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ライターは映画制作でいうなら撮影担当、監督ではない

いろんなプロジェクトの話を持ちかけられて、自分の役割やできる範囲を説明する場面は多い。たまに「いやそれはライターの役割ではないな」と思うこともある。

どう説明したら分かってもらいやすいか考えて、最近、映画制作に例える方法を思いついた。多人数が1つのプロジェクトに参画して、同じ目的の完成形をめざす構図は同じだからだ。

もし映画制作に例えるなら、ライターは「撮影担当」になる。

仮に5000字の取材・執筆案件があるとする。関係する人は一番ざっくりと考えるとこんな感じ。

① 制作ディレクター
② 取材対象者
③ ライター

① 制作ディレクターは、5000字のアウトプットの全責任を負う立場。どんな意図でこの文章を作って掲載し、どんな効果をめざすかを決めて実践する人であり、プロジェクトの一番の権限者でもある。

映画制作でいうなら監督にあたる。映画監督なら「何の話で1本撮るか」「作品をどんなテイストにするか」「誰を配役するか」を決める全責任と権限を持っている。それと同じ。

② 取材対象者は、5000字のアウトプットを効果的に見せてくれる登場人物。目的に適った経験や知識があるので、今回詳しく話を聞いてテキストにさせてもらう。

映画制作でいうなら俳優にあたる。実際に表に出て話し、可能であれば顔も出して表現してもらう役割が同じ。

③ ライターは、取材現場で5000字のアウトプットの材料を集めて、制作ディレクターが意図した効果や世界観を実現できるようにする。

映画制作でいうなら撮影にあたる。編集するための有用なシーン(言葉やエピソード)をたくさん記録して、後の加工工程に耐えうるだけの数や質を担保しなければいけない。

一番多いのは「ライターは監督もできそう」という認識のズレだ。

監督がいない映画は完成しない

最近は減ったけれど、時折「全体をいい感じにしてください、じゃ」と丸投げするディレクターもいる。映画制作でいうなら監督が撮影担当に向かって「いい映画になるようにいい感じに撮っておいて、じゃ」と丸投げするのと同じだ。まずあり得ない。

でもテキスト制作の現場ではたまにある。

この監督が何を以て「いい感じ」と思う人なのか、この作品はどちら向きに走ればいいのか、情報がない状態では撮影できない。ライターが現場で取材をするときも同じで、5000字を誰に向かって書き、どんな読後感を得てもらいたいのか、目的が分からなければ作りようがない。

映画だと「そりゃないな」と分かるけれど、テキスト制作の現場では言葉を尽くさないとこの辺を分かってもらえないときがある。

撮影担当が監督を兼ねられるのは、こんなとき

撮影担当にも近いライターが監督を引き受けられるのは、こんな条件下しかない。

原稿内容の最終決定権を任されたとき

例えば原稿修正が発生して、制作側のAさんも取材されたBさんもその修正に反対している。でもライターであるCさんが「これが一番効果的な書き方なので、これでいきます」と決定して、採用される現場。

まずない。これならライターがアウトプットの全責任を負いつつ権限を持つ監督として機能できるけれど、そんなところはない。

先ほどの「全体をいい感じにしてください」の制作ディレクターが本当にライターに全任せして、どんな原稿が出ても何も言わず引き受けてくれるならいい。でも現実では当初「お任せします」という人に限って最終工程の手前で「こうしてほしかった」と要望が出てくるのが常だ。

自分も依頼側になったら本当の全任せは難しいので、気持ちは分かる。だからいろんな打ち合わせの最中に「ああ監督っぽいところも任せたいんだろうな」と感じたら「でも後からこの辺でチェック入るだろうな」と予想して話をする。

ズレそうなときは、あらかじめ伝えておく

ライターとしての自衛策は「上記のような役割の違いをあらかじめ説明しておくこと」しかない。曖昧な返事をしてできない部分まで担当して、動く段階でNOと伝えるのも不誠実だ。

説明しても伝わらないときは断ることもある。やっぱりできない部分まで担うことは不可能だからだ。正直、ここをクリアしたら仕事の半分が終わったような気になる。

こういう交渉ごとは新卒で入った広告営業職で鍛えられたかもしれない(仕事は大変だったけれど)。

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