【日本の数字の歴史】江戸時代の数字いろいろ。還暦はなぜ60歳?(その2)
日本の数字の歴史のその2。
その1は下記よりお読みください↓↓↓
日本では、弥生~飛鳥時代に漢字という文字を獲得してから、数字は長らく「漢数字」を使ってきました。それは江戸時代の終わりごろまで続きました。
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江戸時代!!読み書きそろばん
そろばん(算盤)が日本に伝わったのは室町時代中頃。のちの安土桃山時代1591年に豊臣秀吉がの側近がほうびとして授かったものが日本最古のそろばんと言われています。
安土桃山時代は通称戦国時代(15世紀後半~16世紀後半)。日本では、鎌倉時代以降、何かと不安定な戦乱の世が続いていました。
そして平安時代から再び訪れた太平の江戸時代(1603-1868年)。平和な時代では、商いも文化も技術も発展が進みます。
寺子屋という民間学習塾が普及し、国民の識字率が格段に上がったのもこの頃(江戸では8割くらいの識字率!)。「読み書きそろばん」というスローガンのもと、庶民も文字が読み書きできるようになり、そろばんによる計算が可能となっていきました。
商人が旅先でそろばんが使えるように、枕と一体型になったものも発明されていたとか。
江戸時代の単位いろいろ
もちろんこの頃に書き文字として使われていたのは漢数字。また単位も今とは随分異なっていました。
江戸時代の尺貫法では、長さ以外も、体積、面積、質量など独自の単位が採用されていました。
江戸時代の時刻
ガラパゴス的な独自の世界観を築いていた江戸時代の日本。時刻を知るにも今のような数字を使ってはいませんでした。
「不定時法」と言って、日の出日の入りを基準に決められていたため、季節によって絶対的な時間の長さが異なっていました。夏は昼の絶対的な時間が冬のそれよりもずっと長かったということです。
深夜12時(0時/24時)を九つとし、八つ、七つ、六つ、五つ、四つと刻を減らしていきます。時計はまだ普及していなかったこの時代、寺の鐘はこの時刻の数を鳴らして、人々に時を知らせていました。
また十二時辰(じゅうにじしん)と言って、いわゆる十二支も時刻にあてられました。子(ね)の刻を深夜12時(0時/24時)として約2時間ごとに進んでいく方法です。
丑三つ時(うしみつどき)という言葉を聞いたことがありませんか?
まず、時辰を30分ごと4つに分けます。子の刻ならそれぞれを「子一つ」「子二つ」「子三つ」「子四つ」。
丑の刻は午前1時~3時。2時間を4分割したうちの3つ目、つまり2時過ぎから2時半頃を指します。「草木も眠る丑三つ時」・・・などと怪談話で出てくるのは、誰もが寝ているような夜深く、、、何かが起こるかも、、というわけです。
十干十二支(じっかんじゅうにし)
またこれも江戸時代に限りませんが、「十干十二支」も大切な数の数え方と言えます。
「十二支」は知っていても、「十干」は聞いたことがないという人も多いかもしれません。でもこれ、現代の私たちにとっても身近なものでもあります。
十干:甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸
十二支:子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥
これらは紀元前の古代中国で生まれた考え方。
十干は10までの数え方。現代日本においても、なぜか契約書関連では残っているので甲乙丙くらいまでは「あぁ~アレ!」と思う人も多いはず。
十二支はほとんどの人が知っていることでしょう。干支ですね。
十干と十二支、10と12の最小公倍数は60。つまり、これらの組み合わせは60通り。これは何かと言えば、皆さんよくご存じ、まさに「還暦」の意味です。十干十二支が1周するのが還暦、60歳ということです。
ちなみに、この十干十二支の言い方は、中国を重んじる書道の世界では今でも通常に日時を書き示す際に用います。現状、人は還暦を2回迎えることはほぼ不可能なため、例えばある人が「癸卯」と書けば「令和五年」であることが必然的に分かるといういうわけです。
江戸時代の数字の話題は豊富・・・!まだお話で来ていない「塵劫記(じんこうき)」の話から次回、いよいよ、数字と言えば!の「アラビア数字」に入っていきます。
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