心がひたひたになる文章と自己紹介
私はいわゆる「エントリーシート」と呼ばれるものが苦手だった。
就活のとき、ほぼ毎日のように書いていたエントリーシート。
「私は○○のような人間です。なぜなら~~~」
という文の繰り返し、結論ファーストが絶対だ。もし結論を最後にしてだらだら書いているようなエントリーシートは即ボツだろう。
だが、私はこのエントリーシートのような文章は、自分で書いていてあまり好きではなかった。料理で言うなら、味噌の代わりに砂を入れて、砂汁を飲んでいるような、味のない文章だった。(砂汁は飲んだことはないが)
毎日砂汁を自分で作って、味のない砂汁を「はいどうぞ」と面接官に振る舞う。そしてそれが砂汁だとわかった面接官は私を落とし、味噌汁だと思い込んだ面接官は私を通してくれた。
自分で砂汁を作っているとわかっていても、作るしかない。だってそれが「セオリー」だと思っていたから。
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砂汁を量産し続けていた今年の6月中旬頃、就活の持ち駒がなくなった。絶望に暮れていた頃、逆オファー型のサイトからオファーが届いた。
「おかゆさんの幼少期の頃から思考を文章にして表現する習慣を持っており、自分の内にとどめるのではなくそれを友人に読んでもらうなどして表現力を上げてこられたことに驚きました」
というような内容がオファーに書かれていた。
そのオファー型のサイトは、いわゆる自己PRとかではなく、幼少期から現在まで自分の心に残っていることや活動などを、自分史のようにプロフィールに書くものだった。
私はそこで、小学校の時に小説を書いて友達に読んでもらっていたことや、作文を書いて弁論大会に出たり、セカオワのファンブログを高校の時からずっと書いていることなどを記載していた。
当たり前のことほど気がつかないとは、こういう時に使うのだ、と思った。
私は就活で、自分の長所として大学時代ちょっと活動的だったことや、ちょっと行ったインターンのこととか、そんなことばかり書いていた。
そのインターンは、一見派手な内容で面接官にも聞かれるが、結局掘り下げるとたいした内容は出てこない。”砂”の正体はこれだった。結論ファーストセオリーのことではなかった。
「書く」という行為は、大学時代に生まれたものではなく、小学校の時から今まで、ずっと私に寄り添ってきてくれた。
人から褒められることがほとんどない自分が、唯一
「あなたの文章が好き」
「おまえの論述は読んだ後に爽快感がある」(日本史の先生)
など、たくさんの人が声をかけてくれた「長所」だったのかもしれない。
”砂”の長所に疑問を感じながら、つまらないと思っていた就活。今の内定先のエントリーシートに"砂”は書かなかった。
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長所なのかもしれない、と思ったことを就活とともに終わらせるのはもったいない感じがした。
ある時、セカオワのファンブログに自分の高校生活について書いてある箇所を読み返すと、「文章による記録」はすごいことだと感じた。
家の近くの信号を待っていたら、セカオワの缶バッチを付けている人がいてドキドキした、とか、
部活のメンバーがみんなやめていってしまって悲しいだとか、
その時感じたことを脳直で書いているような拙い文章。
それでも、こうして書き留めていなかったら、私がこれを思い出すこともない。
今は写真や動画、様々な方法で「記録」できる。しかし、その時の感情は、やっぱり文章でしか残せないと思う。
そんなわけで、「書きたいことを書く」というモットーのもと、noteを始めるに至った。
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「まじめにポップカルチャーを語る」というマガジンについて
これは、自分が大学で学んだことの吐き出し口のようなマガジンである。
自分の所属しているゼミでは、メディア(特に映画や音楽など)において、何がどのように描かれているか、という点に着目することがよくある。例えば、ディズニープリンセスをジェンダーの観点から見たらどうか?など。
「娯楽なんて大学で研究してどうなるんだ」と言われるかもしれない。
だが、映画やテレビドラマ、音楽、小説などの娯楽は、私たちの生活に意識的にも無意識的にも流れ込んでくるものであるし、私たちの認識を構築する側面もある。
「なんで家族を描く時に愛が強調されるのか?」
「どうして近年多様性という言葉がドラマでも多くなっているのか?」
などなど、メディアで描かれているコンテンツには、一見単純そうに見えて、実は大学で授業が成り立ってしまうような深い内容がある・・・
というようなことを「SEKAI NO OWARIで『生命倫理』のレポートを書いた話」
というnoteで書いたら、思いの外反響があったのでとりあえず書いてみている、という状況である。
自分の卒論に関わってくる分野がジェンダーや家族などが多いため、そのような内容に偏ってしまうかもしれないが、ネタが尽きるまでは続けるつもりである。
何もすることがなくて暇でしょうがないときに読んで頂けたら幸いである。
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心がひたひたになる文章
最後に、私が何回読んでも涙が出そうな一節を紹介したい。
「明るく静かに澄んで懐かしい文体、
少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、
夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」
(宮下奈都『羊と鋼の森』,p.57)
作家の原民喜という人物が憧れている文体として、『羊と鋼の森』の中で紹介されている。
ひとつの「文体」の中に、少し矛盾しているようでありながら、それが成立してしまうような、「ほどよい違和感」。私はこれを「心がひたひたになる文章」と呼んでいる。
ほどよい違和感は、エントリーシートでは許されないが、noteでは許されるだろうか。
最後まで読まないとよくわからないが、それでも読みやすく、自分の中にすっと入ってくる文章。
砂のような心に、水が染みこんでいくような文章。
そんなnoteになるように、これからも精進して参ります。
おわり
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参考資料
宮下奈都(2015).『羊と鋼の森』.文藝春秋.
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