私的所有権の起源 『万物の黎明』ノート19
近年発見されたアメリカのポヴァティポイント、日本の三内丸山遺跡など、大規模な労働力の動員があったとしか考えられないのに、支配階級(エリート階級)の存在が確認できない遺跡の存在があります。従来の歴史観では、生産力の拡大→富の蓄積→支配層の出現という図式が描かれていましたけど、どうも物事はそう単純には進まなかったようです。財宝(奢侈品)は沢山見つかるのに、それを独占し(私的所有し)、それを支配の道具として使っている人々の姿が見えない遺跡をどう考えれば良いのか。
そもそも私的所有はどのように始まったのでしょうか?未開民族には、私的所有を回避するような仕組みを持っているところも多くあります。著者たち(二人のデビットということで以下ではWDと略します)はそうした古代遺跡が宗教的な意味合いを強く持つことなどから私的所有の起源は宗教的なものだったのではないかと推論しています。そして考古学的知見と文化人類学知見を織り交ぜながら話を進めます。
ウッドバーンという学者の指摘によれば、平等主義的な狩猟採集民では、大人同士では命令することができず、私的所有が主張できません。しかし例外があって、儀礼、あるいは聖なるものの領域についてはこの限りではないのです。
ハッザなど、ピグミーの諸集団ではイニシエーションが排他的所有を得るための基盤になっています。儀礼的な道具の所有権、あるいは儀礼に関する知識(知的所有権)は多様な形態を取りますが、それらは神聖不可侵なものとして秘密にされていたり、欺瞞によって隠されてたり、暴力によって保護されています。たとえば、ピグミーのとある集団の秘密のラッパは女子供には秘密にされ、盗み見しようものなら暴力(ときにはレイプ)で排除されます。類似の習慣がパプアニューギニアやアマゾンにもあって、大抵は秘密のゲームに使われており、女子供を怖がらせる精霊になりすます仮装の一部になっています。
WDはこうした神聖不可侵なるものの観念と私的所有の観念とのあいだには、排除の構造という点で形式的な類似性があると指摘します。ある特定個人にのみアクセスと使用が許され、その他の人たちのアクセスと使用を拒否するということです。これは社会学者デュルケームが「不可侵なもの」とは「分離されたもの」であるという定義にも関係します。不可侵なものは高次の力と結びついているがゆえに、世界から隔離されるのです。我々の社会の私的所有も「不可侵なもの」と非常に似ていないだろうかとWDは言うのです。
法学的には、個人の所有権は「全世界に抗して」保持されています。超自然的な存在に結びついているからではなく、特定の生きた人間にとって不可侵なるものです。しかしそれ以外の点で、不可侵なるもの=聖なるものと、私的所有物は形式的にまったく同一なのです。
ヨーロッパの社会思想は私的所有の絶対性(不可侵性)を、すべての人権と自由の範型(パラダイム)として捉えているます。所有的個人主義といえるでしょう。殺されない、拷問されない、恣意的に投獄されないという権利にしても、人は自分の身体を所有しているという観念に基づいています。私の身体は私のモノであり、だから人が勝手に傷つけることは許されないのです。
その観念は必ずしもヨーロッパ以外の世界では共有されていません。とくにアメリカの先住民族にとっては異質な考えであって、「所有」は不可侵なるものとの関係にのみ適用できるものでした。そのほとんどは呪文、物語、医療知識、特定のダンスを踊る権利、特定の模様をつける権利など非実体的なものです。もしくは物質的要素と非物質要素の二つが含まれるものでした。
たとえばクワキウトル族の家宝の皿は特定の土地で木の実を集め、その皿に盛る権利を伴っており、特定の宴席で特定の歌を歌ってそのベリーを振る舞う権利も伴うことができました。また、グレートプレーンズの聖なるバンドルは唯一私有財産として扱われ、相続や売買の対象になりました。
ここで注意すべきなのは、多くの場合、土地や天然資源の真の所有者は神々や精霊であり、人間は無断占拠者か管理人(ケアする人)だということです。これに対して西洋社会が依拠しているローマ法の所有概念では、ケアする側面が極端に抑えられているか排除されているという点で珍しい概念だとWDは言います。ローマ法の「占有」に関わる3つの基本権には
使用する権利
所有物の産物を享受する権利
損壊・破壊する権利
があり、最初の二つだけでは「使用権」であり「所有権」とは認められなません。ここにはケアの要件はなく、破壊する権利が所有の要件なのです。これに対して、たとえばオーストラリア西部砂漠ではチュリンガというサクラ(聖なるもの)がその土地の法的権源を表現します。イニシエーションで青年たちにはチェリンガについて教えられるのですが、それと共に土地の歴史と資源の性質も教えられ、土地をケアする義務が負わされます。ここには「損壊・破壊する権利」が入ってくる余地はありません。
私的所有に「起源」があるとしたら、おそらくそれは「不可侵なもの」の観念と同じくらい古い可能性があるとWDはいいます。だから、ルソーが想像をめぐらしたように、いつそれが起こったかという問いは重要ではないのだともWDはいいます。重要なのは、それがその他の人間的事象にどんなふうに関与するようになったのかという問いなのです。
<ノート(トピック毎)>
万物の黎明というタイトル 『万物の黎明』ノート1
アドニスの庭 『万物の黎明』ノート2
新石器革命(農耕革命)は革命ではなかった 『万物の黎明』ノートその3
パラダイムシフト 『万物の黎明』ノートその4
「よくできた社会理論」は滑稽でもある 『万物の黎明』ノート5
蜃気楼としての「未開社会」 『万物の黎明』ノート6
国家の起源を語るのは無意味である 『万物の黎明』ノート7
選挙は民主主義では無い 『万物の黎明』ノート8
ルソーとホッブス 『万物の黎明』ノート9
森に逃げ帰ったインディアン 『万物の黎明』ノート10
北米インディアンによる批判からヨーロッパの啓蒙思想は始まった『万物の黎明』ノート11
ルソーの功罪 『万物の黎明』ノート12
人類は最初から「賢い人(ホモサピエンス)」だった 『万物の黎明』ノート13
季節変動する社会 『万物の黎明』ノート14
季節変動と王様ごっこ『万物の黎明』ノート15
人類の幼年期にサヨウナラ『万物の黎明』ノート16
後期旧石器時代の「社会」は広かった『万物の黎明』ノート17
分裂生成『万物の黎明』ノート18
私的所有権の起源 『万物の黎明』ノート19
(このページです)
<読書ノート(要約)>
『万物の黎明』読書ノート その0(前書き&目次)
『万物の黎明』読書ノート その1(第1章)
『万物の黎明』読書ノート その2(第2章)
『万物の黎明』読書ノート その3(第3章)
『万物の黎明』読書ノート その4(第4章)
『万物の黎明』読書ノート その5(第5章)
『万物の黎明』読書ノート その6(第6章)
『万物の黎明』読書ノート その7(第7章)
『万物の黎明』読書ノート その8(第8章)
『万物の黎明』読書ノート その9(第9章)
『万物の黎明』読書ノート その10(第10章)
『万物の黎明』読書ノート その11(第11章)
『万物の黎明』読書ノート その12(第12章)
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