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失敗は『高い勉強代』か?


介護離職より、約2ヶ月半。

前回、『ミス(失敗)』について書いた。

今回は、『ミス』した後のことを書くことにした。

昔から気になっていたのだが…
人は失敗した後に


『いや~!今回の失敗は、高い勉強代だったなー!』とかって言う。


50年も生きてると
まぁまぁの頻度で聞く。


なぜ、人がこんなことを言うのか、
考えてみることにした。


おそらく理由は二つ。

一つ目。
これだけ大きな損をしたのに
「高い勉強代だったなー」と
割り切ってる感を出し、
人間の大きさをアピールしたい。

二つ目。
損が大きすぎてやりきれないから、
何らかの教訓を得たことにして、
自分の失敗を「勉強代」として
正当化したい。

ぼくのような小さい人間には、
せいぜいこの二つしか思い浮かばない……


一つ目の理由は、すぐ効果検証できる。
聞き手に「でっかい人間だな」と思ってもらえればマル。逆ならバツだ。
(たいていバツ……)

問題は、二つ目の理由だ。

本当に、その失敗を
「勉強代として正当化」できているか?

勉強代を払うときって、まず勉強したいことがあるんだよね。それにお金を払う価値があると思うから払う。

例えば、教えてもらいたいことがあるんだけど、それが難しそう。有料でいいから、だれか簡単に教えてくれないかな……
とかって思うわけだよね。

教えてもらいたいと思っていなかったことを、たまたま教えてもらったとしても
勉強代なんか払わない。

「偶然いいこと教えてもらったから、
お礼にお金払います!」

これは、あまりないと思う。

仮にあったとしても、この場合、
今、目の前に払う相手がいる。

「ありがとう。これはお礼です」って、
お金を渡す相手が。今そこに。


では、失敗を「勉強代」として正当化できるとして、勉強代を払う相手は誰?

大損をさせられた相手がいる場合、
その相手だとも考えられる。
でも、損をさせられた相手に「教えてもらった」とは思いたくない。
しゃくすぎて腹が立つ。
実質的にも、どこか違う気がする。


そこで、ない知恵を絞って、考えてみた。
見も蓋もないかもしれないが、たぶん……

失敗した直後は、ただ大損しただけ。
それだけだと思う。

今回の大損を、まだ費用化できてないのだ。

この先、今回の失敗を教訓として実際に活かしたときに、
はじめて勉強代として費用化できる。

つまり、将来、教訓として活かさなかったら大損のまま。ただの失敗…

で、あれば…この先。

今回ぶっこいた失敗と同じか、よく似た状況に遭遇したとき

「やばい!以前、失敗したときと同じ状況だ!」と気づき、目の前の損失を回避できたら……。

その時、目の前にいた相手が、過去の大損を費用化してくれたことになる。

勉強代を払う相手がいるとしたら、
そいつだ。

そう。将来、遭遇するかもしれない
「そいつ」。

「そいつ」なる者に遭遇するまで、
今回の大損は決して勉強代にはならない。

だから、この先の人生
『早く出てこい!そいつ!』と思いながら生きていかねばならない。

『いつか「そいつ」に出会ってやる!』と、常に意識してないと、
今の大損なんかあっさり忘れる。

費用化のチャンスがやってこないどころか、同じミスを繰り返し、また、大損をぶっこくのだ。

それが人間。

どれだけ素晴らしい教訓も知識も
使わなければ無価値。

脳のスペースを食うので、むしろ有害。

そして知識にも、教訓にも鮮度がある。

使わなければ腐る。


そいつ『ら』に、なかなか出会えないぼく。


そんなこんなで。














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