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「原 朝之富士」−富士山は枠から出したくなるね!−『東海道五十三次』

今日のジムのバイトで1人の客に嫌がらせをされて憤慨なうです。
私が清掃中のところをわざわざ私の目の前で汚くして帰っていきやがりました。
以前にも私のやっていることにケチをつけ、空気読めとか、自己中だとか言われたので多分私のことが嫌いなのでしょう。
小学生の時ぶりに嫌がらせをされて、あの人は中身が小学生のまま誰にも教えてもらえてもらえなかった「可哀想なヒト」なんだなと確信しました。

もういろんな人に愚痴ってどうにか解消したので根に持ちながらも私の方が遥かに大人だと思って接しようと思いました笑

そんな一つ大人を実感した今日も広重。今回は『東海道五十三次』「原 朝之富士」です。

◼️ファーストインプレッション

北斎『富嶽三十六景』でも登場する原宿ですね。
確かこの絵です。

「駿州大野新田」

こちらです。この絵では原宿と吉原宿の間を描いたものですのでまさに今回の絵にも近いのではないでしょうか。
北斎の絵にも分かる通り、富士山が大きく描かれるのが特徴のようです。

今回の広重の作品では画面の枠を突き抜けて大きな富士山が表現されています。
しかもこれまで見たことないくらいの山の忠実な描写。
まるで血管や脈のような筋が伸びていて、地面から何か力を受けているかのような印象を受けます。
朝の富士ということで、富士山の右側は赤く染まっています。
(今回掲載してる版にはその描写はないみたいですが、参考書の方にはその描写があります。)
なのでこの道も右から左に日本橋から京都に向かっているということですね。

街道を歩く三人組は仲間でしょうか。
前を歩く女性二人組は同じ着物を着て笠をかぶって、煙管を持っています。
後ろの男性は荷物持ちなのかな?
大きなボックスを担いで後ろを歩いていますね。

今回はこれまでの作品とは違い、宿場の風景は一才描きこまれていません。
今回は富士山の描写に力を入れて、美しく見せることに尽したのでしょうか。

今回はこの描かれた位置と、枠から出た表現を見ていきたいと思います。

◼️原

原宿という文字だけ見ると、ポップな町をイメージしますがそうではなく東海道の宿場の一つ。

宿の範囲は『宿村大概帳』によると、今沢村境より一本松新田まで(大塚神明神社東から富士浅間神社西まで)、宿往還の長さは24町42間とある。 天保14年(1843年)の宿内人口は1939人(合計合わず)、内、男子957人、女子984人で、家数398軒ほどであったという。
『宿村大概帳』に「この宿より吉原宿までの間往還通並木」とある。原宿から植田新田までの往還左には延べ369間、同右に1603間松並木が存在するということになる。 宿場の両脇には建物が並んでおり、現在の六軒町から先の西方は松並木が両側にあったが、松が枯れてしまったので今はその分だけ道幅が広くなっている。

こちらに面白い記事が。
ということは植田新田の位置を調べれば宿場の位置も湧き出てくるかもしれません。

植田新田の情報がいまいちよく出てこなかったので新田エリアを変えました。
赤ピンの要石神社が、上の引用の一本松新田エリアの中にあるものなのでそこより少し東の辺りを絵の3人は歩いているということになるのでしょう。
地図の北には富士山があるのでエリアとして間違っていることはないかな。

もっとズームしたのがこちら。
原駅と吉原駅両方を乗せて、今回の絵で描かれている富士山の手前の黒い岩山が「愛鷹山」という山なのでその地名を右端に見切れるように乗せておきました。

結構海に近いのですね。

一回はこの海沿いの原だったり吉原行ってみたいなあ。


◼️枠からはみ出る表現

今回の富士山は広重自身が設定した枠を敢えてはみ出して描かれていますね。

参考書にも指摘してある通り、『東海道五十三次』が出版される前に北斎『富嶽三十六景』の空前のヒットを果たしたことが非常に関係されている可能性があります。

以前私は『富嶽三十六景』を一枚一枚みていきましたが、その中の絵に枠という枠はなかった記憶があります。
しかしこの富士山の描写に影響された可能性はどの絵にという特定できるものは難しいですが、必ず存在していると思います。

『富嶽百景』には意外と枠から出る構図はあって、その影響も示唆できるものです。
広重『富士見百図』の作品群の序文に、
『(北斎は)絵組のおもしろきを専らとし、不二は其あしらひにいたるもの多し』
と北斎を評し、
『まのあたりに眺望せしを(略)図取は全く写真の風景にして』
と自分の描写を説明しています。

なので構図の面白さは認めたものとして、写実性は俺が描き切るという心意気で制作したのでしょう。
こちらの『富士見百図』1859年に刊行されたので広重の没後の刊行ですが、最初の20図は広重が担当しものであるそう。

『富嶽百景』1834年から刊行されたものなので、『東海道五十三次』のされた1833年から1835年の間にぎりぎりみれていたのかもしれません。。

今回の「原」の制作時にみていなかったとしても、『富嶽三十六景』よりも秀でた富士の描写をするぞと意気込んで今回の制作に当たった可能性は非常に高いですよね。

『富嶽百景』「初編 孝霊五年不二峯出現」です。
初編だから可能性はなきにしもあらず、、?

「二篇 武辺の不二」です。
二篇だと時期的にまたわかりませんが、富士を見逃さないようにしっかり強調していく構図は今回の広重の描写と魂胆としては似ていますね。

枠外の描写は富士に限らず、『北斎漫画』に非常に多く使われていました。
『北斎漫画』から引用するときりがないくらい多用されているので個人的に楽しみたいと思います笑。

今回の絵の場所と枠からはみ出る構図についてみていきました。

今日はここまで!
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