課程博士の生態図鑑 No.15 (2023年6月)
6月は、主に神田外語学院での非常勤講師として受け持つ授業が終了し、そのあとは国際学会に出すための論文をひたすら書いていた。現在は指導教官の先生らにチェックしてもらっている最中である。
神田外語学院での取り組みは今回の note で触れる予定だったが、何らかの形(学会発表など)でまとめようと決め、今はデータの分析や解釈方法を模索しているので、来月以降に note で触れようと思う。国際学会関連の研究に関しても、結果が返ってきたら書こうかな。
なので今回は、隙間時間でちまちま読んだ本のことや、遊んでたことについて書くことにする。
陰翳礼讃を読んでみた
ふと、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」について興味を抱いた。デザインを学んでいるなら、一度は読んだ方がいいとされている本の一つだ。恥ずかしながら全く触れたことがなかったので、読んでみることにした。
この本は、東西における光と陰影の捉え方について考察した本である。ちなみに、designing というウェブメディアが連載している「デザイン読書補講」というシリーズにてこの本が取り上げられているので、合わせて読むといいかもしれない。
陰翳礼讃は明治維新から約60年ほど経った昭和初期に執筆された本である。この時期の日本の人々は、急速に発展した都市での生活に慣れた頃だろうか。言い換えると、西洋化を受け入れ、むしろ西洋的な生活こそがスタンダードになりつつある頃だとも言える。そんな時代に対して、谷崎はとてつもない違和感を感じていたのだろう。
そんな違和感を美しく言語化したのが、「陰翳礼讃」だと僕は思う。いや、違和感どころか、怒りに近い感情で筆を執ったに違いない。基本的には淡々としたトーンで文章が綴られているのだが、要所要所でなんとなく語気が強くなっているのを感じる。今の時代だったらSNSで大炎上してる可能性がある表現も見受けられたので、谷崎の内に秘めたる怒りのようなものが読み取れた。
谷崎は決して西洋的なものが嫌いなわけではなく、これまで積み上げてきた歴史を切断し、離散的な進歩をしていく日本に対して違和感を抱いたのであろう。もっと滑らかに新たな文化を創造していきませんか?という提案のようにも聞こえる。
では、東西の違いとは何なのか。
東西における建築様式の違い
例えば谷崎は、日本と西洋における建築様式の違いについて以下のように触れていた。
様々な要因により、日本は傘のような屋根を建築物に覆い被せるしかない環境下にあった。しかし、日本人というのはその暗がりの中でいつしか美を見出したのだという。暗いからこそ、現実世界からある種隔離され、想像の世界を広げることができるのだろうか。
ただでさえ屋根が大きくて暗い環境なのに、障子という光の濾過装置を設置して光を弱めたことからも、いかに日本人が暗闇の美しさに魅了されていたかがわかる。春夏秋冬や天候すらも消え失せるほどの暗い環境では、外部の世界とは全く異なる時間が流れていたに違いない。
ちなみに僕は、集中したい時にはカーテンを閉めて部屋を暗くする。遮光カーテンではないので晴れの日は十分に暗くできるわけではないが、雨の日は最高の暗さになる。さらに、その暗さの中でお香を焚くと、いつもとは異なる時間感覚の中に迷い込むことができる気がする。集中とはどういう状態かを考えると、現実の時間感覚を忘れ去ることなのではないか。そのために暗さは一役買っている。
実際に谷崎は、古来の俳人が暗闇の中で無数の題材を得ているに違いないと述べている。それくらい暗さというのは重要なのだ。外部の情報量がいい具合に調整され、脳の中にある情報と向き合うことができる。僕の感覚では、現実と非現実が半々くらいになる程度の暗さがちょうどいい。
東西の環境の捉え方の違い
また、照明という観点からも東西の違いを論じていた。西洋ではかつて燈台にキャンドルを灯し、光源がはっきりと見えるような形式を採用している場合がポピュラーだった。しかし、日本において広く用いられていた行燈などの照明は光源を外部に見せることはなく、ぼやっと周囲に拡散する。西洋のような直接光では、照らすものと照らされるもの、光を与えるものとそうでないものを二分化し、光と闇がくっきりと分けられているのに対して、拡散光はそのような二分化をせず、光と闇の境界が曖昧になる。
デザイン読書補講の中で、西洋は environmental 的な環境で、日本は ambient 的な環境の中で生きていたと考察されていて、なるほどなと思った。前者は環境を人間の観察対象としているが、後者は環境と人間が同化している状態を指す。
この文を読んでみると、羊羹を人と切り離し、ただ認識の対象としているのではなく、室内の暗闇と、その中にいる自分とをぼやっと拡散光のように一体化させている様子が感じられる。まさに ambient 的な環境と言えるだろう。引用文の中では羊羹が取り上げられているが、食器などの道具も、暗がりの中で美しさが発揮するようになっているらしい。谷崎曰く、漆器は闇を条件に入れてこそ輝くという。漆器の黒や茶は、周囲の闇を堆積した色味を帯びながらも鈍く光り、周りの部屋、それを持つ人間と一体となる。
一般的な日本家屋にはなかっただろうが、金襖や金屏風なんかも、暗闇を想定して作られていたという。僕は正直、この本を読むまでは趣味の悪い派手好きな金持ちが好むものだと思っていたが、それは現代の明るさを前提とした考え方だからだろう。暗闇の中で金襖や金屏風は、幾度も濾過されて室内に入ってきたわずかな光を鈍く反射することで美しさを表現しており、むしろ派手さとは真逆の趣があったに違いない。
このような鈍い光の落ち着きを理解するには、自身が眠りにつく状況をイメージしてみるといいかもしれない。眠りにつく時、直接照明ではなく間接照明をつけたい人がほとんどだと思う。闇の中では、ぼやっとした鈍い光の方が落ち着く。では、なぜ間接照明のような拡散光が落ち着くのだろうか。拡散光は、その光の曖昧さ故に、自己と環境の境界が溶けて渾然一体となり、独特の時間感覚を味わえる。また、眠りにつくというのは、現実世界から非現実の世界へとゆっくり境界をまたぐ行為であり、拡散光はその橋渡しにちょうどいいとも捉えられるだろう。
先に述べたように、その光の鈍さはなにも眠りにつくときだけではなく、集中したり、創造性を発揮する際にも相性がいいだろう。もちろん、明るい方が集中できる人もたくさんいるとは思うが。
様々な暗さ
ここまで日本特有の建築様式、光と闇の捉え方などから、暗さという部分にフォーカスしてきたが、この暗さというのは視覚的な話だけではなく、静けさや、汚れなども意味している。谷崎はトイレを例に挙げ、以下のようなことを述べていた。
ここでは、暗さという言葉と、不潔という言葉を結びつけている。日本人は不潔である場所を不潔なまま扱うのではなく、むしろ雅致のある場所として扱っていた。
そして、なぜ日本人は汚れを活かす方向に走ったのか、それはやはり、物理的な暗さが要因だという。西洋の人たちは日本よりも明るい環境にいたので、ちょっとした汚れが許せないのだ。暗い環境であれば、汚れている部分とそうでない部分の境界は曖昧になるので、そもそもの汚れの見え方が西洋とは違っていたのだ。
また、谷崎は肌の色の違いという観点からもこのあたりのことに関して考察していたが、なんせセンシティブな話題であり、現代を生きる人たちからすると、かなり口調が荒々しくもあるためこの記事では取り上げないが、かなり面白い視点だなと思った。気になった人は是非手に取って読んでみてほしい。
谷崎は陰翳礼讃を通じて、明るい世界で生きる僕らに対し、明かりを消してみる提案をしていた。そして、その明るさや暗さというのは、電気のことかもしれないし、多すぎる情報のことかもしれない。ここ最近、AI 技術によって1年前とは比較にならないぐらいのコンテンツが生み出されるようになった。まさに明るすぎる状態と言えるだろう。
それに AI アートって、どうも作り上げるまでの過程やバックグラウンドが軽視されているように思う。前回の note でも少し触れたが、僕らは作品を楽しむ時、視覚や聴覚から得られる情報だけを摂取して感動しているのだろうか。作り手がどのようなことを考えてその作品を作り出したのか、その作り手は今までどんな作品を作ってきたのか、その作品はどういった歴史の上に成り立っているのかなど、連続的なコンテクストを考慮した上で作品というものに惹かれるはずだ。作品というのは単体で成り立つものではなく、作者や時代の流れ、さらにはそれを鑑賞する人などと一体となり、ambient 的な形で成り立っていると僕は思う。
作品達とちゃんと向き合うためには、谷崎が言うように少し明かりを消し、見えない部分に対して思いを馳せる必要があるのかもしれない。
マイナンバーを入力するとロゴが生成される仕組みを作ってみた
ふと思い立って、p5.js を用いて、マイナンバーを入力するとロゴが生成される仕組みを作ってみた。JavaScript に触れたのは初めてだったが、Chat GPT に相談しながら作ったら割とすぐに作れた。チマチマやってたけど、2週間くらいでとりあえずは形にできたと思う。まだロゴの見た目やコードは洗練されていないので調整は必要だけど。
細かい作成意図については、ポートフォリオでまとめてみた。普段は論理的にアイデアを考えるタイプだが、久々に直感的にモノを作った気がする。問題解決みたいに、いかに役に立つかを一切抜きにして、ただ自分が作りたいと思うものを形にする作業はやっぱり楽しい。
面白いと思った記事や事例など
Storytelling
ストーリーテリングの重要性について書かれた記事。ストーリーが大切であることは至極当たり前なことだと思うが、それがなんで重要なのかを丁寧に言語化してくれている感じ。ビジネスにとってどれだけ有用かというだけではなく、個人の人生にとってどれだけ重要なスキルかも語られていて良い。異なるスケールで物語を展開すると興味深いものに聞こえる。これもストーリーテリングの妙技なのかね。
軽いエッセイ的なものなのかと思いきや、いくつかの事例や論文などもしっかり参照して論じている。参照先の正確性はともかく、普通に読んでいて面白かった。デザインについてある程度勉強した人も、読んでみてもいいかもしれない。
The 2023 Lost & Found Index
Uberが、2023年に乗客が車の中に置いていった面白い忘れ物のリストを公開していた。多分アメリカ限定の忘れ物リストだと思う。最近キュレーションについて調べていた身としては、かなり面白いキュレーションの観点だなと思った。トイプードルやボーリング用の雑巾、一輪車など、なぜそんなものを忘れるのかと、思わず笑ってしまう。
どんな忘れ物が増加傾向にあるのかも書かれており、2023年はガンジャグッズやNintendo Switch、入れ歯などの忘れ物が多かったらしい(入れ歯は毎年多いらしいが)。
こうしたリストを一般に公開することで、ただ作品的に忘れ物を並べるだけでなく、一応乗客が自分の忘れ物を思い出して取り戻すチャンスも提供しているという。インタラクティブな展示方法(と言っていいかわからないが)だと思った。忘れ物達のステータス(放置/連絡あり/返却済み。みたいな)も表示されたらかなり面白くなりそう。
デザイン思考が生んだ、問題解決というデザインの「誤解」
designing の記事。デザイン思考という言葉が一人歩きしてビジネス色が強くなった一方で、本来のデザインとはかけ離れた解釈をされているのではないか、といったことについて扱っていた。デザイン思考は以前から功罪あると思っていたが、この記事は改めてそれを言語化してくれた感じがする。
そもそも、世の中の多くのデザイナーがデザインに興味を持ったきっかけは、「問題解決に有用だから」という邪な動機だったのだろうか。いや違うだろう。憧れのデザイナーが生み出したものや街の中、本の中で出会った美しい造形や言葉に魅了されたのがきっかけではなかったのか。その魅力は問題解決とは全くと言って良いほど関係がない。デザインを論理ではなく、もっと直感で捉えることも改めてしていかないといけないと思った。少なくとも、Apple のデザイナー達は、回りくどいユーザーテストなんかよりも、自分たちの直感を信じていたに違いない。
僕は普段研究をしているので、デザインを学術的にどう扱うべきかを考えるばかりだったが、この記事は自分がデザインに対してどう向き合えばいいのかを、改めて思い出させてくれた。さっき紹介したマイナンバーのロゴを作ったのも、この記事がきっかけの一つではある。
デザインのよみかた
最近ハマっているポッドキャスト番組。エクリというメディアの編集長を務める大林寛さんと、帝京平成大学で助教している中村将大さんが、デザインの基礎課程をプロトタイピングするプロジェクトである「デザインのよみかた」を展開しており、その一環としてのポッドキャストがこれ。
僕はポッドキャストから入った身だが、二人が話していることがより精緻にまとめられているサイトも存在する。ポッドキャストは結構軽いノリで聴けるが、このサイトはまぁまぁ骨太で、これはこれで良い。かなり勉強になる。相当良質なので、大学の後輩にオススメしまくっている。
ではまた来月。
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