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【書評】橋爪紳也『倶楽部と日本人 人が集まる空間の文化史』(学芸出版社、一九八九年)

橋爪紳也『倶楽部と日本人 人が集まる空間の文化史』(学芸出版社、一九八九年)は、いまは都市計画分野でも活躍する建築史家である著者の、阪大時代の修士論文を加筆修正再編したもの。やや古い本ですが明治期の倶楽部建築について知ろうとするときには、文化史的な記述もふんだんな本書が必携となるでしょう。ただし大阪の事例に偏っているフシはあるのでその点は注意して読む必要があります。


第一章「倶楽部型社会の進化」は、刊行当時における「クラブ」という言葉のニュアンスを分析的に見てゆくところからはじまります。刊行当時「クラブ」というと、大学においては上意下達のクラブ活動は加入や離脱の用意なサークルに代替されるようになっていたころ。また従来の社交倶楽部は、シティホテルに代替されるようになっていました。本邦のシティホテルが社交性を帯びるのは高度経済成長期、オリンピックや万博を契機として大型ホテルが相次いで都市部に開業したのが最初であり、これら国際的イベントを経てホテルは宿泊施設としての機能以外に、さながら倶楽部のごとく、一個の都市であるかのような機能を持ちはじめたわけです。一方、昭和四〇年に藤田観光が箱根小涌園の優良客に便宜を図る目的で結成した「フジタグリーンメンバーズ」を嚆矢として登場したリゾートクラブは、預託金会員制がオイルショックの際に破綻し、昭和五〇年代に入ると、高額な一室や建物全体をオーナー会員で共同所有するシステムが考案されたことで、従来の「倶楽部」の意味するところから逸れてゆくこととなりました。

すなわち日本において倶楽部は、C・L・モーガンのいうところの「創発的進化」を遂げてきたのであり、そもそも西欧のclubが明治期に移植され、「倶楽部」となったこと自体に、何らかの変質が見られるのです。本書は、倶楽部という概念がそれでもなお一貫して持っているらしい空間性、そしてその開放と閉鎖のレベルに注目し、倶楽部を空間文化として歴史的に捉えてゆくものです。

第二章「社交倶楽部の誕生」は遡って明治期の話。西欧のclubは明治初期、「会合」「結社」の意で紹介され、はじめは「苦楽部」の表記が用いられていましたが、この時期に政治・親睦・商工などさまざまな場面で流行した娯楽的な「会」を行う集会所建築を指す「倶楽部」として流通してゆくことになります。その原型は幕末期、横浜関内の外国人居留地において結成されていた社交クラブやスポーツクラブであり、明治期に入ると西村勝三らの「ナショナルクラブ」(明治五年)や福沢諭吉の「萬來社舎」(明治九年)など日本人倶楽部が登場、そして明治一七年には外務卿・井上馨が欧化政策の目玉として鹿鳴館の東京倶楽部を組織し、外国人からの揶揄やのちの国粋主義・自由民権思想の潮流における批判の的にはなりましたが、国内における倶楽部の認知度を向上させました。

さらに自由民権運動の盛り上がりのなかで政社が急増するのと平行して懇親的な社交倶楽部も相次いで結成されてゆきます。初の近代選挙が行われるにあたって、大阪では旧社会の資産階級が倶楽部として組織化され、立候補制の存在しない当時にあっては予選団体として機能しました。明治二〇年代に入ると「倶楽部」の語は、さまざまな階層の集団に用いられるようになり、それぞれの倶楽部は開放性も有するようになってゆきます。

第三章「倶楽部の大衆化」は、明治二二年、大阪に偕楽園商業倶楽部(通称・今宮商業倶楽部)が開業し、さらには商業倶楽部を模倣する遊園が大阪に多出した時期の趨勢についての論述です。これらは都市部で行われていた博覧会や展示品の優劣をはかる共進会、商品陳列方式の勧工場(関西では勧商場)を統合・常設化し、社交棟や庭園、演芸場も併設した複合的施設であり、出品する商業者は会員制を取りましたが、入場者は入場料を支払えば誰でも入ることができました。商業倶楽部の発起人の一人、天野皎はお雇い外国人であったマリオン・スコットに師事して博物学や美術に見識を持った東京師範学校の第一期生であり、当時勤めていた大阪博物場の場長としての経験を、大衆娯楽に置き換えて倶楽部に活かしていました。

第四章「会所・倶楽部・会館」……二・三章は明治期の歴史記述でしたが、ここからはその前後を埋める建築史の概観です。平安末期に歌合や連歌などの社交が行われていたのは「風流造物」で飾った泉殿であり、日本はまだ独立した集会場建築を有していませんでしたが、鎌倉時代末期になると、国風の連歌と新来の闘茶会をともに行える場所の必要から会所が成立します。一方、民間でも仏堂や神社境内の集会所を兼ねた惣堂が発生し、また惣堂は近世初頭の都市部では定住する人口の増加にともなって町有の町会所へと発展してゆきます。これらはいずれも、近代の倶楽部とは異なり、非日常的な遊戯や祭礼の場であったが、近代に入ると一部が日常的な飲食や遊戯に特化して倶楽部の性質を帯びるようになります。

一方倶楽部建築が普及したのち、昭和期に入ると、倶楽部は商業の密談という私的な住宅の延長の働きをするようになったようです。一方でまた、経営に苦しむ倶楽部は施設の一部を賃貸とするようになり、これにならってフロアー賃貸専門のビルも建築されるようになります(著者は「会館」という概念の発生をここに見ています。すなわち現在いわれる「会館」はこの昭和初期の貸ビルブームによって一般化したものなのではないか、と)。また大正期に登場した集合住宅(アパート)に倶楽部、会館という名前がついているものがありますが、事実ここに入居していたのは文士、画家、官公吏、学生、外国人らモダンな文化人であり、そこでの共同生活はまさに倶楽部的なるものとして意図されていました。

著者は先述のとおり建築史を専門とする人物ですが、明治期の資料を広く渉猟し、文化史・政治史・日本語史にも及ぶ分析を示しています。現在の大学院と制度的に異なることは当然差し引いて見なければいけませんが、それでも修論が単著になるケースはさほど多くないわけで、当時この研究がいかにプライオリティを有していたかが想像されるのです。

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