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小説:Limit ~無限の彼方に~  第一章 殺人は柚子の香り 第15話

~~あらすじ 第14話までの内容を忘れた、ココから読み始める方へ~~

藍雛らんじゅは敵組織『ソドム復活委員会』のメンバーであるレイカを追跡する任務に就いていた。レイカ達は、他の時代や空間への行き来ができる『時の回廊』を飛んでいた。藍雛の予想に反して、レイカは4歳児の姿になって藍雛の幼馴染みである洋希ようきが2歳である22年前の世界に降り立ち、彼を柚子アレルギーに見せかけて暗殺しようとする。藍雛は他の時間軸の世界に降りることはタブーだと聞いていたので、レイカの行動に驚くも、時の回廊内から、新型ブラスターで、レイカを始末しようと考える。だが、洋希を巻き添えにすることにためらう藍雛。彼女の脳裏には、洋希と過ごした夜の出来事が思い浮かぶ。思い出から我にかえった藍雛は、今度は、狙いを洋希の治療へと切り替え、二発の薬剤混入ブラスター弾を発射する。浴室内は発煙し、浴室から脱出して拳銃を構えるレイカ。洋希は症状が改善して立ち上がり、浴室の向こうから誰かが助けに来ることを予感する。その時洋希の幼稚園の同級生、一ノ関いちのせき耀馬ようまエリオットが洋希の家に向かっていた。向かう途中、その日幼稚園で洋希と会ったことを思い出していた。耀馬は洋希が教具を使用するのを手伝った後、自分が使っていた教具をクラスの女の子に持っていかれて激怒し、感情が押えられなくなり暴れだしたのだ。

     ~~本編~~

 激情が最高潮に達した時、周囲で彼のハンマーを持つ腕が異様に大きく膨らんだことに気づいた人間は誰もいなかった。その場にいた者たちは耀馬ようまの泣き顔か、哀れな迫害の憂き目に遭った腰板の方を注視していた――洋希ようきだけはぼんやりと彼の全身を眺めていたので、少し違和感をおぼえたかもしれないが――ので、彼の肘から先がハンマー投げ選手のような血管と筋肉の線が濃く刻まれた肉塊に変わったことに気づかなかった。それにただ一瞬のことだった。


 腰板の一枚がベキッと折れる音を立てると、紫の髪の先生は、歩みの途中で驚きのあまり小さく飛び上がった。保護者たちも息をのみ、園児もその破壊音にわななくも、何が起きたのか理解できていなかった。
「耀馬! どうしたの」


 腰板が割れて、漆喰の壁が剥き出しになったのを見て、メアリーは反射的に声をあげた。自分が動くべきかどうか迷ったが、二歳児がおもちゃのハンマーで壁を破壊したことが信じられず、声を発しただけで茫然自失としていた。他の園児の心は凍りつき、誰も泣くどころか声を発することもできなかった。


「うわああん」
 耀馬の一呼吸置いた後の一層大きな泣き声に、唖然としていた老先生が再び動き出した。だが、彼女は泣いている園児よりも先に、教室内の秩序を保つことに頭を支配されていた。彼の泣き声は、ただの騒音として彼女の脳内では処理され、ひたすら二歳児が板を破壊したこと事実を取り消そうと躍起になった。耀馬には目もくれず割れた腰板を丹念に調べるうちに、割れた板の周囲が黒っぽい色に変色しているのを見つけ、


「あら、ここが腐っていたのね。うま君は悪くないのよ。だから泣かないでね」
 と彼の方を見つめ、周囲を見回し、平静を装った。


 だが、自分でも信じられない力が壁を破壊したことを耀馬は覚えていた。一瞬大きく膨張した大人のようになった太い腕。泣きながらそこに目をやると幼児の細腕に戻っていた。


 耀馬には、確かに腕が膨らみ、自分の目にも追えないスピードでハンマーを振りぬいた記憶が残っていた。最後の一撃は、そこだけ板が割れやすい物質で――耀馬が以前手に持ち損ねて落として割った生卵のように――できているのでは思うほど、板からの手ごたえがなかった。先生は声をかけてくれているが、その声も彼の慰めとはならず、板を破壊した驚きでひたすら声をあげて泣き続けた。


 彼の周囲に園児たちが集まってきた。まるで止まっていた時計の針が再び動き出したように。だが、壁の生々しい破壊の跡を見て、みんな彼を取りまくように近づいたものの、一定の半径の円形の結界が耀馬のまわりに存在したように、その内側にまで踏み込む子はいなかった。


 たった一人、他の園児から遅れて動き出した子どもがいた。休み休み教具を触っては外をぼんやり眺めていた洋希だ。彼は、窓の外に広がる運動場の視界を耀馬に遮られると、少し不快な色を見せたが、泣いているのがさっき自分に話しかけていた子だと気づくと、憑かれたように視線を彼に固定し、事件の顛末まで知ることとなった。洋希は耀馬を囲む子を避けながら進むと、結界を気にするそぶりも見せず、ハンマーを持った自分より頭一つ大きな二歳児の元へ歩み寄る。そして、何気ない態度でハンマーを手にしていない方の手をそっと握った。


 この時、洋希の小さな手をほのかに金色に帯びた光が包んだことには、本人を含めてほとんど誰も気づいていなかった。ただ耀馬だけが微かに目の端で捉えたかもしれない。


 手を握られた耀馬は、驚き、手の持ち主を見下ろす形になった。すると、みるみる彼を揺さぶっていた感情の時化しけなぎへと変わり、手の感触を味わう幼児からは自然と笑みがこぼれてきた。感情が忙しさや人間関係の煩雑さで荒れている時、幼児に手を握られ気分が落ち着いた経験はないだろうか? 幼な子の手には、このような不思議な力が備わっているのかもしれない。周囲の先生や親御さんたちも、そのような効果で暴れる幼児の心を癒したのだと、この感情の平静化を理由づけた。耀馬は涙を袖で拭き、洋希の手を握ったまま、近くにいた鏑木音かぶらきおとに、ハンマーを素直な心で差し出した。

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