のいすだけは絶対になりたくない」と言った。

Sの言い分として、お風呂のいすは、毎日いろいろな人のお尻を当てられ、特に労われることもなく一生を過ごすからである。

たしかに、私もそれは嫌だな。と思った。

しかし、そこにはまだ人間目線のフィルターが掛かった考えであることに気づいた。

「案外お風呂のいすは何とも思ってない気がする。だって、モノは何が目的があって作られているんだから。それがモノの存在価値であって、そこにいる意味でしょ。役割を全うできるのであればそれ以上の幸せはないのでは?」

こうして、2人の意見はまとまった。
いすは決して嫌なきもちなんかではないと。

まぁ現実的に考えて犬も猫も魚もATMも布団も便座もお風呂のいすも、やっぱり人間みたいな気持ちはないかもしれない。

でも、感情があっても何らおかしくないのだ。

大人になったらこんな話、きっと「くだらない」「どうでもいい」と思えてしまうんだろうな。

そう頭の隅で思いながらも目の前の疑問に真剣に考えた、大学三年生の夜。

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