見出し画像

課程博士の生態図鑑 No.25 & 26 (2024年4~5月)

※ サムネイルの背景に使用しているのは、ジョルジュ・ブラックによる「Still Life with Pipe」という作品の一部を切り取ったもの。分析的キュビスムかっこいいよね。


2年目の非常勤講師

神田外語学院という専門学校にて、「デザイン概論」という授業を昨年から受け持っているのだが、新学期が始まり、2年目の教員活動がスタートした。ちなみにデザイン概論がどんな授業なのかは去年の7月にまとめた note に載っている。

授業資料などは去年のものを少し修正するくらいだったので、準備はそこまで大変じゃなかったが、どんな生徒がいるのだろうとソワソワした気持ちを抱えていた。

去年と大きく変わったことといえば、3時間授業から1時間半の授業になったこと。全体のコマ数は変わらないのだが、前回は他の授業との兼ね合いでデザイン概論だけ短期集中型の授業だった。今年度から通常のスケジュールに戻ったらしい。それに伴い、授業期間は2ヶ月間から4ヶ月になった。

今回は去年よりもじっくりと授業を進行できると予想していたが、いざ始まってみるとそうでもない。1時間半の授業時間がとても短く感じる。僕は本来雑談をダラダラと交えながら授業を進行したいタイプなのだが、適当に話していたらあっという間に終了のチャイムが訪れてしまう。どうやら僕には3時間授業が合っているらしい。まぁ、教員を目指している身からすれば、異なる時間配分で授業を進行すること自体は練習になるので、それはそれでいいのだが。

ただ、今年度から1回あたりの授業時間が短くなったことで、専門学校と大学の違いをより意識するようになった。専門学校は、パッケージ化された専門スキルを効率よく伝達する場なのに対して、大学は、教員側もよくわからないことに対してあぁでもないこうでもないと言いながらゆっくり学びを探索する場だと思っている(それゆえに大学生はダラダラサボっていると勘違いされるのだが)。もちろん、どちらが優れているとかいう話ではない。

僕は大学畑の人間なので、今すぐ役に立つデザインスキルを授業内容として扱うよりかは、そもそもデザインとは、ということから扱いたいと考えている。というより、そういう教え方しかできない。しかし、これにはある程度思考のスピードを落とし、熟考し、議論する環境が必要だ。

専門学校では、「思考のスピードを落とし、熟考し、議論する」というプロセスを授業内である程度完結させる必要がある。なぜなら、専門学校の学生はかなりタイトなスケジュールで生活しているからだ。放課後は他の授業で発生した大量の課題をこなし、人によってはバイトもしている。僕としてはできるだけ宿題は出したくない。

なので、デザイン(本授業ではグラフィックデザインを中心に扱っている)に関するレクチャーも、課題制作も、学生同士のディスカッションも、全て授業内でやりたい。そんな中で学生に熟考させることは非常に難しい。

少し話が変わるが、PIVOT という YouTube チャンネルにて、東浩紀氏が「考えさせるというのは、自由を奪うことだ」と表現していた(25:30あたりから)。

この動画では、ネットメディアのあり方について語っているのだが、彼曰く、ネットというのは人に自由を与えすぎているらしい。人は考える自由を与えても大して考えない。例えば、本とか映画館とかは、ある種強制的に人を考える場に閉じ込めることができる。しかしネットメディアにその力があるだろうか、ということを話していた。これにはひどく共感する。僕自身にも心当たりがある。

つまり何が言いたいかというと、僕は授業内で学生に熟考させる時間をどうしても設けたいわけだ。授業ではレクチャーだけをして、「じゃああとは家で考えてきてください」ということはしたくない。

昨年は授業時間が3時間だったので、授業内で熟考させる時間は結構あったのだが、1時間半の授業でそれをやるのは勝手が違った。お喋りな僕には相当難儀である。「デザインってこんな魅力があるんですよ!」とか「実はこんな歴史があるんですよ!」とかを話していたらあっという間に時間が過ぎてしまう。レクチャーしたことを、まだ情報が新鮮なうちに議論してほしい。僕が教えたことを間に受けず、その場で疑問に感じてほしい。

まだ授業は2ヶ月残っているので、ここからいくらでも修正はできると思う。学生もかなり優秀だし。とにかく残りの授業をより良いものにするために、いろいろ工夫していくつもりだ。


ポッドキャスト始めました

4月の下旬に、研究室の3つ下の後輩とポッドキャスト番組を始めた。番組名は「あいだの遊び場」。

内容としては、月に一冊本を選定し、その本をきっかけとして雑談を繰り広げるというもの。元々は昨年の8月あたりから「美のOSを考える会」という勉強会をやっていて、記録のために議論したことを録音していたのだが、内容が思ったよりも面白かったので、改めてコンセプトから練り直し、公開することになった。

「美のOSを考える会」のままでも良かったのだが、雑談の内容を全て「美」に紐づけるのがいずれしんどくなるだろうし、そもそも「OS」という単語を使い続けるのがなんとなく斜に構えてるような気がしたので変えることに。

僕ら二人の雑談の癖として、様々な本の内容を適当に紐づけて、別の話題を引き出したり、東西の違いを見つめてみたり、とにかく何かの「あいだ」を行ったり来たりすることが多い。なので最終的には以下のようなコンセプトになった。

大学院でデザインを学んでいる2人がお送りする「あいだの遊び場」。
このポッドキャストでは、月に1冊本を選定し、その本を元に雑談を繰り広げていきます。
昔と今、東と西、自己と他者。様々な物事の「あいだ」に立ち、新たな世界の見え方についてゆるゆると遊びながら語り合う。
家事や勉強、お散歩をしているあいだの耳のお供に。

https://aidanoasobiba.notion.site/4dbac68d53754d95a7d0197472b014b0

ロゴに関しては僕が原案を用意し、造形は古屋さんにブラッシュアップしてもらった。「あいだ」の真ん中にある「い」のさらにあいだにある空間をくり抜き、図と地を反転させたようなロゴになっている。結構可愛くて気に入っている。

ポッドキャストは Spotify、Apple Podcasts、Amazon Music で公開しているのだが、予想よりも聞いていただいてるという印象。もちろんまだまだ視聴回数は少ないのだが、これからも大学院生同士の適当な雑談を楽しんでいただけると幸いである。


論文の修正

1月に教育システム情報学会に提出していた論文の査読結果が、4月にようやく返ってきた。論文の内容としては昨年の神田外語学院での取り組みを、アクターネットワーク理論を用いて分析するというもの。

結果は「条件付き採録」。一旦安堵したのだが、査読内容を見てみると、修正事項が大量にあった。厳しいな、と思う反面、「ここの修正はこの論文が参考になります」という超絶丁寧な指摘や、「ここの文章はこう表現した方が読者にとってわかりやすいと思います」など、掲載に向けてポジティブに意見してくれてる箇所が多くあり、いたく感心してしまった。

だが、修正期間は2週間と結構シビアなスケジュール。感心したのも束の間、急いで修正作業に取り掛かった。元々紙面ギリギリの文字数に収めていたにも関わらず、参考文献が約2倍に膨れ上がってしまうという事態になり、加筆修正よりも、文章を削っていく作業が大変だった。

今回僕は、提出先の学会が扱ったことのない手法を研究に持ち込んだので、研究背景や理論の説明だけで紙面の半分近くを使ってしまった。領域横断的な研究をすること自体はものすごく楽しいことだし、好きなのだが、論文に仕上げるときに無駄な自己紹介をしなければならないのが面倒。全く受け入れられない可能性も大いにあるし。でも結果的には好意的に受け入れてくれたので、そこは学会に感謝したい。

教育システム情報学会は、今まで出してきたどの学会よりも丁寧かつ親切な査読をしてくれたので、もし今回最終的に不採択になってしまったとしても、継続的に関わらせていただこうかなと思っている。


世界を分解して見るか、分解された世界を見るか

ふと、本当にふと、論理的に世界を捉えている人と、直感的に世界を捉えている人の違いについて思ったことがあるので、ここに書き記しておく。

論理的に物事を考える人は、世界を分析的に見ていると思う。例えば人間の多様性について考える時、世界には生物が住んでおり、その中に人間、様々な人種、ジェンダー、年齢の人がいる。もちろんいろんな分解の方法があるが、突き詰めると最終的に(概ね)人間個人の単位に分解される。

人間の多様性の例に関わらず、どういう観点で分解するか、どれくらい細かく分解できるかで世界に対する解像度が高くなってくるわけだが、ツリー構造の枝をどれくらい細かく捉えるかで論理的思考レベルが決まってくるのではないかと思う。なので、論理的な思考の人は、今までの分解過程、つまり思考が歩んできた道筋を辿る、あるいは復元することができる。

それに対して直感で世界を捉える人はどうだろうか。僕は前まで直感的な人は世界に対する解像度が荒いと勝手に思っていたのだが、直感的なのにとてつもなく鋭い人を何人か目の当たりにしてきて、考えが変わった。直感する人は、論理する人とは逆に、すでに分解された世界を捉えることができるのではないかと思う。つまり、人種の多様性について考えるとき、人間に割り振られている人種や性別などのラベルに興味はなく、最初から個人でしか見ていないということだ(単に偏見がないだけとも言えるが)。論理型の人と違うのは、分解過程を復元できない点。最初っからツリー構造の最下層のノードを見ているので、そのノードがどこからリンクしてきているのかを辿ることができないからだ。

もちろん、これは極論なので、論理的な人、直感的な人にもレベルというものがある。論理的な人はどれだけツリーの枝を増やすことができるかで論理レベルが決まってくると思うし、直感的な人はどれだけツリーの枝を瞬間的に細かく見ることができるかで直感レベルが決まってくると思う。(直感の方は視力検査をイメージするといいかもしれない)

直感型の人は往々にして口下手なので、世界に対する解像度が荒いのではないかと思っていたが、思考の順序を辿れないだけで、もしかしたら最初から鮮やかな世界が見えているのかもしれない。だって論理型の人と直感型の人が、必ずしも話が合わないわけではないし。多分話が合わない時は、論理型か直感型かは問題ではなく、見えているツリーの階層が違うだけなのかもしれない。


5月に博論のプロットを一通り書き終えた。あとはひたすら肉付けしていくだけなので、このまま突っ走りたい。なかなか面白い博論になりそう。書き終えたら、PDF を note に公開しようと思う。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?