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寂しさは人を殺すのだ

高校に入学したばかりの5月中旬、おじいちゃんが死んだ。
忘れもしない、初めて校内放送で名指しの呼び出しを喰らったあの日。

職員室に行くと担任の先生から「今、お家から電話があったんだけど…すぐ荷物をまとめて帰りなさい」とだけ言われた。
何があったのかすぐにわかった。
私が絶望的な顔をしたのか、先生に「大丈夫よ」なんて無責任な励ましをされた。

学校から出て電車に乗っている間、まだ理由も知らないくせに涙が溢れて止まらなかった。
でも私の勘は当たる。誰かが死んだ。
その時点では、母方の祖父か、父方の祖父母という可能性があったのに、私は間違いなく母方の祖父だと確信していた。

最後におじいちゃんと別れたとき、何故かもう二度と逢えないかもしれない予感がして、泣く泣く登校したのが約1ヶ月前。
京都に住むおじいちゃんが、わざわざ私のピアノの発表会のために、毎年春になると神奈川に来てくれていたのだ。

まだ何も理解していない幼い私をコンサートに連れ回し、木曜日には寂しがる私をよそに、所属している合唱団の練習にいそいそと出掛けていく。
朝早くに起きては立派なスピーカーでバロック音楽を流して、特等席の背もたれ椅子でうたた寝をしていた。
私に音楽を教えてくれたのは、そんなおじいちゃんだった。
当たり前のように音楽が好きになった私は、ピアノを習って、合唱部に入って、今となっては音大まで卒業した。


私は生粋のおじいちゃんっ子だった。
というのも、私には年子の弟がいることが関係している。
まだ自分も赤ちゃんで甘えたい盛りに弟が生まれ、潜在的に親を取られたような気がしていた。
これは上の子あるあるかもしれない。

同じことをしていても褒められるのは弟、悪いことをしていなくても弟が泣いたら怒られるのは私。
弟はオシャレでシュッとしていて男前、私は全体的にバランスが悪くて残念。比較され、外見を否定される。
やがて反抗期が重なったが、弟が荒れに荒れて圧倒されてしまい、自分が反抗しているどころではなくなった。早く大人にならなくてはいけなかった。
なのに結局、かわいいのはいつだって手が掛かった方。
弟が反抗期を乗り越えて立派な社会人になったと評されるのに対して、いい子でいたはずの私は大人として未熟なままだ。
私にはずっと、その''弟ばかり''という呪縛があった。
(※今は親元を離れて程よい距離感になったため、関係はだいぶ修復されている。私も大人になったし)

そんなコンプレックスの塊みたいな私を溺愛してくれたのがおじいちゃんだった。
孫が6人いる中で、それは誰が見ても明らかだった。
私がグレずに済んだのは、そのおじいちゃんの贔屓のお陰だったと言える。
もちろん私も、世界で一番おじいちゃんが大好きだった。

世界で一番の存在が世界から消える…
まさかこんなに早く、恐れていた日が来るとは思わなかった。


家に帰ると、''もしかしたら違うかもしれない''という一縷の望みは完全に絶たれた。
私は着替える気力もなく、制服のままパパの車に乗って家族4人で京都へ向かった。
おじいちゃんの家に着く前に、よく彼に連れてもらった久御山のジャスコに寄って、ママの喪服を買った。一番安いやつ。
こんなに虚しい買い物があることを私は知らなかった。


最愛のおばあちゃんを亡くしてからずっと一人暮らしだったおじいちゃんは、平日にお手伝いさんを雇っていた。
彼女から''何回電話をしても繋がらない''とうちに連絡があり、遠く離れた神奈川に住んでいてどうにもできないママが、弟(私のおじさん)に様子を見に行ってくれと頼んだのだという。

当たり前だが、玄関は鍵がなければ開けられない。
おじさんは、以前自分が使用していた2階の部屋の、空調の後ろの窓だけは唯一鍵が掛かっていないのを思い出し、よじ登って家に入ったそうだ。
そのことを知っているのはおじさんだけだったから、第一発見者が彼になるように考えられていたのだろう。

嫌な予感は最悪の形で的中した。
元・おじさんの部屋の机には遺書と自分史が置いてあり、その先の階段でおじいちゃんは首を吊って死んでいた。

発見時、死後から既に数日が経っていると警察から聞いて、私たちはおじいちゃんが結婚記念日を最期の日に選んだのだとわかった。

見せてもらえなかった遺書には''これ以上老いたくない''というようなことが書かれていたそうだ。
だがそんなのは建前だ。おじいちゃんは途轍もなく寂しかったのだ。


おじいちゃんとおばあちゃんは、おしどり夫婦だったらしい。
残念ながら私にはおばあちゃんの記憶はないが、ママの昔話の中に登場する2人は、微笑ましいくらいに仲が良かった。
私が生まれた直後に、脳内出血で倒れて寝たきりになったおばあちゃんの看病をしに、おじいちゃんは毎日欠かさず病院へ通っていた。
だけど私が小学校低学年の頃に、おばあちゃんは意識を取り戻すことなく亡くなってしまった。

きっとあの日から、おじいちゃんは死に向かって生きていた。


おじさんが牧師なので、葬式は教会で挙げた。それがおじいちゃんの希望だったという。
本当にたくさんの人が来てくれて、教会は人で溢れかえった。
従兄がヴァイオリンを弾いて、合唱団の仲間が彼の大好きだった曲「埴生の宿」を歌ってくれた。誰もが悲しんで涙を流していた。
おじいちゃんは愛されていたのだなと、誇らしくて胸が潰れそうになった。
この上なく模範的で立派な葬式だった。

おじいちゃんが歌ってほしいとリクエストした賛美歌に、何度も繰り返し”百合”という歌詞が出てきた。
ママが「絶対にあんたの名前(本名)の由来やからや」と言って泣いた。私もそうだと思った。
辛さが限界突破した。なのにどこか嬉しいような…その歪んだ喜びがより一層、私の心を壊した。
そんなところで愛を感じたくはなかった。
とても歌える状態ではなかったが、おじいちゃんの愛に応えるために精一杯声を張り上げた。もはや叫びに近かった。
歌い手として、史上最悪の歌だったことは間違いない。


おじさんから「最期のあいさつをするかどうかは自分で決めてほしい。遺体の状態があまりよろしくなくて、ショックを受けると思う」と言われた。
私は迷いに迷ったが、おじいちゃんの最期をしかとこの目で見届けたいと思った。

真っ白い棺桶の中に収められたおじいちゃんは、とても安らかに眠っているようには見えなかった。
黄疸が出ていてくちびるは真紫、眉間の縦皺が目立っていた。
口や鼻の空洞には綿が詰められていた。
首を吊った跡が見えないようにか、顔が見えるギリギリのところまで布に覆われていた。
いつも身なりに気を遣っていて粋で、ベレー帽がトレードマークのニコニコしているおじいちゃんとは程遠かった。

これが死か…と思った。
人が人ではなく物体としてあるその様に、底知れぬ恐怖を抱いた。
あれだけ立派だった人がとてもちっぽけに見えた。
見なければよかったという後悔を打ち消すために、私はおじいちゃんの最期の姿を一生忘れないよう脳裏に焼き付けた。

そして耳元で「おじいちゃん、ありがとう。だいすき」と呟いた。
声にならない声だったが、どうせもう聞こえてはいない。
ちゃんと言葉にして伝えた気になって救われようとした、ただの私の自己満だった。


そのあと骨になって原形を失ったおじいちゃんを見て、さっきよりも魂が解放されているように感じた。歳の割にしっかりした骨格だった。
火葬って残酷だと思っていたけど、土の中で徐々に朽ちていくよりは美しい。

おばあちゃんが先に眠るお墓には、ト音記号が彫られていた。
灰色の細長いお墓が多い京都ではめずらしい、黒くて正方形に近い、背の低い墓石。
おじいちゃんはやっぱセンスがいい。
合唱を通して出逢って共に音楽を愛した夫婦は、こうしてやっと一緒になった。
そういえば、生前おばあちゃんのお墓参りに行く度に、おじいちゃんに「千の風になって」を歌わされたのを思い出した。
それは、もしかしたら自分がお墓に入った後の私たちへのメッセージだったのかもしれない。


大変な行事を終え、放心状態で家主のいないおじいちゃんの家で数日間過ごした。
長期休みに帰る度、家電が新しくなったり、リフォームされていたり、何かしらの変化を探すのが楽しかった家。
今回はどこを探しても、おじいちゃんがいないことだけを思い知らされた。
リビングのおじいちゃんの特等席には、示し合わせたように誰も座ろうとはしなかった。
背もたれ椅子も、いつまでも起きてこないおじいちゃんを待っているようだった。

あまり入ったことのないおじいちゃんの寝室のクローゼットの中には、新品のベレー帽の予備がいっぱいあった。
形見にベレー帽が欲しかった私は「そんなにあったんかい」とツッコんだ。
でも結局いつもおじいちゃんが被っていた、よれたベレー帽をもらった。
まだおじいちゃんの匂いが微かに残っている。これだけは絶対に忘れることがないように。



あの日から泣いて泣いて泣きまくったけど、今一番辛いのは娘である母だろうなと思うと、あんまり弱音は吐けなかった。
私の中に渦巻くもやもやを共有するのは残酷なようで、躊躇われた。

どうして死を選んでしまったのだろう?
では何のために癌の手術をして、インプラントを入れて、糖尿病の治療を一生懸命やっていたというのか。
笑顔の裏に隠されたおじいちゃんの寂しさに気づいてあげられなかった。無力だ。
ああ、恩返しも何もできなかった。あのときこうすればよかった。
どうして私を置いて行ってしまったの?ひとりぼっちにしないで。

私は出口がないままぐるぐる回る思考に、完全に飲み込まれてしまった。
死んだはずのおじいちゃんが何度も夢に出てきて、その度にまた死んでしまう。
泣きすぎると涙はもう出てこなくなって、嗚咽だけが漏れて、目はずっと腫れていた。
高校に入学してクラスに馴染む前だったから、友達もできなかった。
せっかく合唱部に入ったのに、胸が詰まってしばらく歌うことができなかった。


でも本当に苦しかったのはそのあとだった。
普通にお腹が空くようになって、だんだん笑えるようになった。
おじいちゃんがいなければ生きていけないと思っていたのに、私の身体は生きようとしている。
その事実が私を責め続けた。

やがて声を忘れた。
合唱団でバスパートを支えていたおじいちゃんの低い声。
電話すると、よくママと私を間違えて「似てきたなぁ」と笑うおじいちゃんの声。
もう二度と思い出せない。

しばらくすると、ママはおじいちゃんの話をしたがった。
楽しかった思い出を話すのは、死者への弔いとして確かにふさわしいのだろう。
だが私は、おじいちゃんの話はできることなら一切したくなかった。
思い出が綺麗であればあるほど、あの最期を受け入れられなくなってしまう。

このままではおかしくなると思った。
私はどうにかこの出来事をポジティブに捉えようと、”自分で死期を決められたとしたなら、それは悪いことではなかったのではないか?”などと考えては、”でも、もがき苦しみながら遠ざかる意識の中で、最期の最期の瞬間に後悔はしなかったのだろうか?やっぱり死にたくないと思ってしまわなかっただろうか?”という、恐ろしい思いに取り憑かれた。


おじいちゃんが遺した79ページに渡る超大作の自分史には、孫の私が知らなかった彼の一面が綴られていた。
毎日欠かさず手帳に出来事を記していたマメなおじいちゃんらしい、淡々とした筆致だった。
そして終わりの方のページに、私が生まれたことがちょろっと書かれていた。
私との記録は、ただそれだけだった。

私のすべてだったおじいちゃんにとっては、私はそんなものだったのだ。
冷静に考えてみれば、たった15年しか付き合いがないのだから当たり前だ。
だけど、私は一番ではなかったんだな…という事実を突きつけられて、感情の機能が一部停止した。
愛してやまない死んだおばあちゃんには敵わなかったとしても、死を選ぶ前に思い留まる抑止力にすら、私はなれなかったのだ。


あれから私は''好き''という感情に無意識にブレーキをかけるようになった。
好きなものがこの世から消える経験はもう二度としたくなかったし、何より成長過程で、私が重たいオンナであることを自覚したからだ。
私が与える分だけ相手に求めてしまうだろうことも、同じ熱量で応えてくれる人などいやしないことも、それ以前に私が安心して全力でぶつかれるほど人々には余裕がないことも知っている。
だから好きになりすぎないよう、相手と同じ温度で気持ちを保つよう、細心の注意を払っている。
意識が過集中するのを避けるため、人に限らず趣味をどんどん増やして依存先をなるべく多くに分散する。
最近になって、それが私の自己防衛だと気づいた。

故人の記憶はだんだん曖昧になってしまうのに、味わった感情は未だにフラッシュバックする。
塞がり切らない小さな穴から、もらった愛が零れ落ちてしまっていつまでも満たされない。
あのときから私はずっと寂しい。


寂しさは人を殺すのだ。
10年以上経った今でも、心は置き去りにされている。



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