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東京国立近代美術館『民藝の100年』を見に行く

言葉だけなら「民藝」はよく聞いている。どんなものかも何となくイメージがある。それは「何となくくらいのイメージしか持っていない」とも言えて、結局はまだ何も知らないのだった。

今回行ったのは東京国立近代美術館の企画展『柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年』。各地の民藝のコレクションから選りすぐった暮らしの道具類を展示、同時代の出版物、写真、映像も交えて「民藝」の内外に広がる事象を浮かび上がらせる企画。

事前チケット制で朝10時の枠を選んだ。それでも最寄りの東西線・竹橋駅から美術館に向かう人たちと一緒になる。展示を自分のペースで見て歩くとたっぷり2時間半はかかった。

そしてやっぱり「民藝」の一部しか知らなかったと分かった。

出版と深いつながりがある「民藝」

自分が持っている一番大きな「民藝」のイメージは木製家具かもしれない。深い色味で野太い木材で構成された、がっちり頑丈な椅子や卓。展示を見ていくとその段階は「民藝」のずいぶん後なのだと知る。

展示のスタートは雑誌『白樺』から。学習院高等科在学中に武者小路実篤、志賀直哉らと雑誌『白樺』の発刊に参加している。西欧美術の紹介もしていたという説明の横にセザンヌの絵が掲げてある。意外と人が足を留めずに進むので、セザンヌの絵をゆっくり見ることができた。

まず雑誌から始まるだけでなく「民藝」は何かと出版を活用している。蒐集した道具や家具、織物や小物など、1テーマである程度ボリュームができると写真や解説を施した図録や書籍が刊行される。出版してくれたからこそ1つのまとまりでこうやって自分たちも見ることができる。

「民藝」を伝えるメディアとして刊行された雑誌『工藝』は、それ自体も民藝運動の中の作品と位置づけられて、布張りの装丁や工芸的な箱が作られて単なる本の域を超えている。

展示を見ていくと「何かと出版してるなー」と思う。道具だけだと思っていたら出版も重要だった。

美の出合いと蒐集、創作へ

日本の木喰仏より先に朝鮮半島の陶磁器に惹かれている。へええ。イギリスのスリップウェアなどにも出合ってこれまでの「美術」とは違う場所にある美しさを発見、1925年くらいから「民藝」という言葉を使い始める。

蒐集して美を分析する段階から、今度は新作民藝を作り出す段階へ。同人ギルドを作って木工や金工で「民藝」の美を自分たちで生み出すようになる。

そうか、作って提案するところもやっていたのか。というか、そうだよな、プロダクトデザインとか今もあるんだからやっているよな、と再認識する。

マルチクリエイターでもある柳宗悦

今回の展示で面白いと思ったのは、「民藝」の変遷のほかに柳宗悦個人に光を当てたところだった。彼は「民藝」を発見、人へ広めるにあたってさまざまなメディアを駆使し、見せ方を考える。

新作民藝を企画し、制作プロデュースを行い、関連書籍を刊行し、論説で思想を広める。陳列ケースのデザイン、民藝館の設計、書籍レイアウト、表装の細かな指示などあらゆる分野で「こうしたい」という意思を強く伝えている。「民藝」を体現できる衣服や持ち物は同人メンバーみんなで揃えて歩いていたという。

明治以降を体現する字がない、ということで「民藝」の美の基準をもとにフォント開発にも取り組んでいる。へええ。本当に何でも手がける。そして「民藝」を広めるために出版のほか、民藝館という美術館、新作民藝品を買うことができるショップを設けた。

柳の手ではないところでも高島屋などのデパートで展示会や販売会を行っている。崇高な思想を伝えるというよりプロダクトを提供して生活スタイルまで変えようとする運動だったのだと今回やっと知った。

戦時下との親和性

あー、と思ったのは昭和初期から終戦までの「民藝」の流れだった。

日本文化を対外的に宣伝するという国の政策にはちょうど良いコンテンツとなって「民藝」は戦時下でも活発に推進できた。朝鮮・台湾・中国に固有の民藝・文化についても積極的に紹介したり展示会を行ったりしている。琉球・北海道についてもそうだ。

柳個人としては皇民化とは逆をいく「その民族の美」を追求するつもりで活動していたけれど、その活動の基盤には植民地や占領による庇護や政策がある。なかなか複雑。

名取洋之助が指揮した雑誌『NIPPON』でも「民藝」が日本文化として格好良く紹介されている。この「格好良く」が曲者でもある。

戦後の「民藝」、自分が知っていた「民藝」

終戦後からだんだん知っている「民藝」になっていく。民藝ブームが起きて、衣食住のデザインがなされ、機械工業によるプロダクトへ及んでいく。鈴木大拙の「禅」の思想や当時の抽象美術ブームとも連動して、日本文化の魅力的な入口になっていく。

柳宗悦は1961年に亡くなる。その頃は「民藝」のテイストが広まりすぎて、観光地の土産物も「民藝品」と言われてしまう状況を危惧する人もいた。

ここまでが1階の第1会場。すでに2時間くらい回っていた。まだ2階の第2会場がある。

第2会場は1958年くらいがスタート。「民藝」はノスタルジーを含むものになっている。そういえば民藝建築というのもここに入るのか。和風の居酒屋さんの建屋などがこれにあたる。

実際、同人メンバーによる飲食店の看板やメニュー、意匠なども存在するけれど「それっぽいもの」も量産されるようになる。うーん。最近自分がよく知っているのはこっちなのかもしれない。

松本だから馴染んでいた部分

私は松本出身なので「松本民芸家具」という言葉は昔から馴染んでいた。街を歩くと「そういえば民藝なのかな」と思う意匠もたくさんある。染め抜きの作品を見たときは松本の漬物屋さんの意匠を連想して「あっ、これ知ってる!」と思った。

昔は家具も家にあった。あれの根っこがこれか、と自分の感覚のルーツが明瞭になった気がした。

時間は多めに

企画展を回るだけで2時間半かかってしまった。実は同じチケットで所蔵作品展のMOMATコレクションも鑑賞できる。でも今回は時間切れ、500円でコレクションだけ見ることもできるので、また来ようと思う。

館内でも確か「時間配分に気をつけてね」の注意書きを見た。「またまた大げさな」と思ったけれどその通りでした。

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