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「夜が明ける」 著者/西加奈子さん



⁕ あらすじ

普通の生活を送っていた高校生と、ちょっと風変わりな高校生の関わりを描いている。
それぞれが人生において理不尽な出来事を経験し、懸命に生きていく。
ひとりは、ある日を境に貧困の中で生きていかなければならなくなる。
もうひとりは、生まれながらにして貧困や虐待と思われる中で生きている。
他にも、家庭のためにバイトをする高校生がいる。自分のお小遣いのためではなく・・・。
やがて高校生たちは大人になるが、職場で待ち受けていたものは・・・・


この小説は貧困や虐待、パワハラがテーマになっているため、
読んでいて辛くなると思われる方は、控えることも検討してくださいませ。

⁕ なぜこの本を読もうと思ったのか

なぜこの本を読もうと思ったかというと、誰かに勧められたのだろうか?紹介されたのだろうか?
・・・覚えていません。
ですが、どこかで誰かに教えてもらったことは覚えています。
どこの誰だろう・・・。

というのも、OKANは本を読むときは、とりあえず図書館にあるか確認をするのです。
その後、手元に置いておきたい本は、本屋さんやネットで購入したりしています。
この本は、OKANの図書館の予約にずーっと入っていました。
そして借りるまでに1年かかりました。1年待ったのです。
(現在も100件以上の待ち状態です。図書館には、何冊かあるみたいですが・・・)

なので、いつ誰に教えてもらったのか思い出せません。(昨日のことも覚えていないOKANが、1年も前のことを覚えているでしょうか・・・)
手元にとって、パラパラとめくり、どんな内容なのかな・・・と見ていたら、とても重いテーマを扱っているけど、気になる・・・という感じでした。

OKANが以前していたボランティア活動では、この本の内容のような状態の中で、生活していた子どもたちがいます。

パラパラとめくっているうちに、読み始めていました。


⁕ OKANの感想(ネタバレがあるようなないような感じです)

・ちょっと風変わりな高校生とのかかわり

”ちょっと風変わり”とは、ある意味目立つ存在だけど、それはいい意味ではない感じです。
その”ちょっと風変わり”な高校生に、主人公がほんのちょっと興味をもって、交流を始めるのですが、高校の間は”ちょっと風変わり”な高校生は楽しく過ごすことができたんじゃないかな、と感じました。

”ちょっと風変わり”の場合、周りの人の影響が大きくでるのではないだろうかと考えます。
それは、周りの人が必要以上にかまったり、わざわざ無視したり、噂話をしたりなどです。

この小説の場合は、周りが特別に良い人というわけではなく、ありふれた高校生ではあるが、いじめを率先してやるような生徒がいないことから、”ちょっと風変わり”な高校生は、ひとときの幸せな時間を過ごせたと感じました。

この”ちょっと風変わり”な高校生は、家庭環境により、自分がどれだけ空気のようになれるかを実践しているのです。

身体は人一倍大きいのに、気配を消す努力を全力でしているのです。

彼は何ひとつ悪いことはしていないのに。

なので、彼にとっての高校時代は、思いがけずに最高の時間を過ごすことができたと感じ、この辺りは安心して読むことができました。

〜OKANのエピソード〜

人は集団になると、無言の圧力や、暗黙のルールなどができてしまうことがあります。

OKANの子ども時代も、まさに貧困の渦中にいるのではなかろうか、と思われる児童がいたように思います。

そういう児童を差別的にみる子どもがいました。

そしてOKANが、その子と話したりすると「やめた方がいいよ」と、アドバイスをしてくる子がいました。

OKANは子どもながらに「・・・何も嫌なことされていないよな・・・話すと結構楽しいんだけど・・・」と思いました。

これは大人になってから分かりましたが、ただの”大きなお世話”だったんですね。
OKANに「やめた方がいいよ」と言った子自身の価値観を、OKANにそっと押し付けてきたのです。

そして、子どもが発する言葉の多くは、親や養育者が発しています。
「やめた方がいいよ」と言う、おせっかいなども、子どもがもって生まれたものというより、周りの人の言葉や態度だと考えられます。
そういうものを、無意識に取り込んでしまう。もちろん、取り込まない場合もありますが。

ちなみにOKANは”ちょっと風変わり”な人って、優しくておもしろい人が多いと感じています😊

・貧困、虐待

生まれながらにして貧困や虐待の中にいると、その人たちにとっては、それが”普通”なのかもしれない。
なぜなら、他を知らないから。
毎日、食べるものがあって、虐待のない生活を知らないから。
他の家庭を知るのは、ある程度大きくなってからですよね。
というのは、ボランティア活動でサポートに入ったご家庭との関わりでOKANが感じたことです。

そして生まれながらにして、貧困や虐待の中にいて親(養育者)から理不尽なことを言われたり、されたりした場合、子どもはそれを自分が悪いからかも・・・。
自分の頑張りが足りないからだ・・・。
親(養育者)の機嫌が悪いのは自分のせいなんだ・・・。
きっとみんなもそうなんだろう・・・。
などと考えるのは自然なことだと感じます。
弱いからとかではなく、しょうがないのです。

貧困や虐待は、子どもの成長に著しく影響を与えてしまうと感じます。
肉体的にも精神的にも。

ただ、虐待をする親も必死で生活をしています。
とても頑張っています。
頑張っても頑張っても、生活が楽にならない。
うまくできない。
何をどうすればよいのか、わからないのかも知れない。
特に、他に頼れる人がいなくて一人で子育てもしなくてはならない状況は、どんなに切ないか。

子どもはというと、いつもおなかをすかせて、親からは気まぐれに叩かれ、時には罵声をあびせられる。
そして、言葉では「いいよ」と言いながら真逆の態度をとる親におびえながら、成長期を過ごす・・・。

子どもからしたら、それでも”大好きな親”なんですよね。多くの場合は。
色んな感情が入り乱れている子どもも、いるかもしれません。

さらに、子どもは自分の家が「何かおかしい・・・?」と感じても、そこで生活しなくてはならない。
家を出たら生きていけない。
子どものうちは、どんな家だとしても、そこに帰るしかない。

・ブラック企業内でのパワハラ

始めての職場がブラックだったら。
・・・なかなかそのことに気が付けないと思います。
他を知らないと、それが”普通”だと感じるかもしれません。

初めての就職先がブラック企業だったりすると、理不尽な言動をされてもそれは自分が悪いから。
自分の頑張りが足りないからだ・・・。
社会ってこういうものなんだろう・・・。
などと考えてしまうのは、自然なことだと感じます。

パワハラは多くの場合、それが悪いことだとわからないように、少しづつ行われていると感じます。
そして、感覚がマヒしてきてひどい暴言が当たり前になり、ジリジリと追い込んでいくのではないだろうか・・・。

パワハラが成り立つには、周りの人の存在も多少あるのではないだろうか・・。
”見て見ぬふり”というもの。

ただ、パワハラがあるような職場で声をあげることは、非常に困難だと考えられます。
パワハラが成り立つ、ということは、何かが歪んでいるのです。
何かが歪んでいる場合、正論は簡単に覆されると考えられます。

・周りに助けを求めることの難しさ

この小説は最後の方で、「助けを求める」ことに焦点をあてています。

OKANはそこでとてもホッとしました。

ある人物はこれでもかというくらい、ひとりで頑張っていたのです。
自傷行為をしながらも必死で頑張って生きて生きて、ボロボロになりながらも生きているのです。

そういうときって、周りが見えなくなりますよね。

自分の頑張りがまだまだ足りないって考えちゃったり・・・。
些細なことでもイラついたり。

とはいえ「助けを求める」って、難しいですよね。

「助けを求める」ことを、弱いからとか、みじめだとか考えちゃうと本当に誰にも何も言えなくなっちゃう・・・
頑張れる範囲ならいいけど、キャパを超えまくっても自分一人で抱え込んでいたら、壊れちゃう。
人は壊れるほど頑張らなくていいとOKANは思います。

ただ、人って壊れる前がわかりにくいかもしれません。
周りに気づかれないようにするし。
この本に出てくる人物は、すでに壊れていても、平静を装っている感じです。
それは、壊れていることを”弱い”とか”恥”と捉えているのかな。
だから、周りにそう見られたくない。

理想の自分と、現実の自分が違いすぎると生きづらくなる。

現実の自分を知って、「もう無理だ。ダメだ。助けて」と声に出せたら何かが変わるかもしれないのに。

・渦中にいると見えなくなるもの

この小説を読んでいる間も、それが貧困であったり、虐待であったり、パワハラだとはすぐには気づけないと感じました。

生まれながらの貧困、虐待は特に人生の転機がないまま、ずーっとその生活をしている場合があるとしたら、それは日常的で、普通で、問題のない環境だと感じてしまうかもしれない。

OKANがボランティアで知り合ったご家庭は、養育者も貧困、虐待の中で育っていました。
いわゆる連鎖です。
なので”普通”といわれるライフスタイルが本当に分からないのです。

そして、渦中にいると、どれが問題なのか分からなくなるのだと思います。

この小説で、パワハラを受けているときに、とても視野が狭くなっていると感じました。
それは悪いことではなく、その状況にいたら多くの人が同じようになると考えられます。

視野が狭くなると見えなくなるものが出てきます。
それは、「自分が自分の人生を歩んでいい」という権利や
「断る」権利。
「選ぶ」権利。
「自分自身が幸せになる」権利などです。

これらは、人が人間らしくいるための大切なものだとOKANは考えます。
そして、どんな人にもこの権利はあるとOKANは考えています。

地球上のすべての人たちが、ひとり残らずです。

・OKANは誰も悪くないと考えます

虐待をされる人。
パワハラをされる人。


世の中には、被害者を責める考えや、被害者にも問題があるよね、と考える人もいますよね。
そう思うには、その人になにか理由があるのですよね。
思うことは自由ですが、それは言葉や態度に出しても”誰も救われない”とOKANは考えます。

誰も救われないどころか、被害者はさらに”傷つく”という二次被害を受けるのです。
すでに傷ついている人の傷に、塩を塗り込むようなものです。
このようなことができる人は心の奥底に、何か得体のしれないものを抱えているのかもしれませんね。自分が抱えているものに気づいてあげてほしいです。

幸せな人は、わざわざ人が傷つくようなことを言ったりしません。(神経発達症などの場合は別です)
頭の中で思うことはいいのです。
思考はなかなか止められません。
被害者を責める考えは、頭の中で持っていてもいいのです。
「される人にも問題があるんだよ」など。

ただ、言葉や態度には出さないほうがいいのかもしれませんね。
人を傷つけると、多くの場合自分も傷つきますが、なかなかそれに気づきません。


虐待をする人。
パワハラをする人。

この小説にでてきた、いわゆる”する側”の人。

虐待に関しては、この親御さんの背景が少し見えました。
赤ちゃんを産むときから、孤独だったこと。
必死で仕事を探したり、子どもをかわいがろうとする場面。
しかし、現実はとても厳しい。
ひとりで必死で、要領よく上手に子育てができない場合、何か理由があると思います。

それでも、誰にも助けを求めず頑張っていると、キャパや限界を超えたときに、罵声や叩くなどの行為にいたるのだと思います。

虐待は親御さんのSOSでもあるとOKANは考えます。

そして、その後に親御さんは大きな自己嫌悪に陥り、それがさらにストレスとなり虐待は繰り返されるのかもしれません。

どこかで、”子どもをかわいがらなくてはいけない”と思っても、現実として余裕がない場合、言葉では「あなたのことが大切」と言いながら、目が笑っていないということが起きる・・・。
言葉と態度にギャップがあることを、ダブルバインド(二重拘束)というそうです。
このダブルバインドが頻繁に行われると、子どもは混乱し、「自分が悪い子だから、お母さんの目が怖いんだ」など、認知の仕方に歪みが生じることがあります。

この場合事実として、「私のことを大切」と言っているけれど、目が笑っていない。
これが事実。
そして、それは私が悪い子だからではない。
お母さんの状態に問題があるから。
かといって、お母さんが悪いわけではない。

悪者探しは、状態をよくすることには繋がりにくいとOKANは考えます。

なので、虐待をする人もパワハラをする人も、何かそうしてしまう理由や背景、状態があるんだろうな、と考えます。

理由や背景があれば、何をしてもいいということではありません。
虐待やパワハラの”行為”は決して許されるものではありません。
きちんと罰するものだと思いますが、OKANは、その”行為”と””を切り離して捉えます。
「罪を憎んで人を憎まず」です。

「誰も悪くない」と考えることは、悪者探しをしないということです。
悪者探しで得られるものが、”ない”に等しいのではないだろうか、とOKANは考えます。

・読んでくれてありがとう

読んでくれてありがとうございます。
なんか嬉しいです。
みなさんに幸あれ😊💕













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