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E72: クラリネットと英和辞典


恋の話は、うまく書けない。
50代になってもまだよくわからないから。

けれど、なんだかうまく息が吸えない。
僕にもそんな時期があった。

それは、恋と言うのかな。


相手は、2つ年上の先輩だった。

僕の中学時代全てを、真っ黒に塗り潰さなくて済んだのは、間違いなく彼女のおかげ。


クラリネットを持ったまま、呆然と立ち尽くす少年に、「ゆうこ姉」(仮名)はにっこり笑いかけてくれた。

「源ちゃん、よろしくね」

パート練習とは名ばかりで、僕たちは、クラリネットを横に置き、毎日毎日他愛もない話をしてゲラゲラ笑い転げた。

ゆうこ姉は、とても不思議な人だった。

いつ練習しているのだろう、彼女のクラリネットはいつも完璧だった。それなのに何一つ上達しない僕のクラリネットにも、ずっと笑顔を絶やさなかった。

僕の唾液にまみれたリードを嫌な顔一つせず、しっかり素手で触り、てきぱきと取り替えてくれる。

「ゆうこ姉、汚くない? 気持ち悪くない?」
「え?何が?」

そんなに満面の笑みで返されたら、もう何も言えなくなってしまう。

勉強の話なんて、まったくしなかったけれど、
彼女は、学年でもトップクラスの成績だったと
あとで知る。

そう言えば、彼女の同級生も「ゆうこ姉」と呼んでいた。
同級生から「お姉さん」と呼ばれてしまう。そんな人だった。
ただの一度も、彼女の疲れた顔や不機嫌な顔を見たことがなかった。


教室にいる地獄のような時間は、
永遠に終わらないような気がするのに、
彼女と過ごす「パー練」は、
なぜあんなにも短く感じるのだろう。

家に帰ってからぼーっと秒針を眺めて
ため息をついた。
そんな暇あったら、楽譜の1つでも覚えればいいのに。

勉強も、運動も、クラリネットも、
何一つできなかった。

ただ放課後の数時間、ゆうこ姉と話す。
そのためだけに、僕は学校にいるようなものだった。

「このままだと、どこの高校も行けないわよ」
担任が、母のいる前で、成績表を示しながら鼻で笑ったのは、ちょうどその頃。

「俺は、なんでいるんやろう…」
時々心の声が、つい言葉になって、ゆうこ姉に届いてしまうこともあった。
「何言ってんの? あたし、源ちゃんといると楽しいけどなぁ」
それが決して、表面的な慰めに聞こえない。彼女の言葉には、不思議な力があった。

そんな言葉に甘えるつもりはなかったけれど、結局クラリネットは上手くならなかった。それでも彼女は、そばにいて、いつも笑い転げてくれた。

「おい源太、お前3年のメガネ女とずっとしゃべてんな、ホンマにキモっ」
こんな雑音が聞こえてくることもあったけど、気にしなかった。
メガネの奥のゆうこ姉が、実はめちゃくちゃかわいいということを、僕は知っていたから。

ひょっとして…と、今は思う。
余計な事は一切言わなかったけれど、
ゆうこ姉は「全部知っていた」のかもしれない。

あの頃、僕がギリギリの状態で生きていたことを。


彼女の受験引退と、ほぼ時を同じくして、
僕はその部活から離れた。

偶然と言えば、偶然で、
当然と言えば、当然だった。


中1の終わり、そして、ゆうこ姉とっては卒業の直前、僕は廊下でばったりゆうこ姉に会った。
僕は本当に久しぶりに「ふんわり」と笑った。

「源ちゃん、サイン帳、書いてよ」

可愛らしいピンク色のサイン帳だった。

もうどんなことを書いたかは覚えていない。
ただ1つだけ、覚えている。
気ばおかしくなるほど悩みに悩んで、 
紙の隅っこ、ホントに目立たないところに
薄〜く、小さい文字で書いた。

I love you


桜が咲く頃、ゆうこ姉から葉書が届いた。
ゆうこ姉は、僕が何年かかっても絶対入れないような進学校に入学した。

葉書を裏返して絶句した。

「……え? なんで?」

文章は、全部英文だった。

普段は、ロクに開けることのない英和辞典と
2時間格闘した。


「あなたの気持ちは、本当に嬉しかったです。でも、私にはずっと心に秘めている好きな人がいて、今はその人以外に考えることができません。せっかくのあなたの気持ちに応えることができなくて、本当にごめんなさい」

(ゆうこ姉、なんで謝ってるんだよ…。)

僕は、ため息をつくと、
その手紙をゆっくり時間をかけて、丁寧に、粉々に破いた。

それほど悲しくもなかったはずなのに
丁寧に破いている最中、なんだかゆっくり、ゆっくり泣けてきた。

やっぱり悲しかったのだと思う。
でもそれは、フラれたからではない。

最後の最後まで、結局ゆうこ姉に世話をかけさせてしまった自分が、なんだか情けなくて。

なぜ
「英語の」「ハガキ」という形をとってくれたのか?
その賢さ、思慮深さ、優しさ、
今なら本当によくわかる。 

信じられないけど、彼女は当時15歳。
でもそんな気遣いができるのが「ゆうこ姉」という人だった。

あの頃は、こちらが幼すぎて、そんなこともよくわかっていなかった。

今は、当時の自分の頭を
思いっきり小突いてやりたい。

何が 「I love you」 だよ。
ありがとう も言えなかったくせに。

もう40年近く前の話。
最後の言葉を、完全に間違えた馬鹿な少年の話。


「ゆうこ姉、あなたのおかげで過酷な13歳を生き抜くことができました。感謝してもしきれません。本当にありがとうございました」

あの時、言えなかった言葉を、時々心の中でつぶやいてみる。

「やだぁ〜、源ちゃん。なんでそんなに他人行儀なのよ!」

あの時みたいに、ゲラゲラ笑ってくれたら
うれしいな、と思う。

元気かな? 幸せかな?
あれから一度も会ってないけど、そうであって欲しいと思う。だけど無理に探そうとは思わない。

だから、僕は死ぬまで、心の中で「ありがとう」を言い続けようと思っている。

あの頃、何にもできない僕だったけれど
本当に素敵な人に思いを寄せた。
そんな中坊の僕を、今は少しだけ褒めてあげたい。

贈る言葉は間違ったかもしれないけれど、
本当にゆうこ姉を好きになってよかった。


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。厚く御礼申し上げます。








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