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課程博士の生態図鑑 No.6 (2022年9月)

研究の進捗

9月に入ってすぐ、デザイン学会に提出していた論文の修正版を提出したのだが、まだ結果が来ない。今までにもこの学会に提出したことはあるが、毎回査読が遅すぎる。同じくデザイン学会に論文を提出している先輩も同じことを嘆いていた。

しばらくの間(少なくとも博士課程在学中は)、デザイン学会に提出するのは辞めようかなと思っている。短期間で結果を残さないといけない状況においては、査読が遅いというのはかなり足枷になる(精神的にも、落ち着かない期間が長いのはストレスだし)。もちろん、査読者が普段から忙しいのは容易に想像はできるので、彼らを責めるわけにはいかない。

もう少し厳密に期限を設け、それを内部だけでなく外部に公開するとか、査読のやりとり(指摘とそれに対する回答など)が円滑に進むようなフォーマットを使いやすいものに刷新するとか、やりようはありそうなので対応してほしい。なんてったって「デザイン学会」なのだから。

2つの分人

今月は実験もしつつ、「そういえば分人って何だっけ?学術的な資料であまり見たことが無いな」と気になってしまったので、調べてみることにした。

すると、分人に関する興味深い考えに出会うことができた。中西ら(2016)によると、分人には2種類の考え方が存在するらしい。それを端的に表現すると、「人格が先にあるか、関係が先にあるか」である。これは一体どういうことか。

この論文は、文化人類学的なアプローチから、分人という概念の生成過程を記述したものだ。個人と分人の比較だけでなく、「異なる分人概念」についての解釈も行っていたのが面白い。様々な分人に関係する事例が紹介されていたが、異なる分人概念の比較については、主にインドとメラネシアの事例が紹介されていた。

これらの事例を紹介する前に、「サブスタンス」と「コード」という用語の捉え方を、素人なりに説明していこうと思う。これは、1970年代にアメリカの人類学者達が提唱した枠組みである。サブスタンスとコードに、それぞれ「自然の水準(order of nature)」と「法の水準(order of law)」という言葉を割り当てて、親族などの人間関係を説明していた。

血のつながった親族(blood relatives)は、自然で生物的なサブスタンスで結びついている一方で、婚姻による親族(in-laws)は、法や慣習、行動規範(code of conduct)によって関連付けられている。血というサブスタンスは実体的であり、時間や状況に関わらず変化しないと考えられる。したがって離婚によって親権を失っても血のつながった親子関係は保たれる。しかし、夫婦のつながりは自然ではないため、死別や離婚という形で関係を終わらせることができる。

 人類学における「分人」概念の展開 - 比較の様式と概念生成の過程をめぐって -

つまり、サブスタンスが自然で、コードが法である。サブスタンスは実体的であるが、コードは精神的なものということだ。

インドにおける分人概念

以上に紹介したサブスタンスとコードという考え方を、アメリカの人類学者であるマッキム・マ リオットは南アジア、主にインドの文脈で発展させた。サブスタンス を「ダートゥ(dhātu)」に、コードを「ダルマ(dharma)」に重ね合わせ、コードは身体的サブスタンスに埋め込まれているとしたらしい。自分もちゃんと理解しているわけではないが、アメリカ文化とは違い、インドにおいては遺伝的なサブスタンス(自然)と、精神的なコード(法)の区別は存在しない。

なので、この研究では「サブスタンス/コード」という西洋的な二元論から、「サブスタンス=コード」という一元論への転換が起こっている。

サブスタンス=コードは食物、性行為、儀礼、日々の会話などを介してやりとりされる。そうした交換(transaction)を通して、人は部分的に移動し、混ざり合い、変化していく。こうして、サブスタンス=コードで構成されている人そのものが分割可能であるという観点から、「分人(dividual)」という概念が提出された[Marriott and Inden 1977:228]。

 人類学における「分人」概念の展開 - 比較の様式と概念生成の過程をめぐって -


メラネシアにおける分人概念

パプアニューギニアのダリビという民族の人たちは、人格を周囲から独立した「個人」ではなく、ジェンダー化されたサブスタンスのやり取りによって構成されるものとして扱う。

例えば、父親の精液は肌、目、男児のリンパ系と生殖器、女児の乳腺など、
胎芽の外側の層を形作る。一方で母親の血液は、骨、内蔵、その他の臓器など胎芽の内側の層を形成するのである[Wagner 1977:628]。さらに人の身体とジェンダーは生誕後も血液、精液、母乳などの身体的サブスタンスと、ビール、雨水、豚などの社会的サブスタンスのやり取りによって遂行的に生成し続けている[Wagner 1986]。

 人類学における「分人」概念の展開 - 比較の様式と概念生成の過程をめぐって -

メラネシアの分人概念で特徴的なのが、コードの省略である。インドにおいては、サブスタンスとコードが分割不可能で、渾然一体となっている様子が紹介されたが、メラネシアにおいてはコードは省略されており、サブスタンスの流動性だけが扱われている。個人的には、メラネシアの分人的思想は、「道具に人がデザインされる」という思想に近しいものを感じたので、理解しやすかった。

2つの分人の違い

さて、ここでようやく「人格が先にあるか、関係が先にあるか」ということについて述べていく。

インドのモデルにおいては、人格がまず最初に存在し、その上で相互にサブスタンス=コードのやり取りが行われ、人格が変化していく。カーストというある種固定化された社会集団に属している人(インドでは動物、植物、金属などにも適応されるらしい)の間で、サブスタンス=コードの交換が行われていく。固定的な体系の中で流動的な営みが行われている。

対してメラネシアのモデルにおいては、まず何よりも関係性が先行しており、人やモノはその一時的な結節点にすぎないという考え方となっている。このモデルにおいては、サブスタンスの流動的な交換関係を介して人格が決定されていく。

このことを踏まえ、この論文では前者を「浸透可能(permeable)な人格」後者を「分割可能(partible)な人格」と表現していた。

分人の位置付け

以上、2つの分人についての考察を読んでみたが、正直あまり理解できているとは言い難い。しかし、このような概念は、年々変化する人間関係(親子関係や恋人関係、友人関係など)の多様化を理解・受容をしていく上で今後も継続的に学ばなくてはいけないと思った。

しかし、気をつけなくてはいけない側面もある。この論文でも触れられていたのだが、分人論というのは、人間を暴力的にカテゴライズする人格論的な手法なのではなく、それを用いることで新たな問いや仮説などの思考のフレームを創出する目的で用いられている(そうじゃない人もいるかもしれないけど)。つまり、分人は「人間の人格概念そのもの」のことではなく,既存の人類学に対する問題提起なのだ。

また、ここでは深く触れることは避けるが、法学から分人を読み解いているこの文献も興味深かった。リンクだけ貼っておく。


自己と他者の輪郭はどう形作られるのか

そんなこんなで分人についてのリサーチをしていると、自分のテーマの一つである「自己と他者の境界線」について、もっと詳しく知る必要があるのではないかと思い至った。

先々月は西田幾多郎の思想などを中心に、研究テーマの根底に流れる哲学のようなものを広く薄く探索し、先月は人間の主観から捉えた世界(創造性)について調べた。そして今月は、自身の研究において重要な役割を担うであろう「自己と他者の境界線」を、客観的な現象として捉えてみる。

具体的には、「自己と他者の境界線」という共通の切り口に対して、社会学、心理学、脳科学など、様々なレイヤーやスケールから眺めてみるという試みだ。言い方が適切がどうかはわからないが、感覚を論理で補強する作業という感じ。

とりあえず本を3冊ほど取り上げてみる。

社会学から見た自己と他者

まず最初は「自己と他者の社会学」という本。

自己というのは、他者との関わりを通して立ち上がってくる。それを社会学的スケールから考察し、社会現象としての「私」に着目した本。社会学と言いつつ、どちらかというとミクロなものをメインに扱っていた。

「私」と「他者」の2部に分かれており、それぞれ7章ずつの計14章で構成されていた。各章ごとに異なるテーマが設定されており、例えば「演じる私」「意味を求める私」「ヴァーチャルな他者とのかかわり」など、多岐に渡る。個人的な感想だが、具体的な研究事例をもとに語りすぎている印象。もう少し抽象化して、各章ごとの繋がりをもっと強調してほしかった。まあ、それは読者が勝手にやればいい話なのだが。

主我と客我

この本でまず目についたのが、「主我」と「客我」という自我の分類。これは端的に説明すると、前者が認識する側、後者が認識される側という感じ。たぶんメタ認知的な意味合いだろう。主我は純粋自我にあたり、客我は自分のものといいうる全てを指し、「身体的・物質的客我」、「社会的客我」、「精神的客我」からなっているという。この辺り、1つ目はサブスタンスで、2つ目と3つ目はコードと捉えても良さそう。

この手の話で難しいのが、主我は直接的に認識できないというところ(なぜなら認識する側だから)。自我は常に自覚可能な客我に反映されるので、間接的にしか知ることができない。しかし直感を司る部分は主我に影響を受けていそうだなとも思う。社会学の中でも、主我の存在意義が揺らぎ、長らく姿を消していたという。

しかし、自分を変えるのは確実に「主我」であろうという認識が次第に再熱し、さらに他者との関係と絡めて展開していった。人間は他者とのコミュニケーションによって自己の対象化を行う。他者の目を借りて自分を見るという表現が合っているだろう。自己を対象化するということは、道具や他者を対象にするのと同じ行為で、自己の内側とコミュニケーションするということになる。今となっては自明のように聞こえるかもしれないが、この行為は認識する「主我」なしには起こり得ない。デカルトが言ってたあれだ。他者という異質な存在の目を借り、それを媒介とすることで、現在の私から抜け出し、新たな私を創発していく動的な過程だと説明されていた。まさに僕が今研究しているテーマに近い。

そして、複雑なのが「客我は複数存在する」というところだと思う。そして複数存在する客我の一部に強くコミットしている状態が普通だという。しかし、日々生活している中で様々な状況で様々な他者と遭遇すると、普段強くコミットしていない客我が浮かび上がってくる時がある。その時、「他者が見る私」と「自分自身」の間に違和感を感じ、不安が襲ってくる。まるで自分の体が自分のものではないみたいな。思春期に訪れるあの感じ。主我と客我の差を小さくしていくことが安心できる状態なんだと思う。主我の方に寄っていくのか、客我の方に寄っていくのかはわからないが。

これは持論だが、主我というのは純粋自己と言いつつ、他者の存在なしには成立しないと思う。なぜなら他者という対象との関わりを通じて、「他者ではない私」に初めて気づくことができるからだ。この辺は後の本で深掘りされていたので、その時にまた触れることにする。

そして、自明だが他者に認識されるには名前や顔(身体)が必要となる。他者が私を同定する上で重要な役割を果たすからだ。もし名前や顔を変えたら、他者の私についての記憶(私にとっての外部記憶)の引き出しが開けられなくなる。つまり、名前や顔などを変えるということは、単に表面だけを変えるにとどまらず、他者との関係性が変化することになるので、自分の内面まで変わってしまう。自分を認識するために借りる他者の目が別物になってしまうからだ。

まったく知らない者同士だからこその親しさ

以上、自己と他者の関係性を記述してきたが、その他者というのはある程度の信頼関係が必要なのだろうか。一見、自分をある程度知っている人じゃないと自分を客観視できないように思う。平野の「私とは何か」でも、ある程度の関係性がないと、特定の相手に向けた深い分人は生成されにくいと述べている箇所もあった。

しかし「自己と他者の社会学」の8章で、「援助交際と親密さ」という強烈なタイトルの節があり、そこに興味深いことが書いてあった。

援助交際の経験者を対象に行われた調査によると、「お金のため」というのはむしろ少数派で、「親密な関わりが欲しい」「自分を認めてほしい」と回答した女性が少なくなかったという。

「援助交際」の経験者を対象に調査を行った圓田浩二によると、女性たちのうち、「お金のため」というのはむしろ少数派で、少なくない女性たちは、「親密なかかわりが欲しい」「自分を認めてもらえる」という、精神的・情緒的な満足を求めて「交際」をしているという(圓田2001)。そして、「買う」男性の側も、単に性的欲求を満たすというより(それならばもっと簡単な「風俗」がある)、「娘のような」「恋人みたいな」、擬似的ではあるが親密な関係性を求めているいう。それを、虚偽的だ、ばかばかしいと片づけるのは簡単だ。しかし、夫婦や家族、恋人や友人等近しい人ではない、ただ一度の「関係」だから、あるいは、ほとんど互いの「実像」を知らないから、心が許せ弱みをみせることもできる、という感覚は、私たちにとって少なからずうなずけるところがあるのではないだろうか。「まったく知らない者同士」だからこそ、限られた時間であっても、最も親しく接することができる、というのは、私たちがおかれた現代社会の興味深いパラドックスの一つだろう。

自己と他者の社会学

「援助交際」という一見ネガティブな事例だが、非常に心に刺さる。このような関係を自分も気付きたいとは微塵も思わないが。僕は自称根暗で、結構人見知りをする性格なのだが、まったくの初対面の方と2人きりで、かつ今後関わることがないだろうなと思う状況だと、かなり喋れるようになる。なんでかはよくわからないが、多分(ある程度)固定化された客体を参照する必要がなく、まったく新しい自分、あるいは奥に隠していた自分を実験的に試すことができるからだと思う。一度きりの関係なので、それが固定化される心配もない。「私」を変化させる瞬間というのは、案外こういうところにあるのかもしれないな。

心理学から見た自己と他者

ここからは「自己形成の心理学 - 他者の森をかけ抜けて自己になる - 」という本を参考に、自己と他者の関係について書いてみる。

といっても、先ほどの本は心理学寄りのミクロな社会学を扱っていたので、そこまで粒度は変わらないかもしれないが、もう少し深く人間の心理を扱っている。青年期における自己形成過程をメインに扱うのだが、幼児期における自己形成過程との違いや共通点を論じていたのが面白かった。副題の「自己の森をかけ抜けて他者になる」も最高。

この本の他者の定義はちょっと変わっており、ある私(大学生として研究成果を出したい私)から見た時の別の私(友達と気楽に遊んでいる時の私)をも他者の中に入れている。客体のどれか一部にフォーカスした時に、それ以外の客体が他者として扱われるということだろう。

人格も、関係も、先にない

先ほど、分人の論文の中で「人格が先にあるか、関係が先にあるか」という話をしたと思うが、本書の立場はどちらでもない(たぶん)。人が生まれた時、人格も関係もない。

曰く、人間(他の生物でもいい)は生まれると母親との関係は一旦切れるらしい。これはつまり、「親子の絆は生得的にプログラムされているのか」という問いからなる。進化論的に人間に近いとされる、チンパンジーの出産記録(京都大学霊長類研究所のやつらしい)が複数紹介されていたのだが、必ずしも母親は出産した子供の世話をしなかったらしい。驚いて飛び退き、自分の体から出てきた生命を遠くから見つめている状態が続く事例がいくつかあったという。例えば死産を経験していなくても、出産前に育児の練習をしていても、それは起こりうる。出産直後の人間の親子のインタラクションを研究した実験もあったが、ここでは掘り下げない。とにかく、親子の関係は生得的にプログラムされているわけではないという仮説が提唱されたのだ。

しかし赤ちゃんは一人で生きていくことはできない。なので赤ちゃんは、大人が話しかけるその声の調子やリズム、言葉の切れ目に合わせて手足を動かし、自らを同調させたりすることで、他者の関心を惹きつけようとする能力を最初から身につけているらしい。このことから、人間がこの世に生まれ落ちた時、「関係」が切れた状態になるが、その代わり「関係を繋ごうとする力」を生得的に身につけているのである。そして徐々に「人格」が形成されていく。他にも赤ちゃんがどのようにして「関係」を繋ごうとするのか、様々な事例が紹介されていて面白いので、ぜひ読んでほしい。

同一化、ポジショニング

先ほど「自己と他者の社会学」の中で、「主我というのは純粋自己と言いつつ、他者の存在なしには成立しないと思う」と自論を述べたが、「自己形成の心理学 - 他者の森をかけ抜けて自己になる - 」の中ではその部分が深掘りされている。

その中で「同一化」というキーワードが重要になってくる。同一化とは、他者と対峙した時に、自らをその他者へと重ね合わせて一体化する働きのことである。人間は生まれたその日から他者に同一化することで、他者の視点を借り、世界との触れ合い方を学習していく。そこには「自己・他者・対象」の三項対立が成立している。

同一化では、他者を学習した後の主体の言動、他者の直接的影響が重要となる。つまり、他者を自己の内に取り込んで内在化させ、まるでその他者が振る舞うかのように言動することを表す。そこに機能するのが同一化である。「まるでその他者が振る舞うかのように」であるから、その他者は主体に意識されないほど自己と一体となっている。ここに同一化の特徴が認められる。子ども(男児)は、エディプス・コンプレックスを克服した結果、父親に同一化して、父親の見方や考え方を自己内に取り込んで超自我を形成する。

自己形成の心理学 - 他者の森をかけ抜けて自己になる - 

そして、徐々に成長していくにつれて人間は自己を発見する。これが幼児期と青年期の大きな違いだ。他者の目から世界を見ているうちに、ある時その視点が自分に向けられる瞬間が訪れる。その時に客我(と同時に主我)が認識されるのである。そこでようやく自分に違和感を感じるのか否かを判断できるようになる。

そうすると、自らの価値基準を基軸に今まで同一化して経験してきた価値観を整理するようになる。それが青年期だという。そのために、人は青年期になると、「他者に同一化しつつポジショニングする」と「他者に同一化せずにポジショニングする」の2つを選択できるようになる。前者は他者を意識せずに一体化している状態で、後者が他者を意識している状態と言えるかもしれない。この2つを行き来すると、自己の再構築作業ができるということだ。非常にややこしいが、ポジショニングは同一化を包含している概念だと思う。

エリクソンは児童期まで無自覚的に形成してきた同一化群を、青年期に入って確立する自らの価値基準、新たな「私」を基軸に全体として整理・配置し直すことを、青年期のアイデンティティ形成作業の一つだと見なしたのである〈9〉。それが自己アイデンティティの形成であり、ひいては自己物語の構築・再構築とも呼べる作業である〈10〉。

自己形成の心理学 - 他者の森をかけ抜けて自己になる - 

一旦他者にポジショニングしてみて、自分に合うと感じたら一体化し、他者を我が物化して自己のうちに取り入れる。合わなければ他者を他者として扱い、彼らの価値観を切り捨てる。本書ではこのような事例がたくさん紹介されており面白かった。

ここでいきなり僕の研究の話になるのだが、僕は今自己効力感と集合的効力感についての研究をしている。

詳細の説明は省くが、僕は今まで共創という状況の中で、自己と他者との間にある境界線を溶かすと集合的効力感が向上し、逆に境界線をはっきりさせると自己効力感が向上するという仮説を立て、実験をちまちまと行ってきた。しかしこの本を読んで、その認識が揺らいでいる。

集合的効力感は、ある意味他者にポジショニングしつつも、他者をまだ意識している状態(境界線をはっきりさせる状態)なのかもしれない。自己と他者がはっきりと存在しているからこそ、共創をしている認識が増すのかなと思う。その代わり生み出した創造物が誰の行動を強く反映したものなのか、その解釈が曖昧になる。

対して自己効力感は、他者にポジショニングしつつ、他者を意識していない状態(境界線を溶かしている状態)。他者を我が物化した結果なのかもなと。すると生み出した創造物に対する解釈がはっきりと自分のものになる。

まだ綺麗に言語化できていないが、今までの仮説が真逆になる可能性があるような良い気づきを孕んでいる気がする。と言いつつ、いろんな概念や思考の方向性が渾然一体となって爆死しそう。

脳科学から見た自己と他者

最後に、「脳のなかの自己と他者 - 身体性・社会性の認知脳科学と哲学 - 」という本を参考に、自己と他者の関係について軽く触れてみたい。

この本は、その名の通り脳科学の領域で行われている研究を取り上げながら、自己と他者について記述しているものだ。脳科学にちゃんと触れるのは初めての体験だったので、読み切れるか結構不安だったが、哲学者の考えを丁寧に引用しながら客観的な現象を解釈していたので非常に楽しむことができた。

脳科学ど素人ながら、この本に対して誤解を恐れずに感想を言うと、脳科学というのは「人間の人間たらしめない部分」を基本的には扱っている研究分野なのかなと感じた。人間の行動をある種の電気信号の流れと捉え、それに伴って稼働する肉体を観察するみたいな。もちろん人間の主観的な感覚を扱う時もあるが、感情まで扱うことはほとんどないのではないだろうか。

しかし、めちゃめちゃ面白かった。最近読んだ本の中では、西田幾多郎関連の本並みにオススメである。こういった人間の量的な部分を扱う分野と統合しながら人間の質的な部分を扱ってみたい。

拡張する身体

デカルトやフッサール、メルロ=ポンティといった哲学者たちの思想を列挙しつつ、如何に自己が持つ意識にとって身体が重要なのかを整理している(思想的な部分についてはこれ以上掘り下げない)が、身体は自己にとって絶対的なものなのだろうか。この本を読んでみると、自己にとって身体は絶対的なものではないのかもしれないと思えてくる。身体への認識はいくらでも変化しうる。

例えば「身体所有感」というものがある。これは、その名の通り自分が自分の身体を所有している感覚のことだ。何を当たり前のことを言っているんだと思うかもしれない。しかし身体の一部を失った人が抱く「幻肢」という現象があり、失った部位に対して痛みを感じたりすることがある。他にも「身体失認」という症状があり、幻肢とは逆に、存在する自分の身体の所有を否定する症状だ。身体の一部が麻痺していたりする時に起きる症状らしい。僕も中学3年生の頃、足の手術のため(体育の授業でおもっくそ骨折した)に下半身麻酔を経験したのだが、まさに身体失認的な症状を患った記憶がある。また、「統合失調症」なんかも、身体所有感が薄くなる現象と言える気がする。

身体所有感が必ずしも当たり前のものではないことは既に述べたが、それを意図的に崩す試みの一つに「ラバーハンド錯覚」というものがある。これは、自分の手ではない偽物の手(ラバーハンド)と自分の手に同時に触覚刺激を与えることで、ラバーハンドが自分の手かのように感じる現象だ。

脳のなかの自己と他者 - 身体性・社会性の認知脳科学と哲学 -

自分の手とラバーハンドの間に衝立を置き、ラバーハンドだけが見えるようにする。この状態で他の人に自分の手とラバーハンドの両方を同時に撫でてもらうと、段々とラバーハンドの位置に触覚刺激が生じているように感じてくる。

そして手だけではなく、フルボディ錯覚というものまである。これはヘッドマウンドディスプレイに被験者またはマネキンの後ろ姿を写し、自分の身体とマネキンに同時に触覚刺激を与える。その後に目を閉じて1.5メートル下がり、元の位置に戻るよう指示すると、元いた場所よりもマネキンの位置に近づいてしまうというもの。

脳のなかの自己と他者 - 身体性・社会性の認知脳科学と哲学 -

また、猿を用いた面白い実験もある。猿は一般的には道具はあまり使わないが、特殊な訓練を2週間くらい行うと道具を使えるようになるらしい。以下の実験では熊手を使わせる訓練を猿に施し、前後での猿の脳内変化を調べたものだ。訓練前は熊手の上にレーザーポインターを横切らせても反応を示さなかった二種感覚ニューロン(自己の身体に対する視覚刺激と触覚刺激の両方に反応するニューロン)が、熊手を使用する訓練を終えた後だと反応するようになったという。ざっくりいうと道具を身体化したということだ。

脳のなかの自己と他者 - 身体性・社会性の認知脳科学と哲学 -

こんな感じで、自己の身体性はいかようにも変化・拡張し得る。「デザインド・リアリティ」という本の中で言われていた「社会文化的サイボーグ」が思い出される。


拡張する感情

ここまで身体の拡張について紹介してきたが、感情は拡張することはできるのだろうか。他者の目を借りて世界を見ることはできるのだろうか。

ミラーニューロンにそのヒントが隠されているかもしれない。

ミラーニューロンとは、自己が運動するときだけでなく、他者が同じ運動をしているのを見たときにも活動するという特性を持つニューロンのことであり、サルの運動前野(F5)において初めて見つかった。運動前野は運動の制御に関わる領域なので、自己が運動をするときに活動することは不思議ではない。しかし自己が運動をしていないにもかかわらず、他者の運動を見ただけで運動前野の二ューロンが活動するという事実は、それまでの知見からは説明がつかなかった。ここには何らかのメカニズムで視覚情報から運動への変換が行われており、他者運動の知覚に観察者の運動表現が関わっていることを示唆している。

脳のなかの自己と他者 - 身体性・社会性の認知脳科学と哲学 -

さらにこのミラーニューロンは、他者が行う「運動」を入り口として、他者がなぜそのような運動をするのかという「意図」を理解したり、その時の「感情」を深いレベルで体験することができる可能性を秘めているらしい。学術的な報告数は少ないものの、そのようなある種の模倣機能は、赤ちゃんの頃から行っているという見方もある。「自己形成の心理学 - 他者の森をかけ抜けて自己になる - 」の中でも触れられていたことだ。

自己と他者が感情を共有していることが示唆される面白い実験がたくさん紹介されていたが、「プロジェクション」について軽く触れてこの本の紹介は終わりにする。

「プロジェクション」とは、外部の対象に対して自己を投射することで世界を認識する考え方で、上述したポジショニングに近いかもしれない。例えば大人の被験者に対する実験で、子供のアバターにフルボディ錯覚を起こさせると、物体のサイズが通常よりも大きく感じられるようになったり、VRを用いてスーパーマンになる経験をさせると、その後に他者に対する援助活動が増えるというような信じ難い報告もある。

これらの実験は、別の他者へ自己身体のプロジェクションを行うことで、自らの「世界」が子供やスーパーマンの「世界」に近づき、重なり合っていくことを意味する。この2つの例を見てわかると思うが、プロジェクションは身体だけでなく、精神にも影響を与える。

6月ごろに考えていた「分人とメタバース」という絵空事だったはずの仮説が、少しずつ現実味を帯びてきた。


身体と精神の行方

バーチャルな世界が注目されて久しいが、そう遠くない未来、我々の身体性はどのように変化し、人格はどこに収束していくのだろうか。熊手に身体性を感じるよりも柔軟に、猫のアバターに身体性を感じ、人格も変化するようになるかもしれない。

攻殻機動隊の主人公である草薙素子が抱えていた悩みの本質がちょっとだけ見えた気がする。身体性が変化・分断し、それと共に人格があらゆる場所に点在した時、それらを繋いでくれるのは、自らを見つけてくれる外部記憶装置としての他者であり、腕時計なのかもしれない。


今まで自らの研究テーマである「自己と他者の境界線の変化」に対して、そんなの主観的な感想じゃん!っという感じで論破好きの餌にされそうだなと心のどこかで思っていたのだが、様々な学問分野に触れていく中で、ちょっとずつ自分の考えに自信が持てるようになってきた気がする。自己と他者の境界は変化しうるし、身体だって絶対的に固定されたものではないのだ。


面白いと思った文献や事例など

文献

1. 和の感情ことば選び辞典

kindle の日替わりセールでポチった。この本はその名の通り、日本人の感情を表現する「和」の言葉がまとめられたものだ。

熟語みたいな難しい言葉は載っていない。熟読はしていないが、もしコピーライティング的なことをやる機会があったら重宝しそう。まあ、誰も知らない言葉を使っても意味ないので、その辺のバランスは難しいが。けど、言葉を多く知っているだけで世界の解像度上がりそうだよね。

2. 情景ことば選び辞典

この本は8月に買ったものだが、「和の感情ことば選び辞典」の関連で載せておく。

個人的にはこっちの方がちょっと面白かったかな。日本は雨を表現する言葉が多いことは知っていたけど、こんなにもあるとは。100個くらい載ってた。もちろん、雨以外にも雷や雲などの気象を表現する言葉や、人体に関連する言葉まで、かなり広く扱っていた。

3. The Problem With Donating Your Clothes to Charity

ネット記事。寄付された洋服のうち、推定25%は埋立地へ直行しているらしい。慈善団体が、質の低すぎる洋服の選別・処分を強いられるためだ。自分が着れない洋服は、そりゃ他の人も着れない可能性高いよね。

4. Starbucks details its blockchain-based loyalty platform and NFT community, Starbucks Odyssey

スターバックスがNFTを活用してコミュニティ作りを開始しようとしている。ユーザーの参入障壁を低くするために、クリプトウォレットだけではなく、クレカやデビットカードでもNFTを購入できるようにしたのが画期的らしい。が、仕組みはよくわからない。自分も最近クリプトに徐々に手を出しつつあるが、クリプトウォレットがないと後々展開ができなくて面倒な気がする。

多くの企業がブロックチェーンを活用してNFTを導入する時、ある種マーケティングのためのパフォーマンスとして行うが、スターバックスはかなり真摯にコミュニティ作りに取り組んでいる。と書いてはあったが、どうなるのかね。だけど、新しい商品3つに挑戦するとNFTを獲得できるといったような、リアルな行動につなげる取り組みを実施するとのことだったので、投機目的でアートを購入しまくる人が多い中で、温かみのある取り組みだなと。

5. Germany's pioneer 'edible city' on the Rhine

ドイツのアンデルナッハに、エディブル・シティと呼ばれる街がある。誰でも収穫可能な庭園が設置されているらしい。庭園の管理は失業者を積極的に雇用しているっぽい。

エディブルシティというくらいなのだから、もっと大胆にベンチとか食べれたら面白いのに。(汚い)

事例

1. Chrono Trains

ピンを立てた地点から電車で5時間以内で行ける場所が、地図上にビジュアライズされる。まだヨーロッパの地図しか対応していないが、面白い可視化の仕方。遊びに行く場所が決まってない時に、探索的に目的地を発見できそう。車や自転車、徒歩など、移動手段の切り替えができれば面白いのにな。移動手段の変化で、遠い/近いの認識はいくらでも変わる。

2. NEWS STANDS

ニューススタンドを数年に渡り写真に収めてきた記録。新聞の表紙に当時の時代背景が刻み込まれている。この人は、他の作品もカッコよかった。

3. When a famous person dies, articles are written, tweets are tweeted, and Wikipedia is updated.

有名人の死の前後で,ネットの記事やSNSの投稿がどれだけ増加したのかをビジュアライズしたもの。その人の影響力が生々しく可視化されてしまう。

4. The Jet Lag App

ジェットラグに適応するためのサポートをしてくれるやつ。フライトの詳細を入力すると、旅行の前後2日間の光の浴び方、睡眠、カフェインの摂取量などを教えてくれる。海外に行く機会があったら使ってみようかなと思う。

5. Xnapper

スクリーンショットに簡単に装飾できる。いらんだろ。って思ったが、使ってみると意外と良い。


その他の出来事

千葉テレビ出たよ

9月3日(土)から、チバテレミライチャンネルにて、小・中学生向けにデザイン思考を伝える番組がスタートした。僕は番組の構成に関わったり、実際に出演したりしている。どうやらスケジュールがかなり押しており、放送期間後ろにずれ込んでるっぽい?前半は理論編・後半は実践編なのだが、実践編の方は、撮影の時に僕がコロナの濃厚接触者になってしまって参加できなかったので、どんな感じになったのかいまだに知らない。

死ぬほど恥ずかしいが、一応 note には書いておく。

久々に展示会に行ってきた

9月中旬に、久々に展示会に行ってきた。

ディーター・ラムス オーディオ展

一個目は「ディーター・ラムス オーディオ展」。友達に教えてもらい、一緒に行ってきた。

この、ゴリゴリ機能主義的なデザインがカッコ良すぎる。曖昧さや予測不能な要素を削ぎ落とし、ユーザーの「勝手な振る舞い」を許さない感じ。「このデザインが完璧なんだから、君は無駄なことを考えなくていいよ」感。興奮しますね。

ひもとく

2個目は前々から気になってたやつ。ラムスの後にはしごした。

トーキョーアーツアンドスペース(TOKAS)というアートセンターが、台北国際芸術村(TAV)と協働で開催したやつらしい。日本と台湾の土地の歴史を振り返り、街の新たな側面を発見するプロジェクト。台湾のアーティストの作品が多く展示されていた。

台湾に昔から生えていた木が、実は日本から輸入された人工樹であることを知り、そこから「人が創り出した自然空間」に興味を持ったというアーティストさんの作品。

台湾の日本統治時代に建てられた「高橋邸」という住居の歴史を調べ、当時の記憶を再構築する試み。

コロナ禍において、都市に住むホームレスの居場所をリサーチし、街と人の隔離状態に着目した作品。

など、刺激的な作品が多く展示されていた。なんとなくだが、自然と人工の二項対立が、如何に恣意的なものなのかを思い知らされた展示会だった。昔大学の指導教官に「アリの巣が自然現象なら、人間が作った建築物も自然現象と言えるよね」と言われたことがあるのだが、それが思い出された。


部屋にこもって本を読むのも楽しいが、やっぱ外に出て直接情報に触れるのはいいな。


ではまた来月。

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