当たり前になった今だからこそ考える―「民主主義とは何か」宇野重規(著)
人間において恐ろしいことの一つに「慣れ」があります。
当たり前だと考えてしまうと、その事について考えなくなるものではないですか。
それこそ一人暮らしを始めた時、家事をやってくれていた親のありがたみがわかります。
世の中に当たり前のことはないのですが、日常的に経験することで慣れてしまい、当たり前でなかった時期のことを忘れてしまうのです。
「世界は誰かの仕事でできている」という言葉を使用したのはジョージアのCMだったと思います。
まさにこの当たり前について考えさせられるいい言葉です。
そして、政治においてこれは「民主主義」という政治体制に言えると思います。
来月に参院選を控える日本で「民主主義」について考えるというのは、意義のあることです。
そして本書は今や当たり前となり、人々が慣れてしまった民主主義を考えるにあたって最適な一冊です。
著者である宇野重規氏は東京大学教授です。
日本学術会議問題で任命拒否された一人という印象を持つ方もいるかもしれませんが、アカデミズムの人間として民主主義について研究を続けてきた日本を代表する学者の一人だと思います。
日本の固定化された政治の中で、民主主義について世界の議論を示しながら再考する本書は、中高教育で何となくでしかなかった民主主義への理解をさらに一歩進める内容だと言えます。
・一度は消え、そして再び現れた民主主義
民主主義の起源を遡ると古代ギリシアにたどり着きます。
現在、多くの人がイメージする民主主義とは若干違いはありますが、政治を決定するのは市民であったという点で差はありません。
しかし、この民主主義は一度姿を消してしまいます。
民主主義が消えた要因として古代ギリシアにおける「デマゴーグ」(今でいうとポピュリスト)の存在がありました。
民主主義の担い手である市民が情緒的な行動によって統治が崩壊し、ギリシア社会の凋落と共に民主主義もその姿を消してしまいました。
民主主義はその後、長きにわたる歴史の結果として復活を遂げます。そして、今再び民主主義は危機にあると言われています。
民主主義とはその担い手である市民のいく先によって、消えもしますし、復活もします。
全ては担い手である市民次第です。市民の大多数が向かいたい方へ民主主義は進んでいきます。
これを「多数者の暴政」であるとトクヴィルは批判しました。
また、少数の意見について開かれているべきであるという意見は、民主主義に関連する思想史の中で幾多論じられてきました。
再び危機にあると言われている民主主義において、著者は民主主義を維持していくためにどうするか、市民はどうあるべきかを考え、そして民主主義の在り方について個々人が考えるヒントを与えてくれています。
・委ねられている。そして慣れきっている
民主主義は市民にその決定を委ねているということです。
それこそ、来月行われる参院選においても、有権者である市民は自身の意見を代表する人を選び、投票します。
政党支持率を見ますと自民党が一番人気、次に立憲民主党が続くといういつも構図が続いています。
一時期は好調だった日本維新の会も緩やかに影を潜め、今回の参院選は自民党が圧勝するという予想が主です。
私たちは自民党政治に慣れています。それを維持する民主主義に慣れています。
決定を委ねられていて、これまでの決定に慣れきっている。この構図はこれまでもこれからも続くのでしょう。
20世紀後半、ファシズム・ナチズムの経験から情緒的な「大衆」の存在に危機感を感じたエリートは今、現状の維持のために大衆が情緒的にならないように苦心し、大衆について考えています。
そして危険な政治体制にならないように大衆に理性的であれと懇願するのです。これは皮肉に見えます。
大衆は情緒的でしょうか。きっとそうでしょう。
ではエリートは?同じく情緒的な部分もあることでしょう。
私たちは慣れきっています。それぞれの考え方に、状況に、だからこそ考え直すことが大事なのです。
当たり前の民主主義、エリートが危険視した大衆、大衆民主主義、エリート支配、一度氾濫するこのイメージたちを整理する必要があります。
そして、本書は社会の根底にある民主主義の制度・理念を考え直すきっかけだと言えるのです。
当たり前も、常識も、ふと考えてみるだけで、これまで見えなかった何かに気づけるかもしれないのです。
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