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「沼津 黄昏図」−どセンターなのに目立たない–『東海道五十三次』

外に出ていないのでどれだけ暑いのか体感していませんが、日差しと外の人の歩くスピードでなんとなく酷暑なんだなと悟っています。
今日はバイトに行く夕方しか外に出ないので自暴自棄になりそうなほど暑いなんてことはないことを祈ります。

そんな暑さに怯える今日も広重。今回は『東海道五十三次』「沼津 黄昏図」です。

◼️ファーストインプレッション

せっかく画面真ん中に大きな満月が上がっているのに、それ全体を描いてあげることをせずに木で隠れているそのままを描いています。
かなり背丈の高い木々が立ち並んでいますが、人ひとりが歩けるくらいの道幅に設定してあるようですね。ましてや後方を歩く人は背中に大きな天狗の顔が付いている箱を背負っていてそれだけで幅は狭まりそうですね。

それにしてもこの大きな天狗の箱はなんのために背負っているのでしょうか。非常に立体的で価値の高そうな印象。その前を歩く親子も同胞か、別グループか、判別は難しいですが何かの修行のように見えもします。

先ほども言及した通り、満月をあえて隠して夕方時の静かな空を演出しているように見えます。大きな満月がまるまると見えているとやはりとても空が派手で月だけに目が惹かれてしまうものですよね。

この細い道を進んだ先に見える橋を渡ると、軒が立ち並ぶ宿場町が見えてきますね。蔵もいくつかあり、その少し先に城のような建物も見えています。

大きな宿場町であるように見えますね。
この道の橋の手前に見える林が、なかなか独特で画面左に見えるような林とは質感が違いますね。

広重特有の近像型構図とまでは行きませんが、木で重要なモチーフの一部を隠してしまう構図はこれまで『名所江戸百景』によく観られていた構図でしたね。
この頃からそういうズレた構図を意識していたのでしょう。
また、人間が意外にも画面のど真ん中に描かれているという特徴があるのにも関わらず、3人とも後ろ向きで顔が見えないのも面白い描き方ですね。

今日はこの絵が描かれた場所、この旅人たちが何をしているのかを見ていきます。

◼️沼津

この沼津宿に行くまでの橋は三枚橋という橋であるらしく、現存はしていないものです。

細い赤線で囲われているエリアが三枚橋町という区域で、狩野川沿いにあることからこの町の川沿いの部分に橋がかかっていたことになるのかもしれません。
沼津宿場に向かっているということになるので南から北側に向かって歩いているということになるのですね。
ちょうど黄色い大通りが掛かっているような位置だったかもしれません。


◼️3人の正体

この真ん中に描かれる主人公的な立ち位置の3人は何を目的に、この道を通り、このような格好をしているのでしょうか。
参考書によると、前の2人は比丘尼という人。
後ろの天狗の箱を背負った人は金毘羅参りの途中の人であるらしい。

比丘尼というと女性のイメージが強いですが、実際のところこんなふうに巡礼のようなことをしていたのでしょうか。

仏教における女性の出家修行者。男性の比丘に対する。仏教の尼僧。パーリ語のビックニーbhikkhunīの音写。サンスクリット語ではビクシュニーbhikunīという。語尾のニーは女性形を示す。かつてインド(のみならず、世界のどこにも)に女性の出家者は存在しなかったが、釈迦 (しゃか) の養母が切願して出家したのが比丘尼の最初といわれ、以後しだいに増加した。出家して戒(具足 (ぐそく) 戒とよばれる)を受け、それを保ち続け、男性の出家修行者の比丘とともに、仏教教団のもっとも重要な成員とされる。男女の差別を設けない仏教の平等主義の特徴を示す。ただし、比丘尼の教団は比丘の教団とは独立して運営された。現在、東南アジア一帯の仏教(テーラバーダ=長老部 (ちょうろうぶ) 仏教)では、戒の授受が中絶したために、比丘尼(の教団)は消滅したが、大乗仏教を奉ずる中国、台湾、韓国、日本では、比丘尼が活躍しており、とくに韓国では比丘と同数を占める。
 日本における比丘尼は、記録のうえでは、善信尼 (ぜんしんに) と称した司馬達等 (しばたっと) の娘がその初めとされる。奈良・平安時代にも尼の存在は認められるが、鎌倉時代になると尼門跡寺ができるなど一定の地位が築かれた。これらに対して、熊野比丘尼に代表されるような諸国を遊行する比丘尼が現れる。男性のヒジリに対応するもので、むしろ尼形の巫女 (みこ) で祈祷 (きとう) や託宣を業とした。近世の歌 (うた) 比丘尼や、遊女にまで転落した売 (うり) 比丘尼はそうした流れをくむといわれている。

日本大百科全書

司馬達等、聞いたことある。その時代から始まっていたのですね。
聖に対しての比丘尼で、終盤に書かれている
「近世の歌 (うた) 比丘尼や、遊女にまで転落した売 (うり) 比丘尼はそうした流れをくむといわれている。」
という部分が今回該当していて、この前の2人も同様に何かしらの芸能を身につけた比丘尼であるのでしょうね。
参考書にも「熊野信仰を広めるために諸国を巡った熊野比丘尼のように絵解きをしたり歌を歌ったりする者が現れ、芸人としての性格を強めた」とあります。

こうして歩いているうちに信者からのお布施を受けて、生活しているのでしょうね。

国立国会図書館

『盲文画話』の中の歌比丘尼です。
今回の絵と非常に似ていて、柄杓を持ち笠を被り弟子を携えています。
小さい弟子もまた頭を丸めているのですね。

こちらの記事によると、僧というより私娼に近いものだったみたいですね。


そして後ろを歩く天狗の箱を背負った男性は金毘羅参りをしている人であるらしい。

金刀比羅宮(ことひらぐう)に参詣すること。また、その人。白木綿の襦袢(じゅばん)を着、股引、脚半、甲掛、足袋などすべて白を用いた。多くは天狗の面・神酒壺一対などを箱に入れ、背面のふたを開いて背負い、到着した時にこれを奉納した。金毘羅もうで。金毘羅参詣。

日本国語大辞典

香川県の金毘羅宮に参詣できたらこの天狗のお面を奉納するみたいですね。
これってお面だったんだ。
蓋を開いた状態で歩いていくのですね。

江戸時代中後期になると、金毘羅参詣は伊勢参りとともに一生の願いとして民衆の間に定着した。それに伴い、経費を積み立てて金毘羅参詣を行う参詣講や代参講が全国各地につくられていった。金毘羅講は東北から九州まで全国各地に広がり、その数は伊勢神宮参拝を目的とした伊勢講に次いだという。また、高野山の高野聖、伊勢神宮の御師たちと同じように、金毘羅信仰を広めるために全国を行脚した金毘羅道者と呼ばれる宗教者が存在したことも知られている。
このように、金毘羅信仰の中心は近世の一般民衆であった。しかし、庶民の信仰とともに、近世の金刀比羅宮が徳川幕府や朝廷、諸大名、三井家に代表される富裕層から支持を受けていたことも忘れてはならないだろう。讃岐藩主をつとめた生駒氏、松平氏は社殿の整備に力を尽くしたし、徳川家光以来の歴代将軍は朱印状を与えて金刀比羅宮を保護した。また、宝暦3年(1753)に桃園天皇によって金毘羅大権現が勅願所となるなど、歴代の天皇からも庇護を与えられていた。
金刀比羅宮の立地と信仰との関わりについても確認しておく必要があるだろう。金刀比羅宮が鎮座するのは、姿が象の頭に似ていることから象頭山とも呼ばれる琴平山の中腹である。遠方からもはっきり確認することができる特徴的な山容の象頭山は、聖なる山としで古代から神聖視されてきたといわれる。金毘羅信仰は、海上交通、漁労などと関連づけて説明されることが多いが、象頭山という霊山に鎮座していることによって、修験道との関わりも指摘され、山岳宗教的な性格も帯びている。

ここにある通り、金毘羅参りが全国的に一般化していた一方で、大名家にも流布されていたのですね。
山岳宗教的な性格がと言われているので、天狗と絡んでいるのも納得です。
高尾山は天狗が住んでると言われてきたことのように、天狗が山に住んでいる説と非常に関連しているのかもしれませんね。

今回は広重の風景観の片鱗を見た気がします。
今日はここまで!
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