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群青 一

 メメント・モリという言葉がある。
それはラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬときを忘れるな」という警句である。

 ぼくが28才の頃に綴った亡き父の思い出話をそのまま記載してみようと思う。
これからも忘れないように…きっと、ずっと…

 父は、昭和55年、ぼくが小学3年生の時に死んでしまった。  
 尼崎に生まれ、九州の小倉で幼少期を、そして佐賀のおじさんのところで育ったらしい。少年の頃は、 屋根の上から道行く人に小水をかけたりと結構ワンパク少年だったらしい。 もともと双子で生まれた父は未熟児ですぐに死んでしまうだろうと思われていたが、片兄の方がすぐに亡くなってしまったらしく、その後、父の母親もすぐに亡くなってしまったらしい。  

 父が北海道に来たのは学生になってからだ。
江別市にある酪農学園大学の一期生として獣医を目指した。学生の頃は、まだ大学周辺が未整備だったらしく花を植えたり、九州までを自転車で一人、帰省旅行などもしたらしい。
らしい、らしいと続くのは、こういった話はぼくが大きくなってから母、九州の祖父母や叔父叔母、父の友人たちから後々に聞いた話だからだ。

 父と母が結婚した頃の生活の色あせた写真を見ると、駆け出しの安い月給の中で自家用車クラウンを所有したりと結構好き勝手にやっていたように思える。すぐに維持できなくなり、自転車に変えて2年間を過ごしたらしい。

 ぼくの父との記憶といえば、いつも家には父の上司たちや獣医の同僚の友人たちや農家さんたちがお酒を飲みに来ていて、家族水いらずの夕食の団らんというのは、いつかの火曜日のシチューのときくらいしか覚えていない。
 友との語らいの好きだった父の酒のつまみは、料理下手な母が簡単につくる海苔巻きチーズやらキュウリであった。
父のご友人によると、釜揚げうどんがおいしかったと言う。

 仕事中に里山へ蝶々を取りに連れていってもらったり、夜には牛の往診に連れていってくれ、当時まだ暗い裸電球の牛舎内でビニール手袋をつけて直検しているところを見たことを覚えている。当時の北海道の酪農地帯の多くは昭和50年代前半まで三相電気の供給がなく、牛乳を冷却する現在のバルククーラーさえ未整備であった。

 山へはよく木を盗み掘りしに連れて行かれたこともあった。 大きなカタツムリや黒いケムシによく出会った。盗ってきた木は庭に穴を掘って、 水を一杯入れて植えていた。庭には高山植物コーナーもあり、そこには絶対に近づいてはいけないことになっていた。当時は、庭石や高山植物がブームだった。 庭には、父が手入れし愛したバラも毎年咲いていた。 冬には木々にヒレンジャクなどの野鳥がナナカマドの実をつまみにやってきてもいた。

 ぼくのつたない記憶は自宅を新築してからの頃のことだから、おそらく6才くらいからのものだと思う。

 ぼくの家には父の職場の後輩で野球好きな人が下宿していて、ぼくは一度クリームソーダをごちそうになったような気がする。

 小学2年生になる春休みに高野山と九州へ、母方の祖母やその知り合い、うちの家族で旅行に行ったときのことは良く覚えている。寒い高野山の空気や暗い和室、 持っていったアザミのお菓子、路端で拾った芽のでているマツボックリを父がとても喜んでくれたこと、九州で泊まっているときに寝小便をしてしまったこと、 はじめての赤い味噌汁の味の濃かったこと、宮崎県の青島海岸でのカニ獲り、生きた伊勢エビを食堂でもらったけれどタクシーの中で死なせてしまったこと、カマキリの卵塊を見つけ遠○駅まで大切に持ってきたものの下車するときに車内に忘れてしまったこと。ザボンをおみやげに学校へ行ったら、クラスメイトみんな喜んで記念写真をとった後、皮をむいて食べるときには、その中身の小ささにみんなでがっかりしたこと。

 冬に父の出張帰り中湧○駅まで母と冷え込む夜中に迎えに歩いていったことがある。そのとき父はタクシーで帰宅したらしくすれちがってしまい、翌日の朝は 起きられずに学校を遅刻してしまったこと。その冬の夜のことは、思い出すと 「雪が降る」のメロディが一緒に浮かぶのだ。

(カバー写真は、オホーツク海の流氷)

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