シン・日曜美術館『深読み 夏目漱石の坊っちゃん』⑭
前回はコチラ
1989年5月某日(日曜)午後
藪蔦屋 りうていの間
坊っちゃんの乗った船は小さな港の沖合に停泊し、「赤ふん船頭」が操る艀(はしけ)が横付けされる。
坊っちゃん曰く「大森くらい」の小さな漁村だから、大きな船は岸まで入ることが出来ないんだね。
赤ふんの艀に坊っちゃんは勢いよく一番に飛び乗った。
陸(おか)へ上がった坊っちゃんは、磯に突っ立っていた鼻たれ小僧を捕まえて「中学校はどこだ」と聞く。
小僧が「知らんがの」と言うので、坊っちゃんは悪態をついた。
これは第一章の「栗泥棒」そっくりの構図だな。
坊っちゃんが命よりも大事にしていた栗を、隣の質屋の勘太郎という小僧が盗みに来た。
坊っちゃんは勘太郎を捕まえるが、格闘の末、逃げらてしまう。
確かにそうだな。
そこへ「妙な筒っぽうを着た男」が現れ、坊っちゃんを「港屋」という宿屋へ連れて行く。
「港屋」では「やな女」が気色の悪い声で「お上がりなさい」と言い、坊っちゃんは「上がるのが嫌になった」ので、それには従わず門口で「中学校を教えろ」と横柄に言う。
女は「ここから汽車で二里ばかり行かなくっちゃいけない」と答え、坊っちゃんは「なお上がるのが嫌になった」と思う。
坊っちゃんは「妙な筒っぽうを着た男」から革鞄を奪い、軽便鉄道の停車場に向かい三銭の切符を買ってマッチ箱のような汽車に乗る。
これは第一章の「将棋」だね。
芝居の女形のような兄と将棋を指していた坊っちゃんは、兄が卑怯な待駒をするので腹が立ち、兄に向って思い切り飛車を投げつけた。
「飛車」が「汽車」で、「対局を放棄した」が「上がるのが嫌になった」だ。
第一章で語られた幼少時代の話が、別の形で言い換えられているというわけだな。
しかし「仕掛け」は、それだけではない。
まだ他にも? 何だろう?
「数字」だよ。
この「港の場面」では「1から6までの数字」が使われている。
まず艀に乗った人数が「五六人」、積み込まれた荷物の箱が「四つ」、軽便鉄道の運賃が「三銭」、港から中学校までの距離が「二里」、そして坊っちゃんは艀から陸へ「いの一番」に上陸した。
ホントだ…
だけど、何のために?
言葉遊びかもしれんな。
よくあるだろう? いろんな魚の名前を入れてみたりとか。
「好きだとイワシてサヨリちゃん、タイしたもんだよスズキくん」みたいな。
上手いこと言うね。
ははは。こんなの朝メシ前さ。
さて、軽便鉄道で市内に入った坊っちゃんは、最寄り駅から人力車を雇い、赴任先の中学校へやって来た。
しかしもう放課後で、当直の先生もどこかへ出掛けていってしまっていて、仕方がないから車夫に宿屋へ案内しろと坊っちゃんは指示する。
着いた宿屋が「山城屋」だった。
坊っちゃんは、こんな感想を述べる。
山城屋とは質屋の勘太郎の屋号と同じだからちょっと面白く思った。
この「ちょっと面白く思った」って、なんか引っかかるな。
「東京の質屋」の屋号と「四国の宿屋」の屋号を同じにしたのは、これを書いている漱石自身だろう?
自分でそういう設定にしておいて、それを自分で「ちょっと面白い」だなんて、ハッキリいって寒くないか?
確かにそうだな。
坊っちゃんが最初に泊まる宿屋の名前が、東京の生家の隣の敷地にあった質屋と同じ名前であることには、何の必然性もない。
この宿屋では大した事件も起こらんし、すぐに出て行くことになるから、ここの屋号など大和屋でも河内屋でも何でもいい。
むしろ同じ名前にする方が邪魔、ストーリーテリング的には蛇足だ。
もしかしたら漱石は、第一章との関連性を臭わせたのかもしれない…
同じ名前の「山城屋」を出すことで、他の部分も対応していることを暗に伝えるために…
その仕掛けを「ちょっと面白い」と言ったのかも…
うむ。それは有り得る。
勘のいい人間なら第二章が始まってすぐに気付くが、そうでない者は仕掛けに気付かぬまま読み進めてしまう。
だからあのタイミングで「山城屋」というワードをぶっこみ、それを坊っちゃんに「ちょっと面白い」と言わせることで、この小説の楽しみ方をさりげなく提示した…
人々を惑わすことに快感を覚える知能犯がよくやる手法だ。
漱石の仕掛けたトリックを見落とさないように、注意深く読み進めよう。
坊っちゃんが山城屋で案内された部屋は「楷子段(はしごだん)の下の暗い部屋」だった。
風通しが悪く、とても暑いので、坊っちゃんは部屋の中で汗びっしょりになる。
これは「清の甥の家」の再現だな。
甥の家に居候することになった清は、坊っちゃんの部屋同様に劣悪な環境の部屋を与えられ、汗をかいて寝込んでいた。
熱にうなされた坊っちゃんは、その夜、清さんの夢を見る。
清さんが「越後の笹飴」をパンダのように笹ごとむしゃむしゃ食べているという、かなりホラーな夢だ。
夢の中の坊っちゃんが「笹は毒だからよしたらよかろう」と言うと、清さんは「いえこの笹がお薬でございます」と答え、旨そうに食べ続ける。
清さんの不気味さに言葉をなくした坊っちゃんが「ハハハハ」と笑うと、そこで目が覚めた…
ふーむ…
なるほど… そういうことか…
え?
この夢は、ただの夢じゃない。
トリックが仕掛けられている。
えっ? この夢の意味がわかったの?
君はフロイトやユングの夢分析が使えるのか?
そんな高尚なものは必要ない。
この夢はただのジョーク、駄洒落だよ。
ダジャレ?
「ハハハハ」の「ハ」は「笹の葉」の「葉」だ。
は?
そして「むしゃむしゃ」は「武者武者」。
影武者とか武者小路実篤の「武者」だ。
「ハハハハ」が「葉葉葉葉」で「むしゃむしゃ」が「武者武者」?
いったいどういうこと?
坊っちゃんが見た夢は「笹竜胆(ささりんどう)」の夢…
武家の棟梁こと清和源氏の家紋の夢だったのさ(笑)
ええっ!?
清は「この笹はお薬になる」と言っただろう?
あれは「笹竜胆(ささりんどう)」の「竜胆(りんどう)」のことを言っていたのだ。
でも「竜胆(リンドウ)」って花の名前だよな?
花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」と「正義感」…
その通り。
しかし厳密に言えば、あの花は「竜胆(リンドウ)」ではなく「竜胆の花」だ。
そもそも「竜胆」というのは、生薬として使われる「根」の部分のことを言う。
クマの胆嚢(たんのう)を乾燥させた生薬「熊胆(くまのい/ゆうたん)」よりも苦いから、熊よりも上の竜の胆嚢「竜胆(りゅうたん)」と名付けられたんだ。
下腹部の病、特に泌尿・排泄のトラブルによく効く漢方薬として、今でも広く利用されている。
なるほど…
だから清さんは「お薬」だと言って食べていたのか。
年をとると、そっち系のトラブルが多くなるから。
そういうこと。
ひょっとすると、宮沢賢治も坊っちゃんの夢のトリックに、気付いていたのかもしれないな…
賢治が? なぜ?
『銀河鉄道の夜』では、ジョバンニが夢の中に入ってすぐに「竜胆」が咲いていた…
あれは坊っちゃんの夢「笹竜胆」から来ているのかもしれない…
なるほど… 夢つながり、か…
まあ、賢治はひとまず置いておこう。
第二章の続きを見ていくぞ。
夢から覚めると、宿屋の下女が部屋の雨戸を開けていた。
ここで坊っちゃんは「茶代」、つまり「心付け・チップ」を渡すことを考える。
以前に誰かから「旅先では茶代をやらないと粗末に取り扱われる」と教えられたことを思い出したからだ。
坊っちゃんは大奮発して田舎者の度肝を抜いてやろうと考え、懐に入っていた全財産十四円の中から五円札を1枚取り出し、下女に渡す。
現代の価値で言うと5万円から10万円くらいのチップだ。
しかし下女は、坊っちゃんの期待するようなリアクションは見せず、ただ「変な顔」をしていた。
その後、朝飯を食べ終えた坊っちゃんは、茶代の効果で靴が磨かれていることを期待して玄関に行ってみるが、靴は磨かれていなかった。
なぜ下女は変な顔したんだろ?
田舎で五円は大金だ。
大方こんな大金を受け取ったことが初めてで、どう反応していいのかわからなかったんだろう。
なるほどね…
それにしても、第一章では「壱円札」が出て来て、第二章は「五円札」か…
やけに漱石は「紙幣」にこだわっている…
これも臭うな。
やっぱり?
坊っちゃんの時代は、どんなお札だったんだろう?
この本を見ろ。
日本のお金の歴史が紹介されている。
ホントだ!
坊っちゃんの時代、明治二十年代後期に流通していた五円札は…
えーと…
あった!
「大黒様」の五円札と、「神功皇后」の五円札と、「菅原道真」の五円札だ。
マジかよ。五円札だけで三種類もあったのか…
坊っちゃんが山城屋の下女に渡した五円札は、いったいどの五円札だろう?
どれも「有り得る」な…
肖像モデルになっている人物は、どれも『坊っちゃん』に関連する…
それぞれの人物の紹介文を読んでみろ…
菅原道真は、ライバルの策略によって、九州の太宰府へ左遷された…
『坊っちゃん』のキーワードのひとつ「九州への赴任」だ…
神功皇后は、八幡様こと応神天皇の母で、清和源氏の間では「武神・聖母」として崇拝されてきた…
そして「釣り」の名人としても有名で、瀬戸内海では神功皇后にちなんだ、竿も浮も使わない超シンプルな「鯛釣り」が行われていた…
何それ? 坊っちゃんと赤シャツと野だがする「釣り」にそっくりじゃん…
神功皇后、めっちゃ臭うな…
残る大黒様は、七福神のひとりだけど…
これは『坊っちゃん』とは何の関係もなさそうだ…
そんなことはないぞ。大黒天も、かなり臭う。
どこが?
「大黒天の五円札」の解説をよく読んでみろ。
えーと…
使われていたブルーのインキが硫黄成分に弱く…
温泉地ではお札が真っ黒になってしまうトラブルが多発した…
だから急遽、ブルーを使わない菅原道真の五円札が作られた…
えっ!?
山城屋の下女が「変な顔」をした理由は、これだよ…
大金である五円札を渡されても全く喜ばなかったのは…
硫黄で真っ黒に変色してしまう「ブルーの大黒天の五円札」が、温泉地では忌み嫌われていたからだ…
やられた…
ていうか、漱石も…
皮肉なものだな…
まさか自分も、温泉地で嫌われていた「大黒天の五円札」と同じブルーで印刷されるとは…
『坊っちゃん』は… 深いね…
ああ。ミス・キマタが言っていただけのことはある…
僕たちが考える以上にトンデモナイ作品なのかもしれない…
ここは慎重に事を進めよう…
まったく、油断も隙もない男だよ、漱石という人は…
つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?