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「伊賀 上野」−忍者と芭蕉の町−『大日本六十余州名勝図会』

アレグラを朝飲んだにも関わらず、12時間以上経ったのでもう効果が切れてしまい、目を掻きむしっている夜です。
目玉をくり抜いて精製水で丸洗いして、ワセリンでコーティングして花粉に触れないようにしてまた顔に戻す作業をしたいくらいです。想像したら気持ち悪いけれどそれくらい痒い。発狂しそう。

そんな発狂寸前の今日も広重。

今回は『第日本六十余州名勝図会』の「伊賀 上野」です。


国立国会図書館蔵

ファーストインプレッション

サンガリアの天然水で有名な伊賀ですが、どのあたりなのかははっきりということができません。
場所ももちろん、ここに上野という地名があること自体にも触れてみたいと思います。
今回の絵ではまるで大きな街道の宿場町のような雰囲気を出していますね。

橋を渡って幾つかの宿場を迎えます。『東海道五十三次』の「品川」のような雰囲気のある崖と両側に並ぶ建物。忙しなく大名行列や旅行者が往来しているのが目に浮かびます。

川を渡った先に伸びる坂道の途中には門のようなものが建ってます。なぜならその奥に城のようなものが聳えているからですね。今は門が空いているみたい。
ここに建っていたのは何城でしょうか。

城の敷地内は閑散としていて、早朝の気配がしますね。
山の向こうで朝日が登っているような光が滲んでいます。

城が構えて、多くの軒が連なっているのにも関わらずあまりにぎやいでいない、早朝だからというだけでは片付かない静けさが物足りなさを感じさせますね。しかし作品全体の暗さに宿場の屋根の明るい色が差し色となって、救世主的な明るさをもたらしてくれていますね。
こうしたバランスの取り方が非常に巧妙な広重の今回の作品です。

伊賀と城

サンガリアで頭がいっぱいなのでそろそろ調べないと小泉孝太郎に侵食されそうです。

伊賀と調べた時に関連に伊賀上野城というワードが出てきて、まさにこれだと思いました。笑
京都市と大阪市、琵琶湖とも同じくらい近い位置の三重県内の城です。

三重県伊賀 (いが) 市上野丸之内にある城。普通、伊賀上野城とよばれ、白鳳 (はくほう) 城の別称もある。戦国期から江戸期の城。江戸期初頭の築城の名手として知られる藤堂高虎 (とうどうたかとら) の縄張りであるが、城そのものは1581年(天正9)織田信雄 (のぶかつ) の臣滝川雄利 (たきがわかつとし) によって築かれている。ついで1585年、豊臣 (とよとみ) 大名の一人筒井定次 (つついさだつぐ) が封ぜられ、大掛りな修築を施している。1608年(慶長13)失政をとがめられた定次が改易されると、かわって藤堂高虎が入り、大坂城包囲網の一つとして大修築が行われ、1614年完成した。ただし、天守閣は1612年の暴風で倒壊したあと再建されなかった。江戸期を通じて津城を本城とする藤堂氏の城代支配が幕末まで続いたのである。現在本丸に建つ復興天守閣は1935年(昭和10)の模擬天守。本丸西側の高石垣は約30メートルの高さをもつ。

日本大百科全書

大阪城を守るための一つの関門として上野城は位置していたのですね。
当時はどのような描写がされていたのでしょうか。
地誌を参照してみます。

地誌を懸命に探しましたが、『近江名所図会』って国文学研究資料館で公開されているもの1巻分しかデジタルで見ることができないのですね。

そのほかに参照できそうな地誌がないので当時の評価などは論文などから知るということになりそう。

古くから大和街道、伊賀街道、初瀬街道で京都、奈良と 伊勢を結ぶ、交通の要衝として栄え、江戸時代に は藤堂家の城下町、伊勢神宮参詣の宿場町として 賑わった。地理的、歴史的背景から、京・大和文化の影響を受けながらも、独立自尊の気風が強く、 伊賀流忍術の伝統を残し、俳聖松尾芭蕉を生み出 すなど独自文化を育てた。

https://dl.ndl.go.jp/pid/9218719

青山征人 (中部開発センター, 2006-09) 掲載
「中部の景観を歩く:歴史遺産を観光に 伊賀市」より引用

伊賀流忍術というのが気になります。
というのも、マップで調べた時に忍者博物館なるものを見かけたのです。

伊賀忍者市駅というものがあるくらい、伊賀の上野城近辺は忍者と馴染んでいるのですね。


また、芭蕉が生まれた土地でもあるという。

生い立ち・故郷
芭蕉は寛永 (かんえい) 21年伊賀上野 (いがうえの) の赤坂農人町(三重県伊賀市上野赤坂町)に、松尾与左衛門の子として生まれた。

日本大百科全書

まさしく伊賀上野。

赤坂町は上野城の目と鼻の先に位置していますね。
もう少し細かくみてみます。

芭蕉の生家や誕生の地となる場所が点在しており、赤坂町一帯に芭蕉の生きていた跡が残っていることがわかります。

広重は錦絵の中に発句を書き入れることはしなかったけれど、今回伊賀を描くにあたって伊賀城と松尾芭蕉の生家やゆかりの建造物のどちらを描くか迷ったりしたのでしょうか。

橋を渡る人や渡り終えた人の中のどれかが芭蕉だったりしないかなと、この絵を見る目が変わりました。

今日はここまで!

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