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戦国ツアー&歴史捜査 美濃編

おはようございます。歴史捜査官のアルキメデス岡本です。

世間では新型コロナウイルスの影響で自粛ムードですが、こっそりと岐阜(美濃)の戦国ツアーに行ってきましたのでレポートします。

旅の目的

織田信長や明智光秀達が活躍した戦国時代、岐阜(美濃)は織田信長によって統治された。また、大河ドラマ「麒麟がくる」で脚光を浴びている明智光秀のゆかりの地でもある。この戦国時代の歴史が詰まった岐阜の探索と、明智光秀の謎めいた生涯を歴史捜査する事が目的である。

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経路

今回の出発地点は川崎。川崎から岐阜までは直通バスがないので、名古屋まで電車か直通バスで行く方法があります。

今回はコロナウイルスの影響でバスは危険と判断し、電車で行くことにしました。新幹線だと直ぐについてしまうので、東海道線でちんたら向かうことにしました。岐阜駅まではおおよそ396km、6時間30分かかりました。

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小田原辺りまでは混みあってましたが、そこからは空いていて余裕を持って行けました。途中で乗り継ぎしますが岐阜駅までは、東海道線1本で行けちゃいます(^-^)電車って凄いねw

ひとまず、岐阜駅でランチしてからお目当ての岐阜城に向かいました。駅前には信長の黄金像がありました。

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岐阜城

別名、稲葉山城。齋藤道三の居城であったが、1567年(永禄10年)9月。かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。斎藤龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡した。
同年、信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで、城と町の名を「岐阜」と改めた。この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。

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天守までは登山ルートとロープウェイルートがあり、今回はロープウェイを使って行きました。

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城めぐりはこれまでにも何度も行っているが、岐阜城はこれまでの城の中でも標高の高い場所にある見事な城であった。

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天守からは岐阜市街が一望出来る素晴らしい眺め。信長はここから天下統一の野望を創造したのだろう。

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城内には、岐阜城の歴史とリアルなジオラマが展示されていた。ジオラマ大好物(^-^)

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麒麟がくる大河ドラマ館

大河ドラマ「麒麟がくる」の公開に合わせ、岐阜城下の岐阜公園内にある大河ドラマ館に立ち寄った。

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齋藤道三役の本木雅弘さんのリアルなフィギアが印象的だった。今プレイしているゲーム「仁王2」に出てくる齋藤道三(マムシ)とは似ても似つかないイケメンだw

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齋藤道三と織田信長は同盟関係にあり、道三亡き後に信長がこの城の城主になった訳だが、この時まだ、明智光秀は歴史の表舞台には登場しない。

明智光秀とは

清和源氏の土岐氏支流である明智氏に生まれる。父は江戸時代の諸系図などでは明智光綱、明智光国、明智光隆、明智頼明など諸説がある。また、父親の名前も伝わらない低い身分の土岐支流とも言われている。

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生年

生年は信頼性の高い同時代史料からは判明せず、不詳である。

生誕地、幼少期の土地

生地は岐阜県可児市広見・瀬田(旧・明智荘)の明智城とも言われる。少なくとも、美濃国(岐阜県南部)あたりで生まれたことは事実であるとみられている。このほかに近江国出生説などもある。

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明智光秀の視点から歴史捜査

明智光秀は調べれ調べるほど謎が多い人物だ。私は戦国武将では織田信長が1番好きだったのだが、ここ最近の明智光秀の歴史的再評価に伴い、本能寺の変の真実や光秀の人生に興味を持ち始め、光秀の視点から歴史捜査をする事にした。

真実は果たして解明されるのか。

乞うご期待。

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続く











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