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「嫌い・憎い・許せない」の裏にあるもの

自分自身との向き合いという過程には、大きく分けると2種類のフェーズがあるように感じています。ひとつは、前半で訪れる自分自身への深い癒しや許しとなるようなフェーズ。そしてもうひとつは、後半に訪れる、というより、生涯をかけて定期的に“イマココ”の自分と向き合い、その都度、調律していくことになる、自分自身の魂の願いを軽やかに叶えるためにコンフォートゾーンを広げ、さまざまなことが「可能である」ということを体験していくためのフェーズ。それぞれの向き合いにおける性質が異なるため、そのためのコツみたいなものも異なるなぁと改めて感じたりしています。

今回はそんな向き合いのなかでも初期段階で迎えることになる、自分自身のなかにあるネガティブな感情との向き合いについて少し綴ってみようかと。

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以前、『沸き起こる感情はあなたの道しるべ』という記事でも触れましたが、私たちは今世、地球という惑星を選んだということは、あらゆる喜怒哀楽の感情を体験することにした、という前提があります。本来そこにいい悪いもなく、ネガティブな感情を悪いものだとジャッジしているのは私たち人間がそう設定しているだけ、です。どんな感情を思う存分に味わい切っていいものです。

なんか脱線した気がする。

自分自身のエネルギーをクリアリングしていき、生きやすい本来の自分に戻ることを決めたとき、私たちはまず自分自身のなかで癒しきれていない部分と向き合うことになります。そのときに大きな指針として私たちを導いてくれるのが、あらゆる負の感情です。嫌い、憎い、イライラする、許せない、ムカつく。これら怒りや憤りはすべて二次感情と呼ばれるもので、それらの感情の奥底には別の感情が潜んでいますが、自身との向き合いを深めるために、とても簡単に深掘りができるありがたい入口でもあります。なぜなら、誰かが嫌い、誰かが憎い、誰かにイライラする、誰かが許せない、誰かがムカつく。それらの感情が湧き上がる現象はすべて、自分自身を鏡のように見せてくれるものだからです。

相手のなかの「何が嫌いなのか」「何が憎いのか」「何にイライラするのか」「何が許せないのか」。相手という人物ではなく、それら事象や性質に視点を移すと、自分の一部が投影されていることに気づきます。自分の嫌いな部分を相手にも見つけたとき、例えば他の人にとってはイラつくポイントではなくても、あなたの目には相手のその嫌いな部分だけが誇張されて映るかもしれません。相手が自由気ままにのらりくらりと生きていることにイライラするのだとしたら、自分自身も本当はそう生きたいのかもしれません。相手に許せないと感じるところは、自分に許していないことだから。相手の一部に「わたし」を見出すのです。周囲の人たち、社会、世界を通してでしか、私たちは自分自身を深く知ることはできない。それほどまでに私たちは常に関係し合って生きているのです。

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この怒りや憤りという種類の感情はすべて二次感情と呼ばれるもので、それらの感情の奥には必ず別の感情が潜んでいます。悲しい、寂しい、孤独、みじめ、絶望。私たちはまず憤りの奥に別の感情があることに気づき、長らく直視するのを避けてきた、隠れていた感情を感じている自分を認めることから向き合いは深まります。身体はすべてを記憶しています。たとえ一時的に“ないもの”にしても、真に癒されていない感情は蓄積され、パソコンが常時起動されている状態のように、常にエネルギーが過去に送り続けられます。癒されていない状態であると知らず知らずのうちにエネルギーが消耗され続け、“時間がない”という感覚になる。その最たる理由が、この癒し切れていない感情によるものです。

幼少期は感受性の塊のようなものです。6〜7歳までの私たちは世の中のすべてのことに「YES」という気持ちで心をオープンにして生きています。そして私たちは時に心に傷を負いながらも生き延びるために、あらゆる感情に蓋をして生きることを選んできたのかもしれません。それは日々を楽しく、気持ちよく、家族や友人など周囲と調和を保つためだったのかもしれません。そのなかで押し殺してきた本当の感情に気づき、まずは認めてあげる。その過程では、ときに当時の感覚・感情が呼び起こされ、涙が伴うこともあるかもしれません。

そんなときは一度、宇宙の理を思い出してみてください。「私たちの人生はすべて自分が創り出している」ということを。ネガティブなこともポジティブなこともすべて、私たちは自ら創造しています。私たちの魂は生まれる前から、どんな両親や家族を選び、どんな場所で、どんな環境で、どんな人間関係で、どんなメンバーで、どんな配役で、どんなテーマで、どんな体験をするために物語を進めるのか、シナリオすべてを自分自身でこと細やかに選び、生まれてきているのです。嫌いな人、憎い人、許せない人も自ら配役を決め、相手の魂もあなたのためにそれら「嫌われ役」「憎まれ役」「許されない役」を快く買って出てくれて、今世で出会う約束をしています。

辛かった経験、悲しかった思い出、孤独だった記憶、惨めな思いをしたこと。そんな体験をすることを自ら選んできたのだとするならば、それはどんな美徳を知るために経験したかったのでしょうか。そんな感情・感覚を体験し、あなたはどんな魅力的な人間になれたのでしょうか。そんな辛い経験をすることを選んでまでも、あなたが得てきたと感じているものはなんでしょうか。少し目を閉じて、心に手を当てて静かに問いてみてください。当時、小さいあなたはどんなものが欲しかったのでしょうか。小さいあなたは何を願い、何を望んだのでしょう。小さいあなたは何を祈ったのでしょうか。心(heart)がズンと動く、その答えが、最も欲しかったものなのかもしれません。

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私たちは癒されていない自分を生きているときは、ときに悲劇のヒロインや悲願のヒーローを演じがちです。波瀾万丈な人生の意味を知らず、そのドラマに一喜一憂しながら、どこか翻弄されるように自分の人生を進めていきます。けれど、すべての経験が存在した本当の理由を知り、深く理解し、周囲への許し、そして自分自身への深い癒しと許しが起こることではじめて、小さな自分のパラダイムから抜け出すことができます。そのパラダイムから一度抜け出すと、それを知らなかった自分に二度と戻ることはできません。魂の青写真(ブループリント)に触れ、今度はあなたが地球という惑星でどう遊び、どう表現することを選んできたのか。そのことに向き合うことになっていきます。それが次のフェーズの大きなテーマになるかと感じています。その話はまたいずれ。

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深い向き合いを進めていくなかで、もしかすると途方に暮れることや、かつてのつらい感覚・感情、知らなかった(忘れていた)自分の悲しく、みじめな部分に直面することもあるかもしれません。けれど、それは自分自身が本来の姿に戻るための愛のある導き。いずれ、必ず、そのつらい感情や悲しみが癒やされるときはきます。永遠につらいことはないのです。陰を極めて、陽となる。そこには希望がある。陰のすべてがじつはすべて愛へ通じるものなのだと、あらゆるプロセスのなかで私たちは誰もが知るのだと感じています。




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