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欲望の時代の哲学2020-欲望の奴隷からの脱出 前編

おはようございます。コロナ鬱に感染したアルキメデス岡本です。

さて、今回はNHKで放送された「欲望の時代の哲学2020」を観たのでまとめます。非常に難解な話だったので、上手くまとめられるか分かりませんがご覧下さい。

欲望の時代の哲学とは

「欲望の資本主義」シリーズからのスピンオフ企画、今度の舞台はニューヨークです。

「人はみな、本来、自由の感覚、意志を持っています。ところが、現代の哲学、科学、テクノロジー、そして経済が人々の自由に影響を与え、自ら欲望の奴隷と化したという議論があります。
私たち人間は自由です。自らがもたらした不自由の呪縛から、脱出せねばならない。」
マンハッタンのビル街を遠く臨み、心地よい風の吹くニューヨークの桟橋に一人佇むガブリエルのこんな「闘争宣言」から番組は幕をあけます。「資本主義と民主主義の実験場」での思索の過程、そこから生まれる言葉は、戦後アメリカとの深い関係性と共に今日ある日本のこれからを考える時にも大いに響くことでしょう。(番組スタッフ)

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マルクスガブリエルとは

ドイツの天才哲学者。ドイツ観念論の哲学を専門としていますが、英米の分析哲学、フランスの構造主義・ポスト構造主義にも精通しているためガブリエルはしばしば「天才」と評されています。古代ギリシア以来の哲学の伝統を理解したうえで、広範な知識に基づいて現代哲学に新たな地平を切り開こうとしている存在です。

2013年に出版された『なぜ世界は存在しないのか』は、哲学書としては異例のベストセラーとなり、ガブリエルの才能を一般にも知らしめました。これは専門書というより、どちらかといえば、一般読者向けの著作ですが、彼の「新実在論」の構想が、きわめて簡潔に語られています。そこで、この書物を少し見ることにしましょう。

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新実在論とは

「新実在論」を理解するために、ガブリエルが提示した具体的な例を取り上げてみましょう。彼は次のようなシナリオを語っています。

アストリッドがソレントにいて、ベスビオス山を見ているのに対して、私たち(あなたと私)はナポリにいて、ベスビオス山を見ている。まず古い実在論(これをガブリエルは形而上学とも呼びます)によれば、唯一存在するのはベスビオス山だけです。これが、ある時はソレントから、別のときはナポリから、偶然に見られるわけです。

「構築主義」の立場では、三つの対象、つまり「アストリッドにとってのベスビオス山」「あなたのベスビオス山」「私のベスビオス山」だけがあります。それを超えて、対象や物それ自体があるわけではありません。

それに対して、ガブリエルが提唱する「新実在論」は、少なくとも、四つの対象が存在すると考えます。

(1)ベスビオス山
(2)ソレントから見られたベスビオス山(アストリッドの観点)
(3)ナポリから見られたベスビオス山(あなたの観点)
(4)ナポリから見られたベスビオス山(私の観点)

彼は、これらすべてが存在すると考えるだけでなく、さらには「火山を見ているときに感じる私の秘密の感覚でさえも事実である」と述べています。

ガブリエルによると、一方の古い実在論は「見る人のいない世界」だけを、他方の構築主義は「見る人の世界」だけを、それぞれ現実と見なしています。それに対して、ガブリエルは次のように述べて、自らの「新実在論」を正当化しています。「世界は、見る人のいない世界だけでもなければ、見る人の世界だけでもない。これが新実在論である」。

こうして、ガブリエルの「新実在論」は、物理的な対象だけでなく、それに関する「思想」「心」「感情」「信念」、さらには一角獣のような「空想」さえも、存在すると考えるのです。その点では、「実在論」の一般的なイメージとは、いささか離れていると言えます。

それでは、このように存在する対象を広げることによって、ガブリエルは何を意図しているのでしょうか。それについては、2015年に出版された『私(自我)は脳ではない─21世紀のための精神哲学』のタイトルが示唆しています。その本でガブリエルは、精神を脳に還元してしまうような、現代の「自然主義」的傾向を批判しています。そうした「自然主義」によれば、存在するのは、物理的な物やその過程だけになり、それ以外は独自の意味をもたなくなります。

こうした動きに対して、ガブリエルの「新実在論」は原理的な次元から再考しようとしているのです。

実在論といったとき、もしかしたら、科学的な対象だけを存在すると見なす「自然主義」が想定されるかもしれません。しかし、ガブリエルが構想する「新実在論」は、そうした科学的な宇宙だけでなく、心(精神)の固有の働きをも肯定するものとなっています。

自由意志とは

SNS社会の中、増幅する欲望、怨恨、そして分断。コミュニケーションツールとして期待を集めたデジタルメディアこそが私たちの社会を壊しているとガブリエルは指摘する。なにゆえに人々の心をむしばんでいるのか?カント、ヘーゲルを引きつつその本質を明らかにしていく。カントが考えた「自由意志」という概念、その先にある「目的の王国」とは?ドイツ伝統の哲学に新たな生命を吹き込むことで、現代人の心の問題を解き明かす。

・SNSは必然的に民主主義を損なう。

・プラットフォームは中立ではない。

・SNSは法の支配がない無法地帯。

つまり、SNSは意見の不一致を加速させる装置であり、意見が合わない時、相手に対抗する自己イメージを生み出してしまう。

自由意志は絶えず自らを攻撃する。

何故か?それは他人から抱かれるイメージに満足できないからです。

自由意志とは、物事が任されている状態。

意志とは、成すべきことを思い描いて行動する能力。複雑化した社会においては、自由意志とは意志の調整の最適化を意味します。

目的の王国とは

カントによれば、「自らの人格と他者の人格にある人間性を目的として捉え、いかなる場合も手段としてはならない。」と言う。

自らが自由な存在である為には、他者を尊重しなければならない。それぞれの目的を尊重しあう社会を「目的の王国」と呼んだ。

良い社会→人間の自由意志↑

アメリカの自由とは

アメリカは国内の人々と諸外国に、半ば強引にアメリカが理想とする自由を押しつけている。1番とは限らないのに自分達が一番だと思い込んでいる。

特にドイツでは「アメリカは終わった」という認識である。

1920年~1930年代のドイツのように既に自由が奪われている。

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アメリカの開拓者は極端なプロテスタントだった。

「私が真実だと感じたものは全てが真実だ。なぜなら私が真実だと感じるから真実なのだ」

聖書にある事は、神父様に教えてもらわなくても自ら理解できるという超主観性があり、アメリカではそれが極限まで進みました。1835年、フランスから来た政治思想家トクヴィルはこう言いました。

「これほど熱狂的な信者を見た事がない」

それも、極端なプロテスタントがショービジネスと融合しました。つまり、アメリカの資本主義は全てがショー化している経済システムなのだ。牧師の演説から始まり、この50年間でショービジネスは全てを飲み込んでいます。

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ディズニーランドやテーマパーク化したレストランなどを例に、全てをショービジネスが飲み込みエンターテインメント型の資本主義に発展、それがアメリカの特徴である。

また一方、アメリカの主なイデオロギーには、科学的唯物論(自然科学的な知のみで体系化された哲学)があります。

アメリカは常に二極化しており、科学的唯物論に対してキリスト教への信仰があるのです。科学と空想がハイレベルで融合し、幻想の力とテクノロジーと結びついて進歩を遂げて来ました。幻想がコントロールされているまではそれで良かったのですが、50年前から制御不能となり始め、インターネットの加速によって悪化しました。つまり、自由になりすぎたのがアメリカが抱える問題です。

統治とは、自由を与えすぎるものではなく、自由を与え過ぎないように上手くやることだと思います。

自由とは善と悪の能力

ドイツの哲学者シュリングによれば、「自由とは善と悪の能力である」と言う

悪い社会→人間の自由意志↓

つまり、自由とは善にも悪にもなりうると言う事です。自由の仮面を被った悪か、それとも善かその自由意志を使うのはあなたの能力次第です。これまでの世界では、自由と欲望の資本主義がグローバルを支配して来ました。しかし、新型コロナウイルスのパンデミックによって、アメリカ型の資本主義は限界に達し破壊されています。しかも内側から。

闘争のない社会システムとは

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「平等であると猜疑心がつのる。猜疑心がつのると闘争が起きる」(リヴァイアサン)

哲学者ホッブズによれば人類は互いに憎みあっている。なぜなら社会と関わりあいたくないからだと言う。いわゆる個人主義とよばれる概念だ。

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「各人は全ての人と結びつきかつ自分にしか服従せず自由であり続ける必要がある。社会契約はこれを解決する」(社会契約論)

一方その反対の概念は、ルソーが唱えた社会契約論だ。個人が集まった社会が先立ち、社会が個人に空間を与えるという考え方だ。

ガブリエルは言う。この2つの考え方には、それぞれ問題があるという。それは、どちらの考えも個人と社会を両立しない結果をもたらす。その原因は、生存形式と生活形式の混同にある。

生存形式と生活形式とは

生存形式とは、資本主義とは最適を求め生存する為の闘いであり、社会ダーウィ二ズム(ダーウィンの的者生存の理論で社会現象を説明する)の方法を社会に当てはめようとしている。しかし、この考えは誤っている。何故なら、社会ダーウィ二ズムは、社会を統計や物理学として捉え、人間をデータや数字で管理します。闘争を闘争と捉える事がさらなる闘争を駆り立ててしまうからだ。しかし、それは人間本来の性質ではない。理想的な社会では生存を保障する、無条件なベーシックインカムが必要です。

生活形式とは、精神的向上です。それは意味のある人生と豊かな生活です。生存形式による的者生存の社会ダーウィ二ズムではなく、勝ち負けを超えた次元の体験が豊かな生活なのです。アメリカの若者を調査した結果、統計上、仕事は溢れているのに社会は不安定だと感じる割合が高かった。

つまり、データ至上主義の資本主義には、体験的価値がなく、数字と体験はイコールではないという事です。

お金をいくら稼いでも幸福を感じないのは、これが原因です。

総駆り立て体制とは

ハイデガーによれば、世界を技術的な目で見る人は、周りのもの全てが最適化可能な資源に見えるという事です。森や木は木材、土地や建物は資産、そして我々人間は人材として、最適化可能な資源と扱われるようになったのです。彼はそれを「総駆り立て体制」と呼びました。

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この社会は複雑です。それを数字や統計によって単純化し、社会ダーウィニズムで弱者を切り捨ててしまえば、闘争のない社会は永遠に訪れないでしょう。データ至上主義の資本主義と生産性の向上を目指すだけの経済は、意味のある人生をもたらしません。

自由、単純化、合理化が我々を苦しめている正体だったとしたら、この番組がこれからの生き方のヒントになるかもしれません。

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それにしても一体、アメリカの自由主義者は何と戦っているのだろうか?

つづく






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