課程博士の生態図鑑 No.17 (2023年8月)
美のOSについて考える会
プロジェクトの概要
今月から、3つ下(修士1年生)の後輩と2人で、勉強会のプロジェクトを開始した。プロジェクト名は「美のOSについて考える会」。
基本的にこの勉強会では、選定した本を各々1ヶ月かけて読み、その後ディスカッションを行うことになっている。僕と後輩のターンを交互に繰り返し、ターンが回ってきた人がその月に読む本を決める。また、ディスカッション内容は音声録画し、それを自動で文字起こしする。そして Chat GPT に内容を要約してもらい、Notionに記録していくという流れ。今のところ勉強会はクローズドで行う予定だが、第1回目をやってみた感じ相当面白かったので、今後オープンにするかもしれない。
発足の経緯
ところで、なぜこの勉強会をやろうと思ったのか、その経緯を書いてみたい。
恥ずかしながら、最近になってデザイン史を改めて真面目に勉強するようになった。デザインを学ぶ学生がまず通るのが、18世紀から19世紀にかけてイギリスで起こった産業革命から始まるデザイン史観だろう。それがアーツ・アンド・クラフツ運動が始まる要因になり、なんやかんやあって(適当ですみません)ドイツのバウハウスに繋がり、いわゆるモダンデザインというインターナショナルでユニバーサルな潮流が20世紀に確立される。
この潮流は文字通り世界中に広まり、私たちが住む日本も大きな影響を受けている。ふとスマホを見ると、デフォルトでサンセリフ体やゴシック体の文字が横組でグリッド上に整頓されていたり、イラレでテキストを配置しようと試みても、同じような文字が横組で配置される。これらは、ほとんどが20世紀の中頃に理論立てられた、スイススタイルというものの影響を受けていると考えられる。世界で最も有名な書体の一つである Helvetica もこの時期にスイスで生まれた。
では、なぜスイスからこのようなユニバーサルな書体が出てきたのだろうか。
理由としては、書体と言語の特性が大きく関係しているからである。designing の連載シリーズである「デザイン読書補講」の中で、この関係について扱っている記事があったので、詳しく知りたい人はこれを見てほしい。
この記事では、イタリア語とドイツ語の比較を中心に、言語的特性と書体の関係を紹介していた。どうやら、イタリア語の方が単語が比較的短く、ドイツ語の方が長いらしい。そして、ドイツ語の方が大文字の出現率が高い。これは、イタリア語の方が誌面全体に対する余白が多く、ドイツ語の方が少なくなることを意味している。
なので、イタリア生まれの Bodoni という書体はイタリア語の持つ視覚リズムに最適化されており、広い余白をダイナミックに活用するためにコントラストが強く、黒味が誇張された造形となっている。そんな背景を持つ Bodoni をドイツ語に適用すると、視覚的に強くなりすぎてしまい、不適合を起こしてしまうという。まとめると、言語にはその言語特有の視覚的濃淡があり、それに合わせた書体が開発されてきたのだ。
そして、スイスには公用語が4つ存在する。ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語だ。現在ロマンシュ語は衰退しつつあるらしいが、複数の言語が日常的に飛び交う生活が普通なのである。
なのでスイスでは、この4言語を併記するための書体を開発する必要があったのだ。さらに20世紀は国際化の時代であり、誰にとっても馴染むデザイン(実際には平均的なユーザーを想定し、エクストリームな人たちは捨て去られているのだが)が求められていた。そんな時代的背景も重なり、スイスにて Universe や Helvetica などのフラットでユニバーサルな書体が生まれた。
話を元に戻すが、国際化の影響で現在私たちを取り囲むものの多くはモダンデザインの影響を受けており、それらは土着性を排したフラットな思想で開発されている傾向が強い。今紹介した例はあくまでタイポグラフィという、デザインの中のほんの一部を抽出しただけだが、他のデザイン領域にも言えることだろう。
さらに、モダニズムの特徴の一つとして、雑誌の発刊や展示会などを通した啓蒙活動に力を入れていたという点がある。バウハウスやウルム造形大学などが代表的な例だ。日本だとグッドデザイン賞がそれにあたるだろうか。言ってしまえば、私たちはトップダウンで定義された美しさの中で生きているということだ。大袈裟な主張というのは重々承知だが、デザイン史を学んでいる中でそんなことを思った。
なので、「美」という概念に対してOSレベルから議論するような場が欲しくなったのだ。やっぱり1人で学んでいるとどうしても視野が狭くなってくるので、壁打ち相手として後輩を巻き込んだ結果、勉強会という形式になった。
民藝とは何か
そんな経緯で始まった勉強会だが、第1回目は「民藝とは何か」という本について扱うことにした。民藝については最近個人的に興味があるトピックだったというのもあるが、美のOSについて考えるためにはもってこいのテーマだと思ったのだ。というのも、20世紀初頭に柳宗悦を中心として推し進められた民藝運動では、技巧を重視した上等な品ではなく、無名の民衆によって生み出された雑器にこそ美を見出そうとする動きが展開されていたので、時代的にも西洋のモダニズムの勃興と対比できて面白そうだと感じた。
この note では、僕がこの本を読んだ感じたことや、後輩とのディスカッションで興味深かった部分などをちょっとだけ取り上げたいと思う。
用の美と直観
民藝を特徴づける概念として、用の美、廉価、無想、直観など、いくつかのキーワードが存在するのだが、はっきり言って言語だけで整理するにはかなり難しい。
特に、用の美という言葉を理解するのが難しかった。
上記の引用文のように、本書の中で民藝、あるいは工藝の美について説明する際、「実用」だとか「用途」という単語がたびたび登場する。この文章だけを読むと、工藝は功利的に機能するものでなければならず、そうでなければ美しくないと言っているように感じる。要は「形態は機能に従う」みたいな話かと思ったしまったのだが、実際にはそうではなかった。以下の文を見てほしい。
ここで書かれているのは、用というのは単に機能すれば良いということではなく、心理的も近い存在でなければならないということだろう。民衆が当たり前のように、愛着を持って生活に取り入れることができる存在。だから廉価でなければならず、大量に作られなければならないのだ。「用の美」というよりかは、「用=美」という感じな気がする。
また、柳宗悦は、「直観」によって民藝的な美を体感し続けた結果として、このように用と美が密接な関係にあることを見出したという。
「直観」とは、知るよりも先に観ることであると柳は言うが、もう少しこの言葉を理解するためには、西田幾多郎の思想を参照する必要があるかもしれない。
西田は「絶対矛盾的自己同一」の中で、モノを観察する方法について、外側から見る方法と、内側から見る方法の2つがあると述べている。前者はある立脚地からモノを観察するのに対して、後者は内側から見るので、着眼点などというものは少しもなく、モノ自身になってモノを観察(あるいは体験)すると述べている。これを直観(Intuition)というらしい。西田哲学は非常に難しいので、僕の理解が合ってるかはわからないが、とりあえず話を進める。
つまり柳宗悦は、日本各地(最初に衝撃を受けたのは朝鮮半島の品らしいが)の品々の中に入り込んで体感したところ、無名の人々によって作られた雑器に美しさを感じる場面が多く、それを後から言語化した結果、用の美という概念に辿り着いたのだろう。
そしてこの用の美という概念が少々曖昧且つ複雑であり、カチッとした定義がなされないのは、直観の性質ゆえのことだと思う。これは個人的な解釈だが、そもそも直観というのは、自然そのものを存在論的に観ることである。そして自然というのは決してMECEではない(と思う)。分解して分類しようと試みる時点で直観ではないのだ。
なので柳宗悦が直観によって見出した、民藝の美を言語で整理することは難しく、あたかも矛盾してるように感じる説明になってしまう部分がある。身体知を言語で理解するのは困難なのだ。
「民藝とは何か」という本は、同じようなことが何回も書かれており、捉え方によっては非常に間延びしてるような印象をうける。しかしこれは、言語だけで理解が難しい民藝という概念を、読者の身体に染み込ませようとしてくれた、柳なりの計らいのように感じる。
無想と愛着
用の美や直観とも通じるのだが、ここで僕の経験もまじえて、無想という概念について取り上げてみたいと思う。
柳宗悦は、民藝について語る際、たびたび「無想」や「必然」という言葉を用いる。作為を超えたところにこそ美しさが宿るということだろうか。
特別な品は、作為的に技巧を凝らすあまり、生活からかけ離れたものになってしまう。イメージとしては、手より先に頭が働いている状態。対して、民藝品である普通の品に作為はない。頭より先に手を動かすことで、必然的にモノが出来上がる。
この引用文を見ると、民藝品が生成される過程を単純作業の結果として説明しているように見えてしまう人がいるかもしれない。僕もこの文章を読んだ時にそう感じた。人間が型に吸収され、機械化されるイメージ。では無想というのは、機械になることとどう違うのだろうか。
このことを理解するために、先日陶芸教室に行って、実際に自分のお茶碗を作ってみることにした(前からやりたかったことでもあるが)。教室に行くと、まずろくろを回す際のスピード調整、手の形、水分量など、一通りの説明を陶芸教室の先生がしてくれた。その後、僕がイメージしていたお茶碗を作っていく作業に入るのだが、これが全然うまくいかない。ろくろをちゃんと回すのは初めての経験だったので、最初からうまくいくはずもないのだが、思ったような形に全然ならない。手の形はできているはずなのに、粘土の形はどんどん歪んでいく。
これは僕なりの工夫なのだが、目を閉じて素材のザラザラ感や回転速度などを感じながらやると、意外とうまいことできるようになった。これは僕が初心者なので、目で見てるイメージと、手の感覚が全然合ってない証拠だろう。なんとなく、型(自分が作りたいと思うものや、レクチャーされた作業工程)と自分の感覚や身体が自然と歩み寄っているような感覚があった。もちろん、一度体験しただけなので、ほとんど何もわかってないに等しいのだが、本を読んだだけではわからなかった部分がちょっとだけ補完できたような気がした。非常に面白かったが、上手くできないことへの悔しさも感じたので、またやろうと思う。
民藝品は、それを必要とする人々によって日々大量に作られる。実際に自分の茶碗を作ってみて感じたのだが、先代が築き上げてきた型を後継が身体化する際、型は少しだけ後継の人に合わせて変化するのではないか。先ほども言ったが、自分が型に歩み寄ると同時に、型も自分に歩み寄ってくる気がする。身体は人によって異なるので、型を100%完全に再現することはできない。守破離とはそういうことだと思う。お互いに歩み寄るからこそ、人とモノの距離が近くなり、愛着が生まれるのだ。その距離が近ければ近いほど、作為は無くなっていき、無想の状態に近くなってくる。これは機械ではなく、間違いなく人間の営みだ。また、柳は本書の中で、「作るのではなく生まれる」という表現を用いていたが、今はなんとなくこの言葉の意味がわかる気がする。
面白いと思った文献や事例
日本民藝館
駒場東大前駅から10分ほど歩いた場所にある日本民藝館に行ってきた。
この施設は柳宗悦の自邸隣に建てられており、彼自身が初代館長も務めていた。現在はプロダクトデザイナーの深澤直人が館長をしている。
日本民藝館には、柳宗悦の審美眼を通じて収集された日本各地(朝鮮のものもあるが)の民藝品が展示されている。展示を見ていて思ったのだが、仏像や装飾品など、別に生活に必要なものだけが置かれているわけではない。
やはり「用」というのは、生活において機能するものだけを指す言葉ではなく、心理的な距離感が近く、愛着を持てるものに対して使われる言葉なのだと、民藝館に赴くことで改めて実感することができた。
テート美術館展
新国立美術館で開催されている、テート美術館展に行ってきた。この展示会は、イギリスにあるテート美術館のコレクションから「光」をテーマとして作品を厳選し、それらを展示した企画展である。
草間彌生など日本の作品も展示されていたが、基本的には西洋のものがほとんどだったので、ちょうど同じ日に行った日本民藝館とのギャップをものすごく感じた。しかし、18世紀末から現代までの作品が取り扱われているので、一概に「こんな傾向があった」とは言えない。
個人的には、印象派(特にクロード・モネ)あたりの作品が好きだ。パキッと被写体を捉えるような作品は「ここを見なさい!」と指示されているようでいい気分はしない。対して印象派の作品は、風景の空気感を捉えるために、フワッとした場の印象を捉えている。なので明確な被写体というものがない場合が多く、見る側の自由が保障されている気がするので、見ていて楽しい。また、モネは日本からの影響を強く受けた人物の1人だったらしいので、日本人である僕にとって違和感がなく、心地が良かったのかもしれない。
あと、ジュリアン・オピーというアーティストの風景画がとても魅力的だった。彼の作品は視覚的な要素を極限まで省略したフラットさが特徴的で、人物画がとても有名であるが、風景画は見たことがなかった。
人物画とは打って変わって、遠目で見ると非常にリアルに見えるのだが、近くで見ると確かに視覚的な要素がかなり省略されていることに気づくという、なんとも不思議な体験だった。
「光」をテーマにしたテート美術館展は非常に刺激的で面白かったが、谷崎潤一郎の陰翳礼讃を読んでから行くと、もっと面白いかもしれない。
6月の日記でこの本について取り上げているのだが、基本的に東西における光や影、環境の捉え方の違いについて記述されてるので非常に勉強になる。
DESIGN SCIENCE_01
2022年4月1日に設立されたばかりの一般財団法人 THE DESIGN SCIENCE FOUNDATION が刊行した本。
デザインとサイエンスの繋がりについて探究するための本らしい。千葉工業大学のデザイン科学科にいた身としては、非常に興味深いプロジェクトだと思った。
ちょっと個人的な話になるが、僕はデザイン科学科という組織にいたものの、むしろサイエンスじゃない部分に魅了されてきた人間であり、デザイン科学というものが成立するのかすら日頃から懐疑的に捉えている立場である。サイエンスというものを自分なりに定義するならば、「物事に通底する法則を記述し、一般化すること」だと思っている。デザインというのはかなり身体的な部分が多いので、一般法則というのを導き出すのはかなり難しいし、導きだせたとて面白いとは思わない。かといって、完全にマジカルな存在でもない。正解はないが不正解はある気がしている。
そんなモヤモヤ(最近民藝について考えているせいかも)を解消してくれるのではないかと思い、とりあえずこの本を読んでみることにした。
この本はデザイナーに限らず、人類学者や小説家、精神科医など、様々な領域の人によって書かれてる。デザインとサイエンスをパキッと定義してから論旨を構築していくというよりかは、各人の主張を総合的に捉え、読者側にデザインサイエンスを探究させる意図を感じた。
デザインやサイエンスの定義をしっかりとしてから語る人もいれば、どちらにもほとんど触れない人、触れているようで触れてない人など、様々な語り方が見られて非常に勉強になった。個人的には、面出薫さんの章が一番面白かったかな。人間の視覚に関する仕組みをロジカルに説明する部分と、どのような光が美しく、また心地よく感じるのかという感覚的な部分を滑らかに繋いでくれていた。
この本を読み終えてみて、デザインのサイエンスじゃない部分が面白いというよりかは、デザインとサイエンスがうっすらと繋がっている部分が面白いと感じていたことに気がついた。言い換えると、「マジカルとサイエンスのあわいとしてのデザイン」という感じだろうか(それっぽいことを言っているが、ほぼ何も言えてない)。
また、ちょっと批判的な意見になるので実名を出すことは避けるが、この本の著者の中には、ほぼほぼマジカルなものとして語っている人もいたし、完全にサイエンスなものとして淡々と語る人もいたが、どちらも僕は好きじゃなかった。その中間的な語り方をしていると感じたのが面出薫さんであり、彼の章がとにかく面白かったのだ(櫛勝彦さんの章も面白かったが)。僕の理解力が足りていないというのもあるので、読む人によって印象は変わる部分ではあると思う。
僕は普段大学院でデザインを研究しつつ、それを人に教えたり実務に応用したりする仕事をしているので、デザインとサイエンスの関係は今後も長いこと向き合うことになりそうだ。本当は全部「かっこいいから」で済ませたい気持ちもちょっとあるんですけどね。
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