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#11『あの世と日本人』梅原猛

 生死、転生、この世の幸せ、そしてあの世の幸せを日本人はどのように考え、感じてきたかということを、縄文時代から鎌倉仏教までの信仰の変遷を辿りながら解き明かす良書。沢山の学びがあって付箋だらけになった。
 
 本書の構成。
 ①縄文時代⇒②弥生・飛鳥時代⇒③仏教伝来(聖徳太子⇒平安仏教⇒鎌倉仏教(法然、親鸞、一遍))というのが大筋の流れ。

①縄文時代の時、人は自然と転生を信じていた。「死んであの世に行って、またこの世に生まれてくる」。私たちは今でも心のどこかでそう信じている。

「この世もひととき、あの世もひととき、という思想であり、仏教の無常観と極めて近い思想です」306

 その世界観を下敷きにして、重層的に仏教が時代と共に堆積していく、というイメージ。

②弥生・飛鳥時代。やはり文明が進むと死生観も少し複雑になり、素朴さがなくなったりしてくる。農業主体になったり社会階層が出来たりしていく中で、弔い方にも差が出てくる。

③仏教伝来によって、よりスケールの大きい転生観が導入される。
 何が違うのかと言うと、それ以前の転生観は、

(A)罪の軽重は死後の待遇に関与しない
(B)生まれ変わるのは同じ家系

著者の言葉では「現代の遺伝学に近い」。
一方、仏教が教える転生観は、

(C)罪の軽重によって死後の行先が変わる(六道輪廻や解脱)
(D)それに従い、地域、種族を超えて何にでも生まれ変わる

となっている。

 人間は、それで納得できるならその説明で良し、とする生き物。縄文時代、日本人はその説明以上のものを求めなかったのだろうが、社会が難しくなっていくに従って、まあ例えば「何であいつらばっかり贅沢しているんだ」みたいなことを思ったり「こんなに苦しいんだから来世では」みたいな思いが自然と湧くようになってきたのだろう。
 すると縄文時代式の、回転ドアで行ったり来たりみたいなあっさりした転生観では納得がいかなくなってきた。そこに仏教が、その恨みや願いを引き受けてくれる世界観を提供してくれるようになったので、人々はそれに惹かれるようになったのだろう。
 そもそも仏教の発祥自体が、インドの厳しいカースト制否定にある。「得する奴は得する、そんなこと言っちゃおしまいだろう」という平等思想が仏陀の根底にある。

 しかしインドでは、仏陀の平等主義よりカースト制の方が強かった。だから仏教を追い出してしまった。
 一方、日本では氏姓制度を仏教が打ち負かしてしまった。聖徳太子の冠位十二階の制で「有能なら抜擢」という発想が導入され、聖武天皇の「みんなで大仏を作ろうぜ」プロジェクトで裾野に広がり、そしてその精神が後には「頭が良くないと、布施をしないと成仏できないなんて不公平じゃないか、南無阿弥陀仏と唱えるだけで成仏確定」という鎌倉仏教に発展していく。

 この変容と変遷はいかにも日本らしい。日本人はそもそも『万葉集』なんかもそうだが、天皇から庶民まで問わず、良い歌は良い、という思考回路がある。それは多分、万年単位の縄文時代に培われた民族的思考回路、「みんな同じに生かされているんだよ」から来ているのだと思う。だからどんなに文明が発達し、社会が複雑化し、格差が拡大しても「そうは言っても、ほんとは平等なんだよな、ほんとは…」という思いを、天皇にも貴族にもたびたび抱かせたのだと思う。「俺様は議論の余地なく偉い」と言い切ったら、それこそ罰が当たる、という発想。

 本書の後半は法然、親鸞、一遍に割かれており、結局著者はこの三人についてじっくり語りたくて、前振りとして縄文時代から書き起こしたのだと思う。この三者とも、大いに惹かれる所がある。
 高潔で寛大な人格者として「成仏の民主化」を図った法然。
 煩悩を前にした人間の無力を体現して、法然の教えを継承した親鸞。
 そして、前二者が言った「仏に向き合う喜び」が遂に踊りにまで到達しちゃった一遍。

 本書が縄文時代に始まり一遍に終わったことには明らかな著者の意図がある。奔放に肯定的に、生を礼賛した縄文人の生命の躍動が、一遍において蘇った、という見方である。
 簡単に図式化すると、
 ①原始的信仰
⇒②仏教が入ってくる。同時にその反応として原始的信仰が「神道」になる
⇒③原始的信仰の機能を「仏教」と「神道」が折半する。
という流れ。
 端的に言えば

「死の儀式を仏教が執り行い、再生の儀式(結婚、安産祈願、お宮参り、七五三など)を神道が執り行う」310

 というように。
 ただ本書は著者自身があとがきで認めているように、神道への言及は著しく少ない。その意味では、神仏共にもうひとこえバランスの良い本を読みたいものである。


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