見出し画像

課程博士の生態図鑑 No.14 (2023年5月)

※ サムネイルはジェームズ・マクニール・ホイッスラーによる「Variations in Flesh Colour and Green - The Balcony」という作品。

5月は非常勤講師の仕事がかなり忙しく、あまり研究に時間が割けない日が続いてしまった。しかし、自分が今まで学んでいたことを、生徒という若い存在に教えるというのはなんとも不思議な気分だ。ちょっと前まで自分が生徒側だった(今も生徒側だけど)はずなのに、こんなことになるなんて完全に想定外である。前までは「自分さえ理解できればいい」というような考えだったが、そうもいかなくなったので、学びの質を改めなければいけなくなってしまった。ちなみに自分が担当している授業は6月の中旬で終了なので、詳細は来月の note でまとめて書こうと思う。


創造行為とキュレーション

選択と生成の関係

さて、今回は「創造行為とキュレーション」というテーマを中心に取り上げてみたいと思う。昨今、AI 系のサービスが世界中を席巻している中で、人間に必要な能力とは何かを「生成する力」ではなくて「選択する力」に求める言説が増えてきている。しかし、この2つはどう違うのか?本当は同じ行為なのではないか?という考えに至り、キュレーションという行為に注目し、そこから生成と選択の関係性について考察してみた。

そこで、「キュレーション 知と感性を揺さぶる力」という本を参考に色々考えてみたい。

そもそもキュレーションとは、博物館や美術館で展示物を整理して見やすくすることであり、それを行う人のことをキュレーターと呼んだりする。

そしてこの本は、長谷川祐子というキュレーターによって書かれている。ちなみにこの方は東京都現代美術館の参事であり、東京藝術大学大学院の教授でもある。過去には金沢21世紀美術館の立ち上げにも携わっていたらしい。つまり、誰よりも生成されたものと真摯に向き合い続け、それらの中から何かを選択してきた人だと言える。他にも実績を挙げ出したらキリが無い。きっとこの本を読めば、生成と選択の関わりについて何か見えてくるのではないかと思った。

先ほど、キュレーターのことを「博物館や美術館で展示物を整理して見やすくすること」と説明したが、著者はキュレーターのことを以下のように説明している。

キュレーターの仕事は、視覚芸術を解釈し、これに添って、芸術を再度プレゼンテーションすること「power of display (presentation)」、これが基本といえる。

キュレーション 知と感性を揺さぶる力

power of display という言葉は、Mary Anne Staniszewski の本である「The Power of Display: A History of Exhibition Installations at the Museum of Modern Art」から来ているのだろうか。この本は読んだことがないので、詳細はよくわからないが、とにかくキュレーターの仕事は価値の再発見であると解釈できそう。そしてそれを提示する場として美術館がある。あとで触れるが、美術館というのはホワイトキューブである必要はない。

といいつつも、キュレーターという仕事が明確に形になってきた19世紀後半から20世紀前半においては、やはりキュレーションとホワイトキューブは密接に関係していた。

18世紀以前、すなわちプレモダンの芸術は、教会や寺社、支配者階級の城や邸宅などの場のコンテクストや集合意識、社会の共同幻想によって支えられていた。つまりそこでは共有できる芸術についての物語(歴史)は、宗教や権威、民間伝承などによって支えられていたのだ。
媒介者としてのキュレーターが必要となったのは、19世紀以降、近代芸術が個に委ねられ、ホワイトキューブ空間の中で自立させられるようになってからである。19世紀末から20世紀前半にかけて発達した、近代美術館とホワイキューブの出現は、それまでの歴史や伝統をいったん切断し、近代という新しさを価値とする思想を背景にしていた。

キュレーション 知と感性を揺さぶる力

引用文からもわかる通り、ホワイトキューブには、それまでの歴史や伝統を一旦細切れに切断してフラットにしてから、作品を編纂することができるという特性があった。また、いわゆるモダニズム的な思想が登場してきたのも19世紀あたりからだが、この時代の一致は偶然ではないと思う。モダニズムというのは、徹底的に純粋性を求め、土着性を無くし、全ての人が同じ箱に収まるような思想を持っていた。少し大袈裟な表現なのでだいぶ語弊がありそうだが。とにかく、キュレーターという仕事の登場とともに出現したホワイトキューブと、モダニズム的な思想は何か通じるものを感じる。

また、近代芸術という概念が成立したのも、キュレーターのおかげかもしれない。例えば、Alfred H. Barr Jr. という MoMA の初代館長はある展示会にて、デュシャンの登場から近代芸術がどのように進化してきたのかを、進化の系統樹のような図を用いて可視化した。その中には建築や写真、映画など、今まで美術館の収蔵品とはみなされていなかった表現などのを系統樹に組み込み、これらを近代芸術として価値づけていったという。

芸術作品は展覧会の文脈によってその価値や意味が変わってくることがある。また芸術作品ではない、博物館的オブジェや日常品が混在することによって、キュレーションの中で別の意味をもってくることもある。文脈を与えられることによってただのボールペンにも別の《意味》が生じるということである。デュシャンが『泉』と題して便器をそのまま展示したことは、美術展で《作品》の文脈に置かれることで意味を付与する行為といえる。キュレーションはこれを含めてより複雑な文脈の編み込みをしていく行為ともいえる。

キュレーション 知と感性を揺さぶる力

キュレーターは点在してしている作品たちをある文脈の中に組み込み編纂していく。つまり、脱文脈化と文脈化の繰り返しの過程と言える。この過程を知ると、ある意味芸術という概念はトップダウンで定義されてきたのかもしれないと思った。近年有象無象の AI アートが、なんの脈略もなく大量に生み出されている中で、自分の中の価値判断力が麻痺している気がする。このような状況下で、キュレーションというのはかなり重要な視点なのではないか。人類総クリエイター時代において、キュレーターは相対的に稀有な存在になるのかもしれない。

ちょっと話が逸れるが、キュレーターが行う脱文脈化と文脈化の作業は、僕が昔 note に書いた、「想像」と「創造」の違いとも繋がるところがあると思った。

この記事にて、両者を以下のように図で視覚化し、定義した。

想像(imagination)

頭の中で起きる現象。とにかく既成概念を疑い、既存の認知パターンから必死に抜け出そうと試みる営み。つまり、既存の認知パターンを抜け出すということは、既に誰かが分類して整理した概念の境界線を溶かし、分からない化(分けない化)することでである。

創造(creativity)

頭の外で起きる現象。想像によって「分からない化」したものを新たなパターンとして世界にアウトプットするイメージ。ここでは逆に概念を自分なりに分類し、整理することで暫定的な答えを導き出す。想像によって低解像度化した景色が、全く異なる景色として高解像度で見えてくる。

これをキュレーションに当てはめると、脱文脈化が想像、文脈化が創造に位置付けられる気がする。キュレーターは既存の(ある意味権威化した)作品群を脱文脈化してフラットにするが、この様は既成概念を疑い、曖昧にする想像の過程と言える。そして曖昧化した作品群を今度はキュレーター自身の視点により分類し、新たな文脈を与えて世に記述する創造の過程を経て、キュレーションという行為は完結する。

このような、一見、既存の作品を整理しているだけのように見える一連の行為は、ある意味何も生み出していないのではないかと捉えることもできる。しかし、それは大きな間違いで、キュレーターは常に新しい何かを生み出している。なぜなら、キュレーションには誤読がつきものだからだ。

キュレーターは文化のコンテクストの異なった国で展覧会を企画する場合が多々ある。(中略)そのとき、自分の企画意図とはズレた理解や、一つひとつの作品についても誤解が生じる。が、肝心なのはそれを恐れないことである。

キュレーション 知と感性を揺さぶる力

実際に長谷川氏も、誤読(本書では誤解という言葉が使われている)を恐れないことを強調している。なぜなら、キュレーターは常に第三者であり、ある意味彼ら自身の個人的なフィルターを通して、オルタナティブな視点を提示することが重要だからだ。

キュレーターという職業が登場してきた19世紀末からベルリンの壁崩壊あたりの時期(1989年頃)までは、展示会という空間は、作品の形式(歴史や制度、作家性)への批評や、政治や社会への批評が中心として行われており、まだ客観性があったと言える。しかし、90年代になってからは客観的な批評行為というよりかは、キュレーター自身の主観的なストーリーなどを反映していく傾向が強まったという。もちろん例外はあるだろうが、キュレーターには、ある種の作家性が求められるということだろう。その意味で、新規な解釈を加えなければ、キュレーションをする意味が全くないとも言える。そのために、誤読が必要になるわけだ。

コンテクストデザインで知られる渡邉康太郎は、とある note の記事でこんなことを言っていた。

創作とは、模倣の失敗である

「つくる」はどこからはじまるか──足かせ、模倣、つくらないこと

このことは、キュレーションという行為そのものを言い表しているように思える。渡邉氏によると、絵画の基本の一つに模写というものがあるし、科学者は先行研究をなぞるし、そもそも生命はDNAをコピーミスしながら変化していくという。自分も普段研究をしているので、腑に落ちる部分があるし、思い返してみれば、自分が何かアイデア出しを行ったり、グラフィックについて考えたりする際にも、まず事例収集から行う。つまり、何かを選択し、それを誤読することによって新たなものを生成するのが想像であり、創造行為であるのだ。

余談だが、僕は今まで「ゼロからアイデアを生み出す過程(アイデアの生成過程)」を研究対象としていたが、最近は「AI にアイデアの種を生成させ、そこから何かを選び取る過程(アイデアの選択過程)」を扱う方向にシフトしつつある。今まで自分がやってきたことを全否定している感があり、なんとも言えない気持ちで研究をしていたが、実は「選択」と「生成」は表裏一体であり、案外今までの研究を否定しているわけではないと思えてきた。

そもそも人間が行う創造行為は選択と生成の無限の連なりだったはずなのに、自分が勝手に分けて別物として捉えていたにすぎなかったということだ。自分の中で創造行為はゼロから生成するものだったが、選択というプロセスを明示的に組み込むことで本来あるべき姿に戻すことができたとともに、かなり見通しが良くなった気がする。

もう少し厳密に選択と生成の関係を紐解いてみると、「何を選択するか、を決めて生成に繋げる創造行為」と「何を選択しないか、を決めて生成に繋げる創造行為」の2つに分けられるのではないかと思った。もちろん何かを選択するときは、同時に何を選択しないのかを無意識的に決めている(逆もしかり)ので、全く同じ現象だとも捉えられるが、僕が言いたいのは、どっちに比重を置いているかということだ。

例えば、僕が今自分の考えを文章として表現しているのも、過去にインプットした誰かの思想に影響されている。グラフィックデザインを行うにしても、過去に見た自分のお気に入りのデザイナーの作風に影響されている。これは「何を選択するかを決めて生成に繋げる創造行為」であると言える。渡邉氏が述べていた創作の過程もこれに該当するだろう。

対して、情報デザインの第一人者である須永剛司が提唱する「じゃない感」を伴う創造行為は、「何を選択しないか、を決めて生成に繋げる創造行為」に該当する気がする。

デザイニング(デザインを進めるプロセス)とは、未知の解の探索である。いや、未知の解の「創作」である。デザイナーはたくさんのアイデアを描き、描いたもののなかに違和感を感じとり、「これじゃない」ところを見いだしていく。そして、その「じゃない」のなかに、次に描くべきものの可能的世界を見つけている。デザイニングにおけるその行為を駆動する知性を、私は「じゃない感」と名づけた。

デザインの知恵 情報デザインから社会のかたちづくりへ

例えばスケッチを行う際、「この曲線は気に食わないから、次はもっと違った線を生み出してみよう」みたいなことを感じとり、ほとんど無意識的に次の創造行為へ繋げていく。頭より先に手を動かすような身体知的な現象なので、選択という行為は関係がないように思えるが、これは「何を選択しないか」を決めている気がしてならない。実際に須永氏も、創造行為に選択という過程が存在していることを指摘している。

美しく独創性あふれる「かたち」は、大量の表現活動から選びぬかれ、磨かれたものである。つまり、たくさん表現し、選びぬき、そして磨きあげることの総体が「創造」なのだ。

デザインの知恵 情報デザインから社会のかたちづくりへ

そして、まだちゃんと整理できていないが、「言語活動/選択するものを選択する」「言語活動/選択しないものを選択する」「非言語活動/選択するものを選択する」「非言語活動/選択しないものを選択する」の4象限ができるのかもしれない、となんとなーく考えている。ある程度整理できたら改めて note に書いてみたいと思う。

話を元に戻すが、「キュレーション 知と感性を揺さぶる力」という本から、選択と生成が密接に関係しており、もはや表裏一体の行為であることがなんとなくだが読み取れた。キュレーターにとって、ある意味美術館という空間は人間の脳のような場所なのではないかと捉えられることができそう。美術館は常に実験的な場であり、その中で選択と生成が絶えず行われている。そして何より、歴史の記憶(キュレーター自身のフィルターを通した記憶だが)を継承するための保管庫でもあるのだ。記憶を保存でき、さらにそれを世に公開できるからこそ、また次の誤読が生まれ、新しい何かが生成されていく。これを創造行為と呼ばずはいられない。

以上が、キュレーションという行為について僕が感じたことだ。ただ、この本の面白いところを実は全然取り上げていない。この本は基本的に、長谷川氏が今までに携わってきた展示会や、歴史的に注目すべき展示会を事例として取り上げながら、キュレーションという行為を読み解く構成になっている。なので、事例がたくさん載っており、これらがとても面白いのだ。こんな展示会があったのか、と。

なので、個人的に面白いと感じた展示会を最後にちょっとだけ紹介してみたい。

シャンブル・ダミ(Chambres d’amis 友人の部屋)展

1986年にベルギーにあるゲント市立現代美術館の館長によってキュレートされた展示会である。この展示会の面白いところは、その辺にある普通の家を展示会場にしたところだ。ゲント市内にある一般的な家庭数件と交渉し、50件を超える住宅を会場にしてしまったのだという。観客は旧知の友人宅を訪れるような感覚で各地の展示会場(住宅)を訪れ、住民との対話を通じて、その家の歴史などについて知るのだ。

この展示会は作品を魅せるための空間なのではなくて、観客と作品、あるいは観客と作家(この展示会の場合は住民)の関係性を魅せる空間になっており、デュシャンの泉みたいにメタな構造になっているのが面白い。展示会というのは、権威ある人たちによって描かれたものだけを扱うのではなく、その辺にある住宅の歴史までも作品として扱うことができることを示したと言える。まさに脱文脈化と文脈化のプロセスを経た表現になっている。

パラレル・ヴィジョン(Parallel vision)展

これは、1992~1993年にかけて、4ヶ国を巡回した展示会だ。日本の世田谷美術館でも開催され、長谷川氏がキュレーションを担当した。この展示会では主に、「アウトサイダー・アーティスト(独学で作品を制作したり、精神に障がいを抱えている人達)」と呼ばれる人達と、それに影響された「インサイダー・アーティスト(美術や芸術の教育を受けて育ったプロ)」の作品を扱っている。アウトサイダーに明確な定義はないと思うが、要は画廊などの公の場所で作品を発表することを目的としていない匿名の表現者たちのことだ。

アウトサイダーは誰かに発見されなければ日の目を浴びることはない。この展示会で作品が紹介されたヘンリー・ダーガーもその一人だ。彼は生まれつき知的障がいを抱えており、8歳の時にカトリックの児童施設に入れられたという。16歳になるとその施設を出て、病院の清掃員として職に就く。71歳になり退職を余儀なくされるまで、毎日同じ職場に通っていたらしい。そして80歳の時、自宅の2階に上がることができないほど衰弱してしまったので、施設に移るために家主に助けを求めた時、家主は初めて2階にある彼の部屋に入った。

すると、日記や気象記録、約15000ページにも及ぶ物語、90展ほどの挿絵などを発見したのだ。彼の作品(もはや作品という認識もしていなかったと思うが)には、彼の内的世界がグロテスクに表現されていたという。現実世界との正常な関係性を築くことが困難な人たちは、補完的に自分だけの代替世界をつくることがあるらしい。それが二重人格として発現することもあれば、物語や絵などの作品として発現することもあるだろう。

パラレル・ヴィジョン展では、そんな彼らの内的世界を、インサイダーの作品たちと共にパラレルに魅せることで、現実世界と空想世界の乖離や、インサイダーとアウトサイダーの乖離などを色濃く表現したのだ。

草間彌生から見た世界

展示会の話ではなくなってしまうが、草間彌生についてもちょっとだけ取り上げたい。彼女は日本で最も有名なインサイダー・アーティストの一人だが、インサイダーでありながら、先ほど紹介したアウトサイダーが抱えるような乖離に取り憑かれていたという。彼女の作品は、網模様や水玉で画面や立体物を覆うような表現方法を取り入れているものが多い。その表現方法の裏にあるものはなんなのか。

実は草間彌生は10歳頃から統合失調症になってしまい、幻覚などの症状に襲われていたらしい。その幻覚というのが、網模様や水玉なのである。彼女はそのような幻覚の恐怖を少しでも和らげるためなのか、現実世界に自らの主観世界をアウトプットしたのだ。「現実世界との乖離に苦しむのなら、現実世界側を自分に引き寄せてしまえばいい」とでも考えたのだろうか。そのあたりの意図はわからないが、先ほど紹介したアウトサイダーがやっていたことと少し似ている気がする。

草間彌生の作品はいくつか知っていたが、彼女自身のことは今まで全くと言っていいほど知らなかったので、非常に興味深かった。インサイダーの中にも、草間彌生のように現実世界に抗い続ける人たちは、程度や種類は違えど多くいるのではないだろうか。

以前も note で書いた気がしなくもないが、近年 AI アートが大量に生み出される中で、「アーティストの仕事が奪われる」みたいなしょうもない意見が飛び交っているのをSNS上で飽きるほど目にした。人って、何かの作品を見た時、視覚情報だけに飛びついて感動するのだろうか。SNS 上の彼らも本当にそうなのだろうか。個人的には、芸術作品などを見る時、影となっている背景も含めて楽しみたいと思っている。名もなきアウトサイダーや草間彌生のことをちょっとだけ知り、その思いがより一層強くなった。

もう少し陰翳を礼讃しませんか、というしょうもないギャグが理由で、今は谷崎潤一郎の陰翳礼讃を読んでいます。


面白いと思った記事や事例など

記事

「驚けるコンピューター」の出現が、AIにブレイクスルーを起こす人工知能にはできない仮説的推論の持つ力

AIにアブダクションは可能なのか?というテーマを扱っていた記事。このテーマ自体もものすごい面白かったのだが、AGI:Artificial general intelligenc(汎用型人工知能)と Narrow AI(特化型人工知能)の違いや、AI 研究がたどってきた歴史など、AI に関する基本的な背景も整理されており、とても勉強になった。

この記事によると、今までの AI 研究では、主に演繹型のアプローチと帰納型のアプローチが取られていたという。このあたりのことについては全くの初心者なので、かなり間違っているかもしれないが、頑張って自分なりに説明してみる。

演繹型というのは、専門家の知識を大前提、小前提としてたくさんコンピュータに条件として与え、それを元に「じゃあこのときはどうなの?」と聞くと、ちゃんと専門家の知識として答えを出してくれる仕組みだ。例として、猫の写真を学習する状況を思い浮かべてみてほしい。「耳が三角」「目が大きい」「四足歩行」「尻尾がある」みたいな条件を設定し、猫の写真をコンピュータに判別してもらいたい。しかし、この条件だけだと、たまたま後ろ足のみで直立している瞬間の猫の写真を弾いてしまうことになる。すると、また追加の条件を加える必要がある。つまり、例外が出てくるたびに前提となる条件を追加し続けなければならないということだ。結局のところ、前提を無限に入れ続けるということは、もはや世界そのものを記述するみたいなことになってしまうので、そこで限界が来たという。

一方で帰納型では、いわゆるディープラーニングの教師あり学習みたいなアプローチを取る(ちなみに Chat GPT なんかはこのアプローチっぽい)。大量の猫の写真を、まず人間が分類し、その教師データをコンピュータに見せ、それを真似してもらうという方法だ。演繹よりも厳密な条件設定をしなくていいので、先ほどの問題は起きなそうだ。しかし、このようなディープラーニングのアプローチは、いかに教師データと実際のデータの誤差を小さくするかという方向に収束するので、ちょっとした誤差とか異常値が割と紛れ込み、そこに注目することがないという。つまり、発想の飛躍みたいなことができないのだ。

そこで次に注目されているのがアブダクションだ。しかし、結局のところ人間の思考の働きのしてアブダクションがどのようにして行われているのかを解明できていないので、それを現段階でコンピュターに適用しようとしてもかなりきついらしい。当たり前の話だけど。アブダクションは、個人的な原体験とか好奇心などが駆動して行われる身体的な推論だというのが主流の言説であるが、そのためにはコンピュターは世界の“意味”を認識し、ものごとに対して“驚く”必要があるという。

そうですね。「驚けるコンピューター」が出てきたら、もしかしたら結構なブレイクスルーになるような気がしますね。

「驚けるコンピューター」の出現が、AIにブレイクスルーを起こす人工知能にはできない仮説的推論の持つ力

実は「猫」ってシンボルです。シンボルとモフモフっとした概念を結びつけるというのは、これまた別の問題です。「モフモフ」は認識したけど「それを猫と呼ぶ」というのは、シンボルグラウンディング問題といって、これはまた難しい。ずっとAIの大問題といわれている。実際難しいと思います。

「驚けるコンピューター」の出現が、AIにブレイクスルーを起こす人工知能にはできない仮説的推論の持つ力

アブダクションと主観的な原体験は、密接に関わっており、それを“驚く”という言葉で表現しているのだと思うが、果たして AI は世界の意味を捉えて、驚くことができるようになるのだろうか。

学習まんが「記号とアブダクション」

前回の記事でも紹介した、エクリというメディアが作っている学習漫画シリーズの一つだ。シリーズといっても全然まだ少ないけど。

先ほど紹介した記事でアブダクションという言葉が何度も登場したので、「そういえばアブダクションの意味を正確に理解できているのだろうか」と思ったので呼んでみたという経緯だ。

実際にこの漫画の中でも、アブダクションは自身の経験を前提にした推論のことであると説明されていた。つまり、論理的には完全に飛躍しているが、自分にしかできない推論力を高めていくということ。ニュートンの万有引力の法則なども、演繹と帰納だけでは絶対に発想できなかったというのはよく聞く話だ。例えば演繹というのは、既存の前提が条件となるわけだから、そもそも新たな知を生み出す思考方法ではない。なのでまだ見ぬ法則に辿り着くことも絶対にできない。帰納を用いても、「りんごが地面に落ちる」「枝が地面に落ちる」という事実から、「本も地面に落ちる」みたいなことしか推論できないだろう。アブダクションがあるからこそ、「質量のあるものって実は引き合うのでは⁈」という発想が生まれるのだ。それを証明するための確認作業として、演繹と帰納が活躍するのだが。

事例

Breveto

最近使い始めたテキストエディター。とにかく動作がヌルヌルで気持ちが良い。マークダウンで記述できて、文字の大きさやフォントの自由度のかなり高い。とにかく次の文章を書きたくなる。こんなテキストエディターを求めていた。この note も下書きは Breveto で書いた。

課金すれば DeepL write みたいな AI 機能が使えるみたいなので、僕は課金していないが、英語の勉強をしている人なんかは便利だろう。現在いろんな人に布教中だ。

THERE’S AN AI FOR THAT

https://theresanaiforthat.com/

現在市場に出回っているAIをまとめているサイト。ジャンルごとに検索できたりするので、超便利。毎日 AI サービスの数がカウントアップしている様を見てワクワクしている。

ヘザウィック・スタジオ展

5月の中旬に、トーマス・ヘザウィックという建築家が主宰するスタジオを紹介する展示会に行ってきた。

展示会を回っている最中、終始圧倒されてしまった。実物を見たら一体どうなってしまうのだろう。今まで見てきた展示会で最も迫力があったかもしれない。この人はなんというか、部分と全体の行き来が凄まじいという印象。イギリス館なんかはその最たる例だろう。

上海万博のイギリス館

長さ8mほどのアクリル棒を大量に使用し、中に入るとアクリル棒の先端に25万個の種子が埋め込まれている。この種子は、イギリスが先駆してきた都市公園と庭園の伝統及び、植物園研究の遺産に焦点を当てるために埋め込まれた。詳しく知りたい人は画像を調べてほしいのだが、この種子たちは外部の光を良い具合に取り込んだアクリルの先端で輝いており、外部環境との緩い繋がりが感じられる。さらには、外観はたわしのようだが、よく見てみるとイギリスの国旗がうっすらと見えるような造りになっている。

このようにヘザウィックは、一つの作品内でも部分と全体を自由に行き来しているのだが、彼は建築だけではなく、椅子や家具、バスに至るまで、様々なスケールのものをデザインしている。いろんなスケールのものを設計している建築家やデザイナーは割といるが、ここまで部分と全体を行き来できる人はなかなかいない気がする。普通の人とは世界の見え方が全然違うんだろうな。とにかく凄まじかった。


おわりに

今回の note ではキュレーションという行為から創造行為について考える内容を扱ったが、研究者ってかなりキュレーターに近いことをやっているのではないか、と思った。僕にとって研究とは、唯一の答えを探すものというよりかは、「こんな風に世界を眺めてみても面白いかもしれないよ」と、ある意味での主観的な感動や感覚を、世に投げかける仕事だと思っている。

僕が大事だと思うのは、イグ・ノーベル賞らしさや、ご説明いただいた『文化と生物学』らしさでもなんでもいいと思いますが、何かと何かのつながりにワクワクする、興味があるという感覚を伝えられるかだと思うんですよ。

学問をわかりやすく、役に立つかどうかを “伝えない” 理由


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?