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文通・2 再びつながること-5(完結)

求めることで会える人がいる


出会って良かったと思える友達が大学時代にいた。
ウン十年の時を経て、年賀状だけのやりとりから、お互いに返事を求めない、書きたい時に書く手紙が行きかうように。
きっかけは数年前の喪中はがき。
わたしも友も、家族について思うところがあったのだが。

前回↓

わたしが、自分の母への気持ちについて友達にはっきりと語ったのは、その手紙が初めてだと思う。
それまでも、何人かの友達には、自分もご多分に漏れずなニュアンスで「母と娘っていろいろあるよね」などと言うことはあれども、それ以上の明確なことを口にできなかった。


なぜか?

母と仲が良くない=母親に好かれていない娘と見られることへの恐れ。

口にすることで、自分で自分にレッテルを張ったことになり、取返しがつかない気がする。

話題的に、似た経験をしてそうな信頼できる相手を選ぶとはいえ、受け取りの度合いは経験等で差がありそうで、よけいに自分が傷つく可能性もある。

そもそも、話す流れが自然に発生しないと話しにくいし、また自分の中で、結論的なものはなく、言いたいことが相手にわからない話になる。

また、話の軽重を自分でコントロールできる自信がなく、相手も戸惑ったり、退いたり返事に困ることも十分ある。

などなど。


実はKちゃん以前に、赤裸々に母との関係について会話をした相手が一人いた。
学生時代の一人旅、長野のユースホステルで出会った女子学生で、それが生まれて初めて、他人と「The 母への葛藤」について話す機会だった。

一期一会の為せる業だったと思う。


その後、何十年の時を経ての、母への気持ちを書く機会となったのがKちゃんへの手紙だった。

で、さらにその返信が、一年半前、Kちゃんから来たのであった。

Kちゃんの字を追いながら、(アドラー、あたしも読んだよ~)とか、(そうかあ、そんなこと思ってたんだ)とか心の中で呟いていた。

そして改めて感じたこと。
そう。
結局、自分で自分のありようを決めるしかないのだ。
アドラー心理学でもそうだが、過去の出来事が自分を苛むのではなく、過去を解釈する今の自分が、自分を苦しめているということもあるのだ。

逆に言えば、過去も未来も変えられないが、今は自力で変えられるということになる。


ちょっとその辺りも書いた記事↓


とはいえ、言うとやるとは大違いなのだけど、でも、それを知ってると知っていないのも大違いだと思っている。


大人になってからのいくつもの出会いのおかげで、こんな自分も悪くないと思えることも多くなったが、そこにたどり着くための最初の分かれ道を作ってくれたのは、大学で出会ったKちゃんたちだと思っている。


恒例の年賀状が、今年もKちゃんから来た。

突然のクリスマスカード、驚きつつ嬉しかった、また返事を書くね

との言葉が添えられていた。

今度はわたしが待つ番で、それが忘れたころにやってくるのも、良しである。


儚くても確かなものもある。



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#メンタル #アドラー #母と娘

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