公平な世界はあり得るか

 不公平な世界だな、とつくづく思う。身長はそれほど高くないし、顔も良く言っても中の上。良く言ってもね。つまり中の下。関西人は、盛ることで生きながらえる。おかんが「お母さんもう寝るで」っていう宣告をしたにも関わらず、リビングで1ミリも教養のつかなそうなバラエティをつけているのを見て「盛る」を学ぶ。

 背は高くないと書いたが、その中でも足が短い。背高くないのに足が短いとはどういうことだ。バランスがおかしいだろう。小4くらいまでは、座高が高いことを嬉々として友人に話したが、5年生のときに恥ずかしいことに気付いた。そういう意味では、ぼくらは5年生からもう大人だ。

 何が不公平と怒っているかって、いっぱいある。トムクルーズとぼくはさほど身長が変わらないけれど、トムクルーズは顔の出来があきらかに規格外だし、なんかめちゃくちゃゲーム持ってる奴は昔からクラスに2人はいるし、学生のくせに死ぬほど海外行ってる奴もいた。普通、生きてるだけで金がかかる世界なんだから大学生が金を持っているはずはない。どこにヨーロッパを周遊する金があるんだ。

 一方では6人に1人が子どもの貧困と言われたり、相対的貧困の割合が増えていたり、なんだか「顔」とか「運動能力」とか「スタイル」「勉強」とかよりもっと残酷な指標すら、その乖離は輪をかけて大きくなる。

 何より、格差が激しいのは精神だろう。一生懸命GDPを上げて、高度資本主義経済に則りに則った日本社会は、その物質的恩恵の対象、利便性の犠牲に、精神を病んでしまった。「1億総病んでる社会」もそう遠くない。Mr.Childrenが「みんな病んでる」って歌ってたのは90年代だった。桜井和寿には、当時から「1億総病んでる社会」だったのかもしれない。

 今だって、Twitterをひらけばみんながセルフブランディングをして稼ごうとしている。フォロワーを増やしたって、別に自分の人生が進展することはないことを直感しながら、1日何ツイートもするのだ。目標を立てて。昔、Twitterは掃き溜めだった。Faebookが、表面的なコミュニケーションの主戦場として役割を果たしていた。突然現れたSNSは、「意識高い系」とは別の意識の高さを一方的に誇張しあう地獄へ。ストーリーにはニコチンくらい依存性があるらしい。みんな、誰かの思想に、不特定多数の匿名の思想に、身を委ねて行くのだ。無思考に。

 そういう意味では格差ではないかもしれない。格差であるのは歴史的には刹那なことかもしれない。もっと絶望的なバッドエンドに向かって、この社会は凋落の一途を辿る。希望がない、幸福がない、自由がない、、、、ない、ない、ない。

 哲学がない、と思う。哲学とは、別に気難しくて白いあごひげを蓄えたおじいさん専用の営みではない。自分の人生を生き、自分の精神を満たして生きるために必要な、想像力と教養と思考力の結実である。哲学なき生き方は、豊かさはもたらさない。哲学なき獲得に待ち受けるのは、虚無しかない。精神的な獲得は、哲学が欠かせないのだ。

 哲学する人はする人で、そろばんの方がてんでダメだ。狼だぬきは日中は起業家であるので、そろばんを頑張っている。しかし、元来かなり不向きである。心は常に精神世界を奔放に旅しており、理想の世界への憧憬と現実への絶望、そして逃避に終始。過去に名を馳せた頽廃的な偉人に小さな憧れを持ちつつ、先人ほど嫌われる覚悟も持てず中途半端なバランスをとることしかできない。

 なるほど、まずは自分が公平である必要がありそうだ。自分自身が世界に対して公平出ないうちは、世界のほうが自分に対して公平であることはありえない。同じく、世界が誰かにとって公平であることはありえない。世界は関係性である以上、だれかが公平でない世界は公平な世界になり得ない。つまり、この瞬間から公平であることを希求しないことには、公平な世界はあり得ないのだ。

「人生は基本的に不公平なものである。それは間違いのないところだ。しかしたとえ不公平な場所であっても、そこにある種の『公平さ』を希求することは可能であると思う。それには時間と手間がかかるかもしれない。あるいは、時間と手間をかけただけ無駄だったね、ということになるかもしれない。そのような『公平さ』に、あえて希求するだけの価値があるかどうかを決めるのは、もちろん個人の裁量である。」 (村上春樹)


もちろん、個人の裁量である。つまり、個人の哲学に依存する。哲学がないとうことは、公平な世界は当分あり得ないということか。

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