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課程博士の生態図鑑 No.13 (2023年4月)

※ サムネイルは Seok Cheol Ji による「Time, Memory and Existence」という作品。

今回はかなり文章が多い上に、発散的でまとまりがないので、読みにくいかもしれない。


暇の中で退屈しないために

前回の記事でがっつり触れているが、3/28~4/2まで国際学会でポルトガルに行っていた。日本からヨーロッパはただでさえ遠いのに、ポルトガルはその中でもかなり西にある。つまり東の最果てから西の最果てに移動したわけだが、飛行機での移動時間がまぁ暇だった。しかも今はロシアの上空を飛ぶことができないので、迂回ルートを通らなければならない。

飛行機の移動時間だけで往復40時間近く、乗り継ぎ場での待ち時間も含めると50時間は優に超える。この暇をどう乗り切ろうか、ポルトガルに飛び立つ前に考えていた。

「そうだ、暇と退屈の倫理学を読めばいいんだ」と思った。

この本は、國分功一郎という哲学者が書いた本で、その名の通り「暇と退屈」について扱っている。こんなにも飛行機の移動時間にぴったりな本が他にあるだろうか。おそらく無い。

この本は2年くらい前に買ったのだが、ずっと積んだままにしていた。本は積んでいると発酵するという表現を聞いたことがあるが、まさにこういうことだろう。本には読むべきタイミングがいつか来るのだ。

暇と退屈の違い

さて、早速本書の面白ポイントについてまとめてみたいのだが、まずは「暇」と「退屈」の違いについて整理する。この二つの語は混同されることが多い。「暇だなー」と誰かが口にすれば、「退屈してるのね」と解釈されてしまう。しかし実は全然別の概念であると國分は主張している。

暇とは、何もすることのない、する必要のない時間を指している。暇は、暇のなかにいる人のあり方とか感じ方とは無関係に存在する。つまり暇は客観的な条件に関わっている。
それに対し、退屈とは、何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。それは人のあり方や感じ方に関わっている。つまり退屈は主観的な状態のことだ。たとえば、定住革命は暇という客観的条件を人間に与えた。それによって人間は、退屈という主観的状態に陥った。このように説明できるだろう。
こうして二つの語を正確に位置づけると、新しい問題が見えてくる。両者の関係の問題である。暇と退屈の関係はどうなっているのだろうか?両者は必然的に結びつくのだろうか?暇に陥った人間は必ず退屈するのだろうか?それとも、暇に陥った人間は必ずしも退屈するかけではないのか?

暇と退屈の倫理学より引用

「暇」が客観的な状態で、「退屈」が主観的な状態。あまり考えたことはなかったが、確かにそうだ。現に僕は「退屈」という状態は嫌いだが、「暇」という状態は好きである。何もせずにマイペースに過ごしてると暇だと思われるが、何も退屈なことなんかない。逆に、賑やかな場所にいて暇ではない時に、退屈になることもしばしばある。

豊かな現代社会において、昔よりも人は「暇」な状態を手に入れ、「退屈」を満たす手段を手に入れた。もちろん仕事で忙しい人もいると思うが、隙間時間にあらゆるコンテンツにアクセスできるようになった。逆説的に考えると、ちょっとの隙間時間(暇な時間)に欲望を満たすコンテンツにアクセスしやすくなりすぎたが故に、「退屈」を感じやすくなったのかもしれない。要は、退屈しのぎをしてる状態が当たり前になったので、何もしてない時に「退屈しのぎしなきゃ」となるのではないか。僕も暇さえあれば YouTube を開いてしまう。

國分はこの状態を「搾取」という観点から論じている。

資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。
そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている。高度情報化社会という言葉が死語となるほどに情報化が進み、インターネットが普及した現在、この暇の搾取は資本主義を牽引する大きな力である。
なぜ暇は搾取されるのだろうか?それは人が退屈することを嫌うからである。人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのか分からない。このままでは暇のなかで退屈してしまう。だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る。では、どうすればよいのだろうか?なぜ人は暇のなかで退屈してしまうのだろうか?そもそも退屈とは何か?
こうして、暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いがあらわれる。〈暇と退屈の倫理学〉が問いたいのはこの問いである。

暇と退屈の倫理学より引用

自分も含め多くの人は、「退屈」な状態に陥った時、消費に走る。けど多くの場合、それは能動的な消費では決してないということを心に留めておきたい。力を持った企業や国が、人々に何を消費させるべきかをコントロールしているからだ。規制しなければ、あっという間に生産力が落ちてしまう可能性がある。本書では、労働者を搾取し続けたいのであれば、無理を強いるのではなく、適度に余暇を与え、最高の状態で働かせることが最も都合がいいと記述されている部分もあった。

自動車の生産体制を一新したことで有名なヘンリー・フォードは、実際に労働者に適度な余暇を与えた。一日8時間労働というやつだ。これだけ聞くといい人のように思えるが、従業員が余暇の間何をしているのかを探偵やスパイに調査させていたらしい。「本当かよ」と思うエピソードだが、もし本当だとしたら相当やばい。まぁ、酒に溺れて生産性が落とされては困るので、管理したい気持ちもわかる。例えば、禁酒法なんか余暇の規制でしょ。

消費を再生産に繋げるには

では、どうすれば暇の搾取から抜け出せるのだろうか。ありきたりだが、僕は「消費」で終わるのではなく、「再生産」を積極的に行うべきだと思う。自分の楽しいと思えるテーマに対して探求し、新しい知を生み出すことでもいいし、実際に興味本位で何かをつくってみてもいい。要は何かを創造するということだ。誰かから与えられた楽しさをそのまま飲み込むのではなく、丁寧に咀嚼し、自分で楽しさを再生産するのだ。

なので、デザイナーを含め、ものづくりに携わるすべての人々は、利用者が再生産しやすい環境を提示することにフォーカスしなければならない。

モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動

モリスは実際にアーツ・アンド・クラフツ運動という活動を始める。彼はもともとデザイナーだった。友人たちと会社を興し、生活に根ざした芸術品を提供すること、日常的に用いる品々に芸術的な価値を担わせることを目指したのだった。人々が暇な時間のなかで自分の生活を芸術的に飾ることのできる社会、それこそがモリスの考える「ゆたかな社会」であり、余裕を得た社会に他ならなかったのだ。

暇と退屈の倫理学より引用

モリスの活動をこの本の中で取り上げていたのは意外だった。確かによくよく考えてみると、人々が余暇を手に入れたとしても、粗悪品ばかりが世に溢れていては話にならない。モリスは単に提供するモノのクオリティをあげるだけでなく、人々の美意識を進歩させようとした。原研哉風に言うと、欲望のエデュケーションだろうか。

機能主義と意味論

しかし、近代のデザインやアートは、果たして人間の欲望や美意識を進歩させたのだろうか。ここで、「近代デザイン史」という本を引用してみる。

バウハウスに代表される近代デザインは、地域性や言語や民族などの自然的なあるいはヴァナキュラーな条件にユニヴァーサルな統一性の原理を求めるのではなく、抽象的な概念にユニヴァーサルな統一性の原理を求めた。そこからつくられた環境は、ヨーロッパであれアメリカであれ、アジスであれ適応するはずだと考えられる。ミースをはじめとしたバウハウスのデザイナーたちが、住宅の屋根を陸屋根にし、箱形にしたことも、ユニヴァーサルな箱による積層という意味がある。と同時に、屋根をつけることによって、屋根の形状が地域性を示すということが出てくる。つまり、屋根を切り取ってしまい箱形にすることで、地域性を持たない抽象的なデザィンにすることができると考えたのである。

近代デザイン史から引用

近代デザインは、できるだけ多くの人々、多くの地域にむけて配慮する必要があるという考え方を持っていた。また、社会を統一する原理を、近代の思考はいわば抽象的な純粋性に求めた。そのひとつは機械的純粋性、抽象性にある。もちろん、近代的思考は個体、個人の自立を前提にしている。しかし他方では、個体の個別性よりも抽象的な人間を前提にしてもいた。したがって、デザインにおいては、機械的純粋性と抽象性への合理は「機能主義」というかたちで展開されることになる。そして、それは環境を「標準化」することにむかう。それがモダンデザインのユニヴァーサリズムだったといえるだろう。

近代デザイン史から引用

ユニヴァーサルを志向するデザインは、「一般化された人々」から排除される人々をつくりだすという矛盾を抱えている。機能主義的な哲学でモノをつくり、提供していたからだ。

「デザインに哲学は必要か」という本では、仮面を被った女性が椅子に座っている写真を例に、機能主義を以下のように説明していた。

マルセル・ブロイヤーの鉄パイプ
デザインに哲学は必要かより引用

この女性は、椅子を椅子として機能させるという役割、その筋書き(ミュトス)のためにそこに存在している。そのかぎり女性はそれが誰であっても構わないモデル=ペルソナとなり、その筋書きの内側でのみ存在を許され、そうした筋書きの許すかぎりで機能する。機能主義は、それに関わる素材すべての潜在的な能力を最大限に発揮させると主張する。当然のことながら人間もまたその素材の一部である。だが機能主義というドラマにおいて人間は、自ら「機能」するために、それ自身のあり方を覆い隠し、椅子という全体機械のうちにその一つの部品として自らを滑り込ませるばかりである。その結果、彼女は人間としての自然なあり方、その覆われないあり方を剥奪されてしまう。

デザインに哲学は必要かより引用

機能主義的なあり方では、人々は個としての意味を失い、全体の一部に取り込まれる。人々は作り手から提供された物に自ら意味を与え、使い方を拡張する創造性や再生産の機会を奪われている。

先ほど写真で取り上げたマルセル・ブロイヤーの鉄パイプは、機能主義的な哲学で作り上げられてると捉えることができる。各パーツが互いを補い、活かし合う連関を感じる。ある一つのパーツが欠けたら全体として機能しなくなる(機能主義では、座る人もパーツとして捉える)。そして分解されたパーツは、それ自体では何の意味も持たない。

アルベレスの基礎過程における学生作品
デザインに哲学は必要かより引用

しかし、この写真の作品はどうだろうか。それぞれの構成要素が「帆」や「車輪」「ケーブル」としての意味を持っており、個々の意味の組み合わせにより全体を構成している。と本の中では説明されていた。これは、機能主義ではなく、意味論の観点から作品を読み解いている。

意味論の観点からみてデザインが合理的であるとは、製品のすべての構成要素がある特定の意味に明確に対応しており、その意味を文法(シンタックス)に従って構成することで、製品全体の意味が論理的に構築されていることを指す。

デザインに哲学は必要かより引用

意味論において、デザイナーがつくったモノの意味は後から決まる。つまり、設計段階で意図した意味は重要ではなく、利用者がいかに行動を変容させたかによってモノの意味は決まる。機能主義では個人の存在は重視されなかったが、意味論においては利用者の数だけモノの意味は増幅する。これってかなり創造的な営みではないだろうか。

Takram の渡邊康太郎が提唱したコンテクストデザインもこれに近いだろう。彼は、デザイナーが込めた想いが「強い文脈」となり、利用者が積極的に誤読し、独自の意味を後から与えていくことで「弱い文脈」をつくりだすことを、コンテクストデザインの本質として説いている。そしてそれ自体が創造行為であると。これは創造性の再生産ではないか。

だいぶまわりくどい文章になってきたところで、少し思考を整理する。

人々が暇の搾取から抜け出すために、自分なりの楽しさを探究するために、「再生産」的な行為が重要であると僕は主張した。そしてそれをしやすい環境にするために、デザイナーは機能主義的な哲学ではなく、意味論的な哲学でモノを提供するべきである。それが利用者側の創造的な誤読を誘発し、再生産が開始される。

人は何かをアウトプットする時、何かをインプットすることから始まると僕は思っている。新しいことにチャレンジしたい場合、外部からの触発を必要とするからだ。その意味で僕は「生産」ではなく、「再生産」という言葉を用いている。創造とは再生産だ。しかし、力を持った企業や国が人々に何を消費させるべきかをコントロールしている社会では、誤読する余白がなく、人々は暇を搾取され続けるかもしれない。

先月僕が書いた日記で、「食べ物を丸呑みしてばっかりだと満腹感が得られずに太るので、ちゃんと咀嚼をして味わうことが重要」みたいなことを書いたが、そういうことだ。ただただ消費するばかりではなく、咀嚼し、意味を発見し、再生産に繋げなければならない。


….。「暇と退屈の倫理学」の面白さについてただ書きたかっただけなのに、なんかすごい寄り道をしてしまった気がする。ここからは、また話を戻して、暇と退屈について書くことにする。

暇と定住の関係

本書では、「人間はいつから退屈しているのか」というテーマに対して、「定住革命」を挙げていた。そもそも人は、遊動生活にこそ適した生き物なのではないか、だからこそ人類は何百万年もの間、定住することなく移動し続けてきたと。

もちろん本書の著者である國分は哲学者であって、人類学者でもなければ考古学者でもないので、西田正規という人類学者の主張を支持する形で考えを整理していた。

従来の人類史観では、「遊動生活→食料生産の開始→定住生活の開始」という解釈が一般的だった。つまり、食料生産こそが定住生活の原因であるという見方だ。

しかし、定住する条件さえみたされれば人類はただちに定住するものだろうか?たとえば、私たち定住民が遊動生活を始めることは極めて困難である。私たちはすでに一万年の定住生活の歴史をもち、それに慣れ親しんでしまっているからだ。同じことが定住化についても言えよう。定住生活の条件がそろったからといって、一万年どころか何百万年も続けてきた遊動生活をやめて、おいそれと定住化することなどできるだろうか?

暇と退屈の倫理学より引用

確かにそうだ。実際、食糧生産技術を持たない定住生活民もいる。縄文文化においても、稲作到来以前に定住生活が開始されたという。

ここで、「遊動生活→定住生活の開始→食料生産の開始」の流れを想定したらどうだろうか?

遊動生活を行っていれば、食料に困ることはない。むしろ、定住生活を行うと食料に困るのだ。人間はすぐに周囲の環境を汚染し、資源を使い尽くすからである。定住生活者は、したがって、何らかの手段で食料を確保しなければならない。重要なのは貯蔵である。貯蔵の技術が発達すれば、食料のない時期にも飢えをしのげる。だが、場所によっては限界があるだろう。ここに、食料生産が促された原因がある。

暇と退屈の倫理学より引用

では、なぜ定住生活を始めたのか。それは、氷河期から後氷河期にかけて起こった気候変動が関係している。ものすごくざっくり説明すると、もともとは寒冷で草原や疎林が広がっていて、見晴らしがよく、狩りがしやすかった環境が、だんだんと温暖な気候になってくると森林が拡大し、これまで狩っていた獣が小型化した。そのような環境下では、視界が効かないので狩りがしにくく、成功しても肉が小さい。それで貯蔵の技術が必須となり、それに伴って定住を余儀なくされたのだという。

定住化の過程は人類にまったく新しい課題を突きつけたことだろう。人類の肉体的、心理的、社会的能力や行動様式はどれも遊動生活にあわせて進化してきたものだからである。だとすると、定住化はそれら能力や行動様式のすべてを新たに編成し直した革命的な出来事であったと考えねばならない。
その証拠に、定住が始まって以来の一万年の間には、それまでの数百万年とは比べものにならない程の大きな出来事が数えきれぬほど起こっている。農耕や牧畜の出現、人口の急速な増大、国家や文明の発生、産業革命から情報革命。これだけのことが極めて短期間のうちに起こった。これこそ、西田が定住化を人類にとっての革命的な出来事と挑え、「定住革命」の考えを提唱する理由に他ならない。

暇と退屈の倫理学より引用

そして定住によって、人は退屈と直面するようになる。遊動生活では、移動のたびに新しい環境に適応する作業が発生する。新しい刺激に出会う機会がとても多いのだ。しかし定住はそうはいかない。毎日同じ光景の中で生きるからである。ましては豊かな社会では余暇がある。

その中で人間は、物理的な空間を移動する代わりに、心理的な空間を拡大し、移動することを求めるようになる。つまり、退屈しのぎをしたいということだ。

環世界を移動して退屈をしのぐ

物理的な空間を移動する代わりに、心理的な空間を拡大し、移動したいという欲求。これは、環世界を移動するということでもあるのではないか。國分はこの本の中で環世界についても取り上げていたが、この概念についてここでは詳しくは説明しない。ものすごく簡単にまとめると、環世界とは、ユクスキュルというドイツの生物学者が提唱した概念で、世界は一つだけ存在するのではなく、生命の数だけ存在すると言う考え方だ。ダニから見える世界、蜂から見える世界、生物学者から見える世界、デザイナーから見える世界、それぞれが異なるというもの。「生物から見た世界」という本でそれがまとめられているのだが、ぜひ読んで見てほしい。クソほど面白い。

そして「暇と退屈の倫理学」の中でもこの本を起点に暇と退屈について考えている。

まず大前提として、人間はその他の動物よりも環世界を移動する能力が比較的高い。学校で授業を受けているときは、先生の口から出てくる言語や数字に対して過度に注意を払うが、家に帰るとそのような注意力は働かない。また、勉強する前と後では見える世界が全く違って見えることがある。僕も実際デザインについて学んでからは、街や人に対する見え方が全く変わってしまった(いい意味で)。

ここまで容易に移動できる能力を身につけていると、一つの環世界に留まっていることができなくなる。なぜなら、飽きるからだ。別の環世界に移動できることを知っているからこそ、退屈な状態が尚更許せない。國分はこのことを「ひたっていることができない」と表現していた。ただでさえ一つの環世界にいることが苦手なのに、最近はすぐにいろんな情報にアクセスすることができるから厄介だ。いろんな環世界の窓が開きすぎている。もっと言うと、一つの環世界にすら浸る事が難しいのが現代社会だと思っている。そりゃ退屈にもなるよな。少なくとも浸っている(没頭している)間は退屈ではない。

では、どうすれば一つの環世界に留まり、浸ることができるのか?本書の結論は至ってシンプルだ。「様々なことを楽しむために訓練せよ」である。他にもいくつか結論が用意されていたのだが、この記事ではこの一点にのみ注目したい。

当たり前のことだが、どんなにすばらしいものであっても、誰もがそれにとりさらわれるわけではない。ならば自分はいったい何にとりさらわれるのか?人は楽しみながらそれを学んでいく。
思考は強制されるものだと述べたジル・ドゥルーズは、映画や絵画が好きだった。彼の著作には映画論や美術論がある。そのドゥルーズは、「なぜあなたは毎週末、美術館に行ったり、映画館に行ったりするのか?その努力はいったいどこからきているのか?」という質問に答えてこう言ったことがある。「私は待ち構えているのだ」。
ドゥルーズは自分がとりさらわれる瞬間を待ち構えている。〈動物になること〉が発生する瞬間を待っている。そして彼はどこに行けばそれが起こりやすいのかを知っていた。彼の場合は美術館や映画館だった。
彼が使った「待ち構える etre aux aguets」いう表現は、動物が獲物を待ち構えるという意味をもつ。動物はどこに行けば獲物が捕らえやすいかを知っている。本能によって、経験によって、それを知っている。人間の場合、ここでは本能をあてにすることはできない。少しずつ学んでいくしかない。

暇と退屈の倫理学より引用

物事を楽しむには、ある程度学ぶ必要がある。これはほとんど全てのことに言えることではないか。ゴルフについて知らなければ、ゴルフの楽しみ方がわからない。ゴルフから発せられる「楽しそうな刺激」を受け取る事ができないのだ。しかし僕はサッカーを小学校から高校までやっていたので、サッカーの楽しみ方はわかる。大学の勉強だってそうだ。ある程度やってみてから楽しさがわかった。僕がデザインを学ぶことの楽しさについて知ったのは、大学3年生の頃だった。そしてこれに気づく事ができると、一つの分野(僕の場合はデザイン)に限らず、いろんな物事に対して「一旦やってみるか精神」が育まれる。もちろん、人によって好きになるものとならないものはあるが、それは一度浸ってみないとわからない。勘違いしてはならないのは、ドゥルーズが言う「待ち構える」は、決して何もしないことではない。いつでも刺激を受け取れるように準備をしておくということだ。

スピノザという哲学者がいるのだが、彼は賢者のことを、楽しみ方を知っている人」であると定義している。多くの刺激を受け取ることができる体になること、そしてそのためにはある程度の訓練が必要であると。非常に中動態的な状態である。スピノザは中動態という言葉を使ってはいないけど(たぶん)、思想としては同じだろう。

最後に、サリエンシーという概念を紹介してこの本の話は終わりにする。サリエンシーとは、「突出物」や「目立つこと」という意味らしく、さらに精神医学などの分野では「精神生活にとっての新しく強い刺激」と定義される。我々が生まれた時、世界はサリエンシーに溢れている。ボールを蹴ると転がるだとか、ペットボトルのキャップは回すと開くだとか、当たり前のことでも、元々はサリエンシーだったものだ。人間は反復行為によって、「こうするとこうなる」という予測モデルを構築し、サリエンシーだったものに慣れていく。生きるとは、様々なサリエンシーに慣れる過程だと國分は主張する。

サリエンシーに慣れる過程の中で自己が形成されるのだが、本書の(というよりはドゥルーズの)自己の定義が面白い。

ドゥルーズによれば、(中略)単数形のいわゆる自我が生成するより前の段階では、刺激による興奮を拘束することで発生する欲動が無数に存在している。つまり、一つの自我があるのではなくて、無数のミクロな自我があるということである。ドゥルーズはそうした無数のミクロな自我を「局所的自我」と呼んでいる。いわば、ツブツブ状の自我群である。それらのツブツブがマクロ的に統合される限りで、いわゆる自我は存在する。
環境やモノや他者を経験する自己およびその身体は、最初から存在しているわけではない。まず自己があって、それが環境やモノや他者というサリエンシーを経験するのではない。自己そのものがサリエンシーへの慣れの過程の中で現れる。「自他」という言葉を使って説明するならば、これはすなわち、〈他〉への慣れが行われる過程において〈自〉が出来がることを意味する。サリエンシーという〈他〉に対する慣れの過程が〈自〉を生み出す。

暇と退屈の倫理学より引用

この定義は、いわゆる分人主義的なやつで、僕が研究の中で扱っている自己と他者の在り方に非常に近い。詳しくはこの記事で触れている。

今思うと、子供時代に退屈が一切なかったのはサリエンシーで満たされていたからなのか、と思った。当たり前のことではあるが、ここまで綺麗に言語されたことはなかった。自己を形成する過程にいると、退屈は訪れない。であれば、環世界を移動し、新たな自己を形成する過程の中に身を投じるということが何よりも重要である。

また、創造的活動自体や、リフレクションによって新たな自己の発見を行う行為は、サリエンシーではなくなっていたものを再度サリエンシー化し、新たな自己を作るということなのではないか。

以前、Takram Cast というポッドキャスト番組にて、「創造行為というのは、内的世界と外的世界の間に差異を感じた時に、外的世界を変えることでその差異を縮めようとすることなのではないか」みたいなことを聞いた事がある。脳というのはあらかじめ世界の予測モデルをつくっていて、現実世界との差異を検知した時にのみ脳が活発に動くという話がある。脳はあまり働きたくないので、できるだけ現実世界に寄せた内的な予測モデルをつくっておくのだ。多くの人は、学校への通学路はほぼ無意識に歩く事ができる。寝ぼけていると、いつの間にか学校に着いている事がある。しかし、道中で工事が行われていたりボールが転がってきたりすると、脳は活発に活動し、そのイベントを強く認識する。これを自由エネルギー原理というらしい。

Takram Cast で言われていたことはある意味逆で、内的世界を外的世界に寄せるのではなく、むしろ外的世界を内的世界に引き寄せるのが創造行為であると。これをサリエンシーの話に繋げてみる。創造行為が発生する時、人はまず当たり前に思っていた日常風景(外的世界)をサリエンシー化する。それはネガティブな違和感になるかもしれないし、ポジティブな違和感かもしれない。そして、外的世界側に合わせた予測モデルを内的世界側(自分の頭の中)に創造することでサリエンシーを打ち消すのではなく、内的世界にあるイメージを外的世界側に創造することによってサリエンシー打ち消すことが創造行為なのかもしれない。

新たなサリエンシーに出会い、慣れる過程を繰り返し続けるために、僕は研究にて外部的な他者と関わることや、内部的な他者と関わることで創造活動を駆動し、さらには自己発見へと繋げようとしている。今やっている研究では、どちらかというと内的世界側を変えようとしているが、今後は外的世界にアウトプットされる内的世界の質の変化を捉えていく予定だ。

研究のために「暇と退屈の倫理学」を読んだわけではないが、案外繋がるものだな。やはり暇は最高だね。


面白いと思った記事や事例など

記事

Unilateral Ignorance and Scalable Style

「原研哉みたいなスタイルでお願い」とAIに指示して作品を生み出すのと、僕が原研哉のスタイルに影響されて作品を生み出す行為の何が違うのだろうか。

この記事では、AIを利用して誰かの作品を「引用」した場合、引用元の人物に報酬が支払われるべきなのか否かを論じている。Adobe が新たにローンチした Firefly では、Adobe 内にあるオープンライセンスの作品や、著作権が切れた作品を使って機械学習を行なっている。そうすると、法律的な意味では安全なシステムになるが、同時に新たな作品が生まれにくいつまらない環境にもなっているという。今後はブロックチェーンの技術を使って作品の引用元を追跡し、報酬の分配を行うシステムを構築することを目指しているらしい。

この辺りの話は非常に難しい。どこからがパクリで、どこからがオマージュなのか。別に誰か一人のデザイナーやアーティストにだけ影響されてアウトプットしているわけではない。AI だってそうだ。僕は今のところ、いちいち報酬を支払う仕組みをつくっていたら、創造性がかなり抑制されてしまうと思っている。「お金かかるなら引用するのやめよ」とか「パクリだと思われたら嫌だからやめよ」とか。そうすると新たな表現も生まれにくくなる。

パクリを容認するわけではないが、見た目をパクっただけの作品に魅力など何もないし、元の作品に勝てるわけがないのだから、大した問題でもないのでは?と思ったりしている。もう少し様子見ですね。

スピノザ哲学とデザイン

まず考えてほしいことは、デザインには限りがないということである。たとえデザインが何らかの目的のための手段だとしても、この手段−目的の連鎖には、原理的に終わりがない。たとえば製品や建造物のデザインは、もっぱらそれらを使う個人の好みによって決まるわけではなく、それを取りまく組織や集団の目的に深く関わっている。さらに、それら組織や集団は、より大きな社会制度とそれが目指す目的に従っている。それらはさらに、国家そのものや地球的な共同体の目的へとつながっており、この連鎖は究極的には人間の生そのもの、人類の生存それ自体の目的性へとたどり着かざるをえない。まるで人工知能研究における「フレーム問題」のように、たった一個の製品のデザインには、この世界そのものをどう理解するかということが、潜在的には含まれているのである。

スピノザ哲学とデザインより引用

デザインの良し悪しというのは、設定された「目的」に適っているかどうか、デザインはその「手段」として役割を果たしたのか、という指標で判断される場合が多い。しかし、その「目的」というのは、人間が都合の良いところで設定しているに過ぎず、本来的には無限に続いていくものである。例えば「手が大きい人にも握りやすいハサミ」をつくりたいとする。この場合、手が大きい人が握りやすいハサミがつくれれば目的は達成されたことになる。しかし、そもそもハサミを使うのが適切なのか?紙の方を工夫すれば良いのでは?環境に配慮されているか?など、考え出したらキリがないようなことが本来はたくさんある。

しかしこの記事では、スピノザの唯物論的な思想に基づき、デザインを「目的を達成するための手段」という枠組みで捉えていない。つまり、デザインを思考の道具にせずに、デザインを思考そのものとして捉えている。しかし、その定義でデザインを考えると、デザインの良し悪しの判断ができなくなるので、「問題解決やイノベーションの手段としてデザインを用いて、お金儲けをするぞ!」と企むエバンジェリストには全く好まれないかもしれない。

結局のところ、僕らが良し悪しを判断できるのは、目的と手段の連鎖を便宜上都合のいいところで区切っているからであり、本来的には目的を追求すると自然という壮大で認識不可能な世界に突入してしまう。自然には目的も手段もない。この記事は非常に難しいが、デザインを再考する上で重要な視座を与えてくれた気がする。

てかこの記事を掲載している「エクリ」というメディアが面白すぎるから、よかったら読んでみてほしい。例えば「アフォーダンス」について説明された漫画が面白かった。環世界という難しい概念を非常にわかりやすく表現してくれている。


MIT study finds huge carbon cost to self-driving cars

今後自動運転車が世界に普及すると、今日稼働しているすべてのデータセンターと同等レベルの温室効果ガスを排出してしまう可能性があることをMITが示している。自動運転車に搭載されるコンピュータプロセッサーの性能を上げ、効率を良くしたり、ソフト側のアルゴリズムを改善することで対応していくらしい。

自動運転車がこんなにも環境負荷を与える可能性があるとは知らなかったので、結構衝撃的な記事ではあった。

Baseball Home Runs Are Increasing Thanks to Climate Change

この記事によると、近年メジャーリーグにてホームラン数が増加しているが、その理由の一つが「気候変動」だという。気温が上昇すると空気の密度が下がり、その影響で打球が飛びやすくなっているらしい。最高気温が1℃上昇すると、ホームラン数が1.96%増加しているとのこと。野球自体には全く興味がなかったが、面白かったので紹介してみる。

事例

Album Whale

自分の好きなアルバムのプレイリストを作成することができるサービス。他の人に共有することも可能。アルバム単位でまとめられるのがいい。普段人と話していて、「この曲がかっこいい」という会話はするけれど、「このアルバムがかっこいい」という会話はほとんどしない。僕が中学とか高校の頃は比較的アルバムトークができたが、最近はアルバム単位で聴いてる人はかなり減った印象。曲単体で聴くのも良いけど、アルバムという文脈に埋め込まれた曲の良さも捨てがたい。

そもそもアルバムってジャケットがかっこいいのも魅力の一つなんだよね。ギャラリービューで並べてみると結構良い。なんというか、作品を所有している感がある。ただ、Spotify や Apple Music に配信されてないアルバムはリストに入れることができないのは残念。

UIはこんな感じ

一応、僕の好きなアルバムたちのリストも共有してみる。なんのテーマも決めず、とりあえず聴きまくってたアルバムを詰め込んでみた。



Chris Hytha's works

https://www.hythacg.com/highrises-shop

Chris Hytha というデザイナーの Highrises Collection というプロジェクト。アメリカの超高層建築物のファサードをドローンで撮影し、コレクションしている。絵のように美しく、見てて心地よい。2023年末に写真集が出版されるらしい。買おうかな。

The winners of Rest of World’s first photography contest

https://restofworld.org/2023/winners-2023-photography-contest/?utm_source=densediscovery&utm_medium=email&utm_campaign=newsletter-issue-234#/bing-lin

テクノロジーが世界に与えた影響を象徴する写真を投稿するコンテストの結果が掲載されている。rest of world というメディアが主催しているのだが、写真たちがかなり美しい。美しいが故に恐ろしい仕上がりにもなっている。

無線デバイスを毒蛇の体に埋め込んでいる写真や、洞窟で暮らす人がテレビを見ている写真、ソーラーパネルが地表を覆っている写真など、様々だ。テクノロジーの発展を恐ろしいと捉えるか、素晴らしいと捉えるかは写真を見た人たち次第というスタンスっぽいのも好き。

ohvoxel

https://www.instagram.com/p/CfY7CoxP_3j/?utm_source=ig_web_copy_link

Shin Oh というマレーシアのアーティストの作品群。ピクセルという平面的な要素を、立体的な表現の中に組み込む試みだ。非常に面白い。平面的にも見えるし、立体的にも見える。次元を行き来してる感じが新鮮。


久々にこんなに長く文章を書いてしまった。本当はもう一冊面白い本があったのだが、書くの疲れたので、来月の記事に持っていくことにする。キュレーションと創造性の関係性について考えてみたので、ぜひ読んでほしい。

ではまた来月。

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