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たいへんおすすめな”振り返り”について

毎日、Notionで自分に対して日報を提出している。

そして、週の終わりには週報を作成する。

さらに、全く同じフォーマットでその月を振り返る”月報”も存在する。めちゃくちゃな振り返りようである。振り返ったと思ったらまた振り返る、つまり360°振り返った結果、その目は真っ直ぐ正面を見つめている。それがこの頃の私である。

さて、一時期私は自分に対して「同じフォーマットでそう何回も振り返って、意味があるものか?」と疑問を抱いたことがある。例えば9月15日の出来事について、当日の夜に振り返り、週の終わりに振り返り、月の終わりにまた振り返る。そんなにやらないといけないか?一度済ましてしまったものは、もうそれきりでよくない?と。答えはもちろん「否」であった。

同じ出来事に対して異なる尺度(ここでは日、週、月といった時間の尺度)をあてがうことで、全く同じ事象でもその意味がかなり違ってくる。たとえその瞬間に自分にとって不都合な事件だったとしても、後から眺めて「あの事件があったから、後に繋がったんだなあ」とか「もしかするとあそこは気をつけるポイントだったんじゃないかなあ」と云々するきっかけになる。個人的に最も効果を感じているのが前者で、どんなに後味の悪い経験だったとしても「まああれは是非とも経験しておくべきだったね」と自分を納得させる力がある。傷跡を抱えたまま生きるのはとても辛いので、できれば全てに対してポジティブな解釈を加えてやりたい。

そんなわけでたいへんおすすめな”振り返り”であるが、日・週・月ときたら当然四半期単位でもやらないわけにはいかない。四半期の振り返りに関しては、年初に立てた目標にどれくらい近づいているかをチェックしている。

ちなみに、よくある「〇〇の資格を取る」とか「●●に行く」みたいな”行為”の目標でないことに注意していただきたい。そういう目標を立てることを否定はしないが、個人的には「それをやった結果、どうなったの?」という精神の状態をより重視したいので、それならば最初から”状態”に着目しようじゃないか、ということでこのような目標になっている。

また、同様の理由から基本的には目標数値も持たないようにしている。その数値が正しく”目標の状態”を指し示すものならよいが、そうでない場合ただのハリボテになりかねない。

とはいえ、”自分の人生に集中している”ってどんな状態??と理想状態がはっきりしなければ実現のしようがないため、ある程度の指標としての数値は置くようにしている。ただしあくまでも実現度合いは「超具体的な理想状態の言語化」と「自分との対話によって把握した現状」を重ね合わせることで測るものとする。

それで、1Qの振り返り(3月末時点)はけっこう散々だった。

実際散々だったので仕方ない。なんかイライラすることが多かったし、仕事をサボって上野やら代々木やらをぶらついたりした。これはいかんよね、ということで行動を振り返り、改善のためのアクションを検討し、実行した。その結果、3Q(9月末時点)はとてもいい状態で終えることができた。

粒度が上がっていてとても素敵である

こうやって振り返ることで実際の改善につながるし、何より「ちょっとは成長したんだなあ」と実感することができる。別に成長しなくてもいいんだけど、せっかく時間をとって目標を立てたんだから、何かしら意味のある充実感は得たいじゃない?(われ、ただ足るを知らんvoice)

余談

最近読んだ小説の中でこんな一節が出てきた。

いかに幸福なことであっても、わたしには進歩のない状態を望むわけにはいかない。わたしには、神聖な喜びとは、神と融合することではなく、無限にして不断の神への接近であるように思われる……もし言葉を弄することを恐れないなら、わたしは《進歩的》でないような喜びを軽蔑する、と言ってもいいだろう。

『狭き門』/アンドレ・ジッド

自分は振り返りを通してだんだん成長し、幸福に近づいているような感覚がある。しかし、それが”進歩を望む”ことでしか感じられないものになりはしないか?という点に注意したい。よくある目標・振り返りの営みは、必ず何かの”理想”を描き、現状とのギャップを明らかにし、その階段状のものを必死に登っていくことを奨励するようなものばかりだ。しかし、幸せとはそういうものだろうか?

必死に登っていくこと自体が”幸せである”と思い込むのは危険だ。本当は幸せであるはずなのに「進歩していないから」ということを理由にその幸せを認めない、といった状況に陥っていないだろうか?

”進歩中毒”に御用心である。


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