教員の教えることや教科書が学問の全てではない

 義務教育の記憶をたどると教科書の音読と解説、そしてドリルで演習。これの連続でしかなかったように思え、私はこれが現在の生活で活きているとは到底思えない。

私の読書力は教科書の音読ではなく中学以降にはまった幾多のライトノベルによって培われ、それは現在小難しい本を読み理解することの糧になっている。決して小学校以降の国語の授業によって養われたものではない。

四則演算は現在でも活用するが、公文に通っていた私としては四則演算が学校教育の賜物か否か判断できない。理科も社会も同じだ。実は教科書を通じて行われる学校教育というサービスは民間の私塾や趣味などで十分に追いつけるものであり、試験の名のもとに行われるべきものではない。

 教科書はその学問の入り口であり、同時に読むものに興味を持たせるような作りであるべきで、試験通過のために熟読するツールでは目的の違う消費財になってしまう。目的が変わるだけで記憶への残り方も大きく変わる。

受験・単位・成績、これらのための勉強は目的がそこまでしかないがゆえにそれ以降に繋がらない。テレビ等で見て「そういえばこんなの習ったな」ではかつての理解は一時的でしかなく社会で自ら価値を生産するときに必要のないものとして認定されていることになる。それでは教育の意味がない。

学校教育の目的が変化しない限り、子供たちは「なぜ勉強するのか」という問いの答えにたどり着かないままに勉強をしていくことになる。そして「言われているからしょうがない=我慢なんだ」と精神的に不安定な状況にになってしまう。このような教育というものは変えていかなければならない。そのためにまず教科書というものを変えていく必要があるのだ。

 幼いころから学校は生徒に定期的なタイミングで「将来の夢」を聞いてくる。これは決して悪いことではない。しかし、聞くだけでリアクションがないの問題のように思える。学校側はカリキュラムや指導要領というマニュアルに則って教育を行うがゆえに幅がない。マニュアルの外の関心を持っていないように感じる。よって生徒は頑張って絞り出した「将来の夢」や「趣味」「目標」などを無視される経験を積んでいくことになるのだ。

生徒に聞いたからには指導する教員は当然これにリアクションをする責務がある。それが学問への道へと繋がっていくのだ。宇宙飛行士になりたいという生徒には宇宙のことや化学のことを、花屋になりたいという生徒に対しては花そのものについてや人に花を届けることの価値や経営などを、それぞれに夢や目標には必ず先人の英知がありそれは現在ある職業である以上、価値が現在進行形で創造されており、そこには当然学問や思想が絡んでいる。

教員は教科書を通じたマニュアルの教育ではなく、より生徒が学問に興味を持つための指導や道を示すべきではないか。学校という組織があるのであれば積極的に社会と生徒を接触させ、生徒の視野を広げてあげるべきではないのだろうか。学校という組織で延々と座学をする様が私にはもったいないように思えてしかたがない。

時間は有限である以上、学校は生徒に社会における選択肢を提示し積極的に社会と関わらせるべきだ。教育とは洗脳ではない。自発的に取り組むものだ。

学校に行くいかないは当人の選択であり、ここに親も教員も介入すべきではない。まだ未熟な当人に選択肢の幅を提示することこそが親の役目であり大人の役目だ。そのうえで当人が決断したのであればそれは尊重されるべきであり、同時に当人がするかもしれない後の後悔もまた当人だけのものだ。社会で価値を生産できる人間であるのであれば、学校に行こうが行かなかろうが構わない。重要なのは当人が選択するということだ。ただ現在の学校教育では生徒諸君に教育を受ける理由を提示できているとは思えない。

 教育の重要な点はそれがどのように社会に影響を与えたかであり、その学問と社会の関係を生徒の胸を打つように描くのが本来の教科書の在り方だ。

決して試験のための知識を覚えるためのものではない。義務教育で学ぶべきは各学問がどのように社会に影響を与えてきて、それはどのような技術などに繋がっているのかを生徒たちに提示することだ。

全てが試験という目的への集約されている現在の日本の学問状況は新たな意欲に燃える学生を輩出しにくい状況になっているように思える。学問の扉は常に開かれており、学び方は多様化している今、年齢は関係なく学びたいものが学べる環境、そしてそれらが試験のためではなく己が知的欲求を充足させるためのものであることが重要なのだ。

 ゆえに学生・生徒諸君に伝えたい。あらゆる学問は教科書が全てではない。たとえつまらない授業、くだらない文章、意味不明な数式、苦悩に満ちた単語集、これらは学問の全容ではない。むしろきっかけでしかないのだ。

アレルギー反応を示すのもわからなくはない。きっとどこかで「社会に出たら使わない」と考えるだろう。確かにそうだ。私も社会に出てユークリッド幾何学など使った試しがないし、元素記号や平家物語を暗唱させられる機会もない。

しかし、社会を動かす最先端技術には教科書にも載ってないような理論や技術が使われ、それらの知的生産の果てにある社会変革は間違いなく人類社会に影響を与えるものだ。

実学は文明を進め、思想などの学問はそれらの根底に根付いている。双方共に価値ある学問であり、生徒諸君は運悪くそれに気づけなかっただけなのだ。だからこそこのような連鎖は断ち切らないといけない。

学校があらゆる学問と社会を結び付けている事実を提示し、生徒諸君の夢を叶えるための知的興奮を提供できる環境になって初めて教育は元来の形式に戻ったと思えるのである。そのような教育は現在の学校制度ではなく、より一層の教育方法の多様化によって生まれてくるではないかと愚考するのだ。


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