深読み『雨音はショパンの調べ』前篇
1989年4月某日
深読み探偵学校
まいったなあ… 初日から遅刻だ…
だけど急に授業の日時を変更するなんて、こっちの身にもなってほしいよ…
しかも日曜の朝9時って…
ありえないでしょ、サンドロビッチ先生…
えーと、教室はN講堂だったな…
ふう… 着いたぞ…
まだ先生が来てませんように…
遅れてすみませ… ん?
・・・・・
あれ?サンドロビッチ先生は?
サンドロビッチ先生は、急遽イタリア校へ赴任なされました。
ええっ?
代わりに今年一年、この木又が「深読み美術論・応用Ⅱ テクストに隠されたアート・暗号」を受け持つことになりました。
どうぞよろしく。
そうなんですか…
それでは、えーと… たまき先生が…
「きまた」です。木に又と書いて木又。
あ… すみません…
それでは… 木又先生が… 授業をこの時間に?
もちろん。
美術の話は日曜朝9時に限りますからね。
?
あなたはいつまでそんなところに突っ立っているのですか?
授業を始めますよ。早く彼の隣の席へ。
あ、はい…
おはよう…
おはよう。
僕はクリス。よろしく。
よろしく。僕は岡江です…
へえ。それじゃあ君があのモン・オカエか。
プロフェッサー・サカモトに育てられたという…
うん…
君は… 見かけない顔だね… 授業一緒になるのは初めて?
見かけないのも無理はない。
僕はロンドン校から交換留学生として昨日日本に着いたばかりだからね。
噂に聞いた君と最初の授業で会えるとは幸先がいい。
今日の授業、僕たち二人だけ?
寮の連中は、昨晩、僕の歓迎会だと朝まではしゃいで、さっき僕が寮を出る時はまだ爆睡してた。
あれじゃあ昼過ぎまで起きないだろう。
なるほど。やれやれ。
お二人さん、もう挨拶は終わったのかしら?
あっ、すみませんでした。ミス・キマタ…
では始めましょうか。
早速ですが、まずこれを聴いてください。
これは 5年前… 1984年に大ヒットした小林麻美の『雨音はショパンの調べ』…
その通り。クリス君もこの曲は知ってますよね?
はい。作詞はユミ・マツトウヤです。
クリス君、松任谷由実を知ってるの?
ロンドン校では日本からの留学生とルームメイトだった。
彼が日本から大量のビデオとカセットテープを持ってきていてね。
もしかして、謙さん? 斉藤先輩?
そう。サイトーだ。
彼にはホントまいったね。毎晩遅くまで日本のアニメや歌を聞かされたよ。
だからすっかり覚えてしまった。
♬めにうつる~すべてのことは~めえっせえ~じ~♬
へえ、すごいな…
目に映る すべてのことは メッセージ…
まさにその通り。
今日の授業のテーマをここまでストレートに言い表すフレーズはないわ。
どうもありがとう、クリス。
?
それでは本題に入らせていただきます。
あなたたち、『雨音はショパンの調べ』のメッセージには気付いたかしら?
『雨音はショパンの調べ』のメッセージ?
あなた、ちゃんと歌詞を聴いてた?
この歌には松任谷由実が仕掛けた秘密のメッセージが隠されているの。
サビにも「暗号のピアノ」という言葉があったでしょ?
暗号の…ピアノ…
そう。ピアノは暗号よ。
そういえば、この曲が入っていたアルバムのタイトルは『CRYPTOGRARH』だったはず…
「CRYPTOGRARH」とは「暗号」という意味…
その通りです。
収録されたアルバム名からもわかるように、この歌は最初から「暗号ソング」として作詞されている…
あなたたちに『雨音はショパンの調べ』のメッセージが、ユーミンの仕掛けた暗号が、読み解けるかしら?
あの… 木又先生…
この授業って「深読み美術論」ですよね?
そうよ。それが何か?
つまり、歌に秘められたメッセージと、それを読み解くための鍵であるピアノの暗号には…
アートが関係しているってこと…
当然のことです。
そうじゃなかったら、わざわざ授業で取り上げると思う?
ですよね…
今から45分、あなたたちに時間を与えます。
二人で深読みをしてください。
どんな暗号で、どんなメッセージが隠されているのかを…
45分で? 次回までの宿題じゃなくて?
45分もあれば十分でしょう。
あなたたち二人の実力を知るいい機会にもなりますから…
さて、いったいどんな深読みが聞けることやら…
ではまた後程…
やれやれ。初日からハードだなあ…
しかもユーミンが歌詞に仕掛けた暗号と秘密のメッセージだなんて…
そんなもの本当にあるんだろうか…
目に映るすべてのことはメッセージ、だよ。
とりあえず、もう一度ミュージックビデオを見てみよう。
何かわかるかもしれない。
それにしても変なムービーだな…
そうだね。なぜあの部屋は、あんなに雨漏りしてるんだろう?
もしかして夢の中の世界とか?
夢?
ほら、ぐっすり眠っている時に尿意を催すと、川や海に落ちる夢とか、びしょ濡れになる夢を見るって言うでしょ?
それじゃあ君は、あのセクシーな彼女が現実世界で「おねしょ」をしているとでも言うのかい?
さすがにオネショはないだろうけど…
寝たまま水を大量にかけられたとか…
寝ている人物に大量の水を?
いったい誰が? 何のために?
いや、例えばの話だよ…
まったく、SF映画じゃないんだから。
物語としては面白いけど、この歌には関係なさそうだ(笑)
そうだね…
それにしても奇妙なシチュエーションだな…
ベッドの周りの床はビショビショだし、ベッドの上の雨漏りシートは水の重みで垂れ下がりすぎて破裂寸前じゃないか…
「止めて、あのショパン」なんて言ってる場合じゃないよ…
「止めて、あの雨漏り」だ…
室内なのに雨が降るモチーフ…
ベッドの中の物憂げな女と、何も言わずに立ち去った男…
そして、ひどい染みのある壁…
そういえば、ずいぶんと汚い壁だな。なんでだろ?
どこかで見覚えが…
もしや…
どうしたの、クリス君?
あれは…
タルコフスキー…
は?
タルコフスキー知らないの?
ロシアの映画監督アンドレイ・タルコフスキーだよ。
Andrei Tarkovsky(1932-1986)
ああ、タルコフスキーか…
深読み宗教シンボル論の授業の予習で観たことあるけど、あまりにも映画が退屈で、途中で寝ちゃったんだよな…
だけど『雨音はショパンの調べ』とタルコフスキーに何の関係が?
観ればわかる!
ここの図書室はビデオも視聴できる?
うん。タルコフスキーとかマニアックな映画はだいたいそろってるけど…
それじゃあ図書室へ行こう!急げ!
図書室
えーと… あった!
タルコフスキーの『STALKER(ストーカー)』!
これを見てくれ!超長いから早送りで!
マジかよ… 嘘だろ…
やっぱりそうだ!
『雨音はショパンの調べ』の部屋は『ストーカー』の部屋だったんだよ!
あの壁… なんてこった…
だからあの部屋は、雨漏りどころか雨が降っていたんだ…
『ストーカー』の「心の中に秘めた欲望が現実化してしまう部屋」でもあるから…
じゃあ、ガラス瓶が並んでいたのは…
ラストシーンの…
That's right !
そして、悲しみのあまり水浸しの床に横たわる女は…
悲しみのあまり水浸しの床の上に横たわるストーカーか…
ちなみに、この有名なカットは…
タルコフスキーがゴーギャンの絵を引用したものだ…
「STALKER」というのは「迷える人間を導く案内人」だからね…
え? ゴーギャン?
この絵だよ。知ってるでしょ?
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
ポール・ゴーギャン
あっ!
そういうこと。
この映画には他にも有名絵画を使った色んな仕掛けが施されている。
まさに不思議な仕掛けだらけの「ゾーン」のようにね。
タルコフスキーは様々な絵画からインスピレーションを受け、それを作品に落とし込む天才なんだ。
タルコフスキーといえば、『鏡』という作品もあったような…
そして『雨音はショパンの調べ』にも「鏡」のシーンが…
これだね。
この作品にも「雨が降る部屋」のモチーフが使われている。
この『鏡』にも『ストーカー』みたいに有名アートが使われているのかな…
もちろん。
タルコフスキーが大好きな画家Andrew Wyeth(アンドリュー・ワイエス)の絵がふんだんに使われているよ。
確かに『鏡』っぽい…
広い穀倉地帯にポツンと立つ家のそばで、去って行った愛する人を嘆き悲しむ女を描いたこの絵とか…
『クリスティーナの世界』
アンドリュー・ワイエス
開けっ放しの窓から吹き込む風に揺れるカーテンを描いたこの絵とか…
『海からの風』
アンドリュー・ワイエス
だろう? 僕もワイエスが大好きなんだ。
何気ない情景を切り取った絵なんだけど、その背後に深い物語性があるというか…
彼の絵を見てるとイマジネーションが湧いて来る。
詳しくは、この評論を読むといい。
すごい…
タルコフスキーって、映画監督というか映像作家、映像の芸術家なんだね…
その通り。
タルコフスキーの映画は、まさしく「映る絵画」だ。
つまり『雨音はショパンの調べ』には、タルコフスキーの映画が隠されていて…
そのタルコフスキーの映画には、ゴーギャンやワイエスの絵が隠されている…
そういうこと?
うん。
だけど、それではミス・キマタの合格点はもらえない…
『雨音はショパンの調べ』では「暗号のピアノ」と歌われている…
隠された秘密のメッセージは「暗号のピアノ」という鍵で開かれるんだ…
そうだった…「暗号のピアノ」だ…
しかもそこにはアートが関係していると木又先生は言っていた…
いったいどういうことだろう?
ピアノを描いた有名な絵ってことかな?
絵というよりは音、音律に関することだろう…
2番では「雨の調べ」を「好き」と言ってるし…
「好き」とつぶやく 雨の調べ
やめて そのショパン
しかも、そのピアノは「ショパン」と限定されている…
「ショパン」と「雨の調べ」といえば…
24のプレリュード(前奏曲)第15番 Raindrops...
『雨だれ』だよね…
うーむ…「暗号のピアノ」か…
床に落ちて来る雨粒が、何らかのメッセージになっているのだろうか…
あの部屋の床は白黒模様、ピアノの鍵盤と同じカラーだったし…
もしかして…
バイナリーコードかな?
バイナリ?
ピアノの鍵盤って、黒鍵と白鍵がたくさん並んでるだろ?
まるでバーコードみたいに見えない?
どういうことだ?
ノートに書いたらわかりやすいかも…
ほら、こんな感じで…
なるほど…
確かに「暗号のピアノ」だ…
で、この数字をアルファベットに変換すると…
S… T… A…
まさか、STALKER?
Y…
「STAY」だ…
ステイ?
犬にでも命令してるのか?
あの部屋で待ち続けていれば、去って行った男が戻って来るってことかな…
いや、一度終わってしまったものは、元には戻らないだろう…
過ぎ去った過去は帰らない…
人間関係でも物理法則でも同じことだ…
うーん…
じゃあ「暗号のピアノ」って何のことだろう…
結局ふりだしに戻ってしまったな。
あっ!時間!
もう45分過ぎてるよ、クリス!
ふぅ… 仕方ない。ミス・キマタに教えを乞うか…
じゃあ教室に戻ろう…
それにしても、いったい『雨音はショパンの調べ』には、どんなメッセージが隠されてるんだろう…
中篇につづく
SPECIAL THANKS
奈義町現代美術館
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