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タイトルを初めに書いても内容が釣り合わなくなるから書くのをやめた。

初めまして。くまです。

頭のいい人は〇〇
優秀な人は〇〇する
最近そういった統計科学による自己診断?が娯楽化している気がします。



日々『自分は何をしたいのか』と問うて生きているでしょうか?

お金を貯めながら受験の勉強をして、育児をしながら資格の勉強をして、そういった話を聞くたびに自分は必死じゃないなと打ちひしがれます。

『必死じゃない』

これはある種の逃げなのかもしれません。「私の真の力は世界をも壊しかねないから発揮できない」厨二病患者症候群でしょうか?

現実問題、必死になってもできるわけではないが、必死にならなくては何もできない。そんな気もします。

まぁそんな思考を回したところで何が変わるわけでもないですが、「自分はなんてダメなんだ」と、そう思った方がフラットな視点に立てるのでいいのではないかとか、いーや自分を卑下することでは何にも幸福も成長にもつながらないと科学が証明しているではないかとか考えてしまいます。

これら二つは相反する考え方です。
ですが、確かに自分という一つの個体から湧いている認識でもあります。

そのどちらかを否定し、拒絶し、人間性を崇高なものにするのは一見望ましいように感じますが、自分を蔑ろにしているようにも感じます。

また対極の思想を出してしまいましたが、今回はこのような矛盾した信念のお話をしようかなと思います。

今日のタイトルは

自分の中で正しさのバランスをとるために科学と自己認識を高める


科学が発展して….というセリフはもう聞き飽きたでしょうが、現代の問題点の多くはそこから来るのではないかと思います。

環境問題は語るまでもないですが、右を向けば心理合理化された市場、左を向けば人口飽和と教育の高度化。

一度科学が衰退して仕舞えばちょっとは気楽になるのになと思う反面、その発展の恩恵を骨の髄まで受けている身なので破壊主義にはなりきれない。そんな私です。

結局科学がなのを求めているかというと『答え』です。

何が正しくて何が良くないか。それを改め、再現性のある工程に落とし、夢を貶める。最後のは誇張しました。

誰もが科学を享受できる現代では(現実そうでないのは承知ですが)その答えに則って生きるのが至高だと、最も合理的なんだと盲信しがちです。

それにより体験の重要性が低下しているわけではないですが、自分の中の『答え』は否定される傾向にあるのではないでしょうか。

非科学的だと。「ソースは?」と聞かれると戦慄してしまいます。

「ソースは私だ」


人間は0か100かで考える傾向があります。心理学ではこれをゼロサムバイアスと呼びます。

これまでの主張に対しては「この人は科学を批判している」「体験主義者で原始的な生き方を推奨しているんだ」「頭の悪い人は難しいこと、たとえば科学やAIには順応できないと誰かが言っていたな。こいつはバカってことか」
そんな思考も湧いてくるでしょう。そんな過激なわけない?

科学の答えと自分の答えが相反するものであったとしても、それぞれ50ぐらいで生きることができたらいいですね。

バランスをとることは一つの天秤であれば容易なことです。取引であればお互いが譲歩して値引き、落とし所を見つけるだけでいい。

ただ、長期の関係であれば貸を作るという手段も有効です。自分の中の信念同士は当然長期の関係ですから一つの取引につき50ずつでなくてもいい。

そういった融通の効かせ合いがバランスです。

自分の中での信念の融通が効くというのは他人の意見に耳を傾ける余裕がある、つまり懐が深いという評価にも繋がります。まぁこれは余談ですが。


私は長いこと健康に気を遣って生きていますが、経験による答えはおおよそ正しいなと思っています。

それは昔の人が「燕が低く飛んだら夕立がくる」と言う俗習のようなものです。

慎重な経験によって培ったものは新しい環境でも適応できる可能性はあります。単に、問題が類似性を持っていたら解決法を導けるというだけですが。


対して科学も“自分の正しさ“を正すために使うべきでしょう。何かに固執するほど愚かなことはありません。

科学が解き明かした新説をもとに自分の体験を再検証する。

自分の経験に執着しないのと同様に、科学に対しても盲信しない姿勢が重要です。

また余談になりますが、自分の体験を正しく強化することによって人間的な深みが出ます。ただの知識人に留まらず、ただの寛容人に留まらず、味のある人間になりたいなと思うところですが、最近の答えはこれです。


私のnoteでは良く示唆することですが、科学は正しさ、自らの信念は慰めです。どちらが良い悪いではありませんが、偏るのは良くないことでしょう。私たちは聖職者のように信念を固めるだけでは生きてはいけませんから。

あらゆる可能性を考慮すると言っては高尚すぎますが、少なくとも目に入るものには、思いつくものには再考の時間があってもいいのではないでしょうか


習慣は続かないものです。
その基本を蔑ろにして「自分はできる。その能力がある」と過信して敗退すると無駄に自信を失ってしまいます。
挑戦の最大のリソースは時間でもお金でもなく自信です。いや多分。
なので一番調子が悪い時にもできる習慣が良い習慣です。

無理やり風邪でもひいて挑戦してみるのがいいんじゃないかな?
自分の限界を知ることにも繋がるし。

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