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米澤穂信著「Iの悲劇」を読んだ。

居住権

憲法25条の生存権をもとにした住む権利(居住権)がある。
私が感じていることは、法律をもとにした話よりもっとプリミティブな
居住権があると考える。

人はどこにでも住める

行政が住居を建てていいエリアとそうでないエリアを決める。
自ずと住める場所は限定される。

職場に近い場所、学校区、ショッピングセンターからの距離、
人は知らず知らずのうちに、自分の住むエリアを決められていく。
本当はどこでも住めるはずなのに。

Iターン

生まれた場所でも、住んでいた場所でも、ゆかりがある場所でもないのに
移住をする人がいる。
本当の意味での居住権を行使している人たち。

(ネタバレ)この著作では、居住者0人になった集落に移住者を募り、定住してもらおうと奮闘する公務員の姿を描く。
しかしながら、トラブルがつきまとう。
居られなくなり、どんどん人が去っていく。

公務員という仕事

ここに描かれている公務員像が全てではないが、どうも嫌な思いがする。
人に対してではない。
市民に対して公平性を保つためと時に無人格な立場を取り、ロボットのようになる。見ていてつまらないし、その人に対しても哀れに感じることすらある。

集落から誰もいなくなる

次々といなくなる移住者たち。
途中でこの本の結末を予見させる。
最後のどんでん返しが待っていると思って読んでいると、
予見させたものとは違うどんでん返しを期待してしまう。

どんでん返しの結末

移住を推進しているように見えていた公務員は実は退去をさせるつもりで
動いていた。予想通りの展開でどんでん返しのどんでん返しにはならなかった。
退去させ、結果的にこの集落では人は住まないとなることがこの町にとって最も良い結末だと判断したため、そのミッションに従ったという。

意図的に仕向けたトラブル

ミステリー小説に異議申し立てをしても何の意味もないが、
できる公務員たちが仕向けたトラブルで人は傷付き、嫌な思いをして、
集落を退去していく。
実際は、そんな簡単ではない。そんなトリックを暴くようなレベルで人は生きていない。もっと複雑で、もっと厄介だ。

公務員が守べき居住権は?

どこにでも住めるはずの権利は無視され、退去に迫られる。
全体のために個別を軽視した行動。
公務員だけの話ではない。

最終ページ

最後の最後まで退去までがミッションであることを知らない一人の公務員がいる。
一生懸命に移住者たちのことを考え、なんとかして定住してもらおうと必死に働く姿がある。
最終章に実は退去をしてもらうように同僚たちが仕向けていたことを知る。
「お前らふざけんな!!」と頭にくる様子はなく、困惑して終わっていく。

「そうでしょうか?」

「市民のためによく働いた」と上司から褒められるが、
彼は「そうでしょうか?」と返す。
市民のためとは、目の前にいる一人の人間、ひと家族のことだろうか?

それとも、移住者たちがいなくなることで、ここに使われる予算を別に回すことができ、結果的に喜ぶ市民がいる。この市民のためなのだろうか。

それとも、どの市民に対して予算を使うべきだと考えた市長や議会の意向を成功させるために働くことが、結果的に市民のためだと言っているのだろうか。

公務員の仕事とはなんのか?の問いが浮かび上がる。

そうでしょうか?2

移住者たちが暮らしたことは「幻だ」
に対して、彼は言う「本当にそうでしょうか」

そこに暮らした人たちは、生きていた。
暮らしとは楽しいことも、嫌なことも、マルっと全部だ。

しかしそれを何かの事象として捉えることに違和感がある。
移住者としてのデータとして結果、定住率0パーセントなのかもしれないが、
そこに人たちの営み(暮らし)を無視した政策に何の意味があるのだろうか。市民(人)のための政策なのだろうか。

人はどこにだって住める

人はどこにでも住める権利を有しているはず。
だが、どこにでもは住むことができない。
環境や人との巡り合わせなど無理が生じることもある。
どこまでをトラブルとするのか。
トラブルを避けるが故に、誰も暮らさない場所となった。

移住者支援の難しさ

このまちに住んでもらおう!への違和感がある。
来て来て!の裏には、退去してもらおう!の意図が見え隠れする。

人がすまなくなる集落。
コンパクトシティ化して、集中して住むことが余儀なくされつつあるが、
本当にそうのだろうか?
ここらでちょっと考えておかなければ、いけないことの一つのように感じてならない。

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