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『万物の黎明』読書ノート その5

以下、"WD"はDouble David(著者である文化人類学者デビット・グレーバーと考古学者デビット・ウエングローの二人のデビット)の略です

第5章「いく季節も昔のこと」要約

前章までの議論で、農耕が始まる直前の社会には定住集落もあり、巨大モニュメントもあり、聖なる儀礼もおそらくはあり、富の蓄積もあり、職人や建築家も居たことが述べられてきました。

この章では、「分裂生成」による文化の形成について議論されます。議論の素材にされるのはカリフォルニアからカナダにかけての太平洋沿岸地域に住んでいた先住民族(インディアン)の諸部族です。コロンブスが北米大陸にやってきた頃、その人口はおそらく何百万人でした。カリフォルニアの先住民は狩猟採集民でしたが、恵まれた環境にあって勤勉に働き、熱心に富を蓄積することにかける熱意で有名でした。肥沃な三日月地帯にも似た恵まれた環境下でしたのに、彼らは農耕を始めませんでした。近隣の地域ではトウモロコシなどの栽培を始めていたのに彼らは栽培に手を出しませんでした。彼らは「農耕以前」というよりは「反=農耕的」だったと言えます。

カリフォルニア先住民の農耕の拒絶は、もっぱら環境要因で説明されます。カリフォルニアではドングリや松の実を、それより北の北西海岸地域では水産物を主食とする方が、トウモロコシ栽培より効率的だったからというのです。しかし、多種多様な生態系が共存する広大な地域でトウモロコシ栽培の地域が全くないというのも不思議な話です。

カリフォルニアや北西海岸の人々はタバコやスプリングバンククローヴァーやパシフィックシヴァーウィードを栽培して儀礼や、特別な祝宴の際の贅沢品としていました。それなのに、マメ類、カボチャ、スイカ、葉物野菜などの日用食品のための栽培やっていません。栽培植物の育て方は知っていたのに、日常食としての栽培を拒否していたのです。

本章ではこの「農耕の拒絶」がどうして生じたのかを「文化圏」の考え方と絡めて議論していくことになります。そして人間の自由がどのように失われていったのかについても理解を深めるのだとWDはしています。

文化圏とは

最終氷期が終了して(中石器時代が開始されて)からの考古学的記録は「文化圏」で特徴付けられるようになります。この細分化がなぜ進行したのかについて、人類学者はそれを自明なこととしてあまり考えてきませんでした。同一言語を共有するものは同一の習慣、感性、家族生活の規則なども共有しているとみなされるだけだったのです。そして言語は自然に枝分かれして分化していくものとされていました。これはインド=ヨーロッパ語族の発見が契機となった考え方で、今は全ての言語の祖語まで議論されています。しかし、だからといって、この説は観察される事象をなにも説明してくれません。カリフォルニアの先住民たちは食料品の収集と加工、宗教儀礼、政治組織などについては似たような分化的慣行を持ちますが、言語はバラバラです。方言レベルの違いではなくて、語族も異なるのです。

北アメリカの「文化圏」
北カリフォルニアの言語学的「シャッターゾーン」

アメリカの博物館では美術品や工芸品を整理する上で、地域クラスターごとにまとめるという手法が採用されています。先住民族の工芸品は地域の共通性が高かったし、考古学資料にも有効だったからです。ゴードン・チャイルドという先史学者は中央ヨーロッパの新石器時代についても同様のパターンを認め、20世紀初頭からフランツ・ボアズと彼の弟子のクラーク・ウィスラーがアメリカの大陸全体の先住民族を15の地域にまとめています。この方法は他の研究者たちによってヨーロッパからオセアニアに至るまで適応されていきました。人類は孤立した小集団から発展して行ったという社会進化論とも連動して、こうした研究は、文化の「伝播経路」を復元することに執着し始めます。特に注目されたのは実用上の配慮や制約を受けにくい遊戯用の道具や楽器、とくに「あやとり」でした。その分布から歴史的な接触と影響のパターンが見えてくると考えられたからですが、現在ではまったく省みられていない方法です。また、文化がなぜ地域的に集合するのか、という問題も議論されましたがこれも今では議論されていません。

以上、「文化圏」の研究史についてWDは概観するのですが、カリフォルニア先住民が近隣のアメリカ南西部や北西海岸部と全く異なる文化形態をとるのかという問題は、重要であるのに解決されれていないとWDは指摘し、以下の議論がこれに対して費やされます。

文化とは拒絶の機構である(マルセル・モース)

マルセル・モースは1910年から20年にかけて「文化圏」の概念を考察しましたが、「文化の伝播」という考え方をナンセンスだと考えていましとた。過去の人間は大いに旅をしており、1-2ヶ月ににおよぶ旅の中で遠方の文化に触れる機会はいくらでもあった、つまり文化の接触を極めて稀な機会だと前提し、文化の歴史的伝播経路を辿ることは意味がないとしたのです。では、接触の機会が多い近隣や遠方の文化を、あるものは受け入れ、あるものは受け入れないという理由は何なのか?モースの回答は文化とは拒絶の機構であるというものでした。つまり、

  • 中国人とは箸を使うがナイフやフォークを使わない人々

  • タイ人はスプーンは使うが箸を使わない人々

などです。さらに技術についてもこうした拒絶が認められるとしています。

  • アサバスカン族(アラスカ):イヌイットのカヤックが自分たちの環境にも適していることが明らかなのに採用を拒否

  • イヌイット(北極圏):アサバスカンのかんじきを拒否

既存の様式、形式、技術のほとんどは誰もが潜在的に利用できるのですが、人々は借用と拒絶を組み合わせて文化を作ってきました。それは、自覚的なものであり、何を借用して何を借用しないかを人々は熟考した上で決めているとモースは考えたのです。そして、人は隣人と自分たちとを比較することで、みずからを独自の集団と考えるようになります。つまり、「文化圏」の形成は政治的な問題に行き着くとWDは言うのです。農耕を採り入れるかどうかの判断はカロリー計算やランダムな文化的好みの問題ではなくて、価値観(諸価値)に関わる問いかけが反映しているとするのです。これは人間とは何か、人間同士はどのように関係するべきなのかといった問いかけです。欧米の啓蒙主義以降の知的伝統では、この諸価値は自由、責任、権威、平等、連帯、正義といった概念に置かれていますが、まさにその問いかけに対する応答なのです。

(ノート注:マルセル・モース1872-1950は『贈与論』で有名な社会学者で文化人類学者。後で出てくる「ポトラッチ」も『贈与論』の中で紹介されて知られるようになりました。レヴィ=ストロースなど多くの文化人類学者に多大な影響を与えており、グレーバーもその一人です。)

「カリフォルニア」と「北西海岸」

アメリカ西海岸の二つの文化圏、「カリフォルニア」と「北西海岸」はどちらも狩猟(漁労)採集社会を形成し、西の(乾燥した)グレートベースンや、トウモロコシやマメとカボチャを栽培するアメリカ西南部の人々よりも高い人口密度を維持していました。両者には以下のような生態学的、文化的差異が認められますが、従来の研究では、この二つの差異はあまり取り上げられてこなかったとWDはしています。

  • 北西沿岸部:サケやウラチョンなどの昇流魚に大きく依存。その他の海産物、海洋哺乳類、陸生植物、狩猟資源も豊富。冬には大規模な村落に集住して複雑な儀式を行い、春と夏は小規模な集団に分かれて生活した。木を使った工芸品、美術品を作り出すことに巧み。人口のかなりの部分が動産奴隷。

  • カリフォルニア:多様な動植物相のもと、多様な陸上資源に恵まれ、焼畑、伐採、剪定などで管理していた。狩猟も釣りもしたが、木の実やドングリを主食としていた。工芸や美術は地味。編籠技術は高度に洗練。奴隷はいない。

「ピューリタン」先住民

ゴールドシュミットの研究ではカリフォルニア先住民族のユロック族は生活のあらゆる場面(購買、貸借、融資など)で「貨幣」を使っており、これは先住民社会の中でも特異なこととしています。一般的な「インディイアン・マネー」(たとえばワンパム)はヨーロッパ入植者とインディアンとの取引に使われたり、入植者同士で使われていましたが、先住民の中では罰金や契約を結ぶための手段にのみ使われており、商品売買には使われていません。従って、先住民社会の中でそれは貨幣ではなかったのです。よって、ユロック族の「貨幣」は特殊なものでした。

さらに倹約と簡素化を尊び、浪費的な娯楽を嫌い、仕事を称賛する文化があります。これはマックス・ウェーバが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で描いたピューリタンの態度そのものだとゴールドシュミットはしました。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ウェーバー、1904)はあまりにも有名な本ですが、本書での要約が見事なので、それを書き記しておきます:

ウェーバーの定義する資本主義とは一種の道徳的要請だった。中国・インド・イスラムなど世界中に「資本家」と呼んで差し支えない人々はいるが、莫大な財を手に入れた人はどこかで手を引く。宮殿を建てて生活を楽しむか、社会的圧力を受けて宗教的もしくは公共的な事業に使うか、酒宴で使い果たすかである。それに対して資本主義とは、不断に再投資を行い、富を増やし続ける運動である。そのような行動をとる最初の人間は、すべての隣人から軽蔑されるが、それでも頑なにそのような行動が取れるのは、お金を使うことが悪いことであり、隣人たちからの敵意に耐えられる道徳共同体に支えられているピューリタンだったからである。

もちろん、ユロックは字義通りの「資本家」ではありませんが、「私的所有」を重要視する文化ではありました。すべての財産が「私的に所有されていた」のです。それを支えるために貨幣の使用は不可欠だったとゴールドシュミットは書いています。富、資源、食料、名誉、妻などすべてが貨幣で買えたのであり、彼らは「所有的個人主義者」でした。

一方の北西海岸の住民たちも勤勉でしたが、蓄えられた富は集団の祭事を主宰して還元する義務を負っていました。謙虚なユロックに対して、クワキウトルの首長は自慢好きで虚栄心に満ちていました。この点で、世襲性の特権階級の中で地位を競い合って、目を見張るような宴を繰り広げた中世ヨーロッパの王侯貴族によく似ていたのです。

なぜ、近接する住民たちが、これほどまでの差異を見せるのかという研究はほとんどありません。

著者たちの仮説「分裂生成」

著者たちの仮説は「二つの地域の人々が、互いに対抗し合うかたちで自らを定義していた」のではないか?というものです。これは第2章でも出てきた「分裂生成」の考え方であり、互いに接触している社会がお互いを区別しようとしながらも、結局は共通の差異のシステムのうちで結合することを意味します。グレーバーの先生であるサーリンズによる古代ギリシャのアテネとスパルタの例では

  • アテネ: 海、コスモポリタン、商業、贅沢、民主制、都市的、土着的、饒舌

  • スパルタ:陸、排外主義、自給自足、質実、寡頭制、村落的、移民的、簡潔

となっており、どちらの社会も、他方の社会の鏡像になっています。カリフォルニアと北西海岸の先住民族社会も同様ではないだろうか?とWDは言うのです。

「カリフォルニア」と「北西海岸」(続き)

北カリフォルニア狩猟採集民が持っている倫理的要請は、仕事と利潤追求への道徳的要求、自己犠牲の道徳的要請、道徳的責任の個人化ということになり、個人の自立性への情熱がそこに結びついています。負債を負うことや継続的な義務を負うことを避けていましたし、資源を集団で管理することを嫌っており、狩猟採集場は個人の所有物でした。また、所有は不可侵なものであり、密猟者は射殺してもよく、彼らはしばしば貨幣について瞑想にふけりましたし、最高の富(黒曜石の刃など)とは究極のサクラ(聖なるもの)でもありました。あらゆる楽しみを控えるという社会的要請に従い、食事は質素で装飾はシンプル、ダンスは控えめで太ってはいけないという社会圧力がありました。そして分かち合いやケアリングの責任は他の部族に比して控えめでした。

これに対して北西海岸社会は派手な演出に喜びを見出しています。その際たる例が大食いと贅沢の蕩尽宴会として悪名高いポトラッチです。

ポトラッチでの仮面舞踏 https://academic-accelerator.com/encyclopedia/jp/potlatch-banより

この宴会では、気前の良さと保有物への軽蔑をライバルと競い合い、家宝を見せびらかしては破壊してみせ、奴隷を殺すこともありました。そして権力者たちは豊満で艶々した肉体を競いあった。クワキウトル族の仮面芸術は有名であり、儀礼では偽の血液が飛び散り、粗暴な道化警察が暴れ回る演劇的演出が行われました。これらと似たようなエートスがアラスカ州からワシントン州にかけての広い地域で見られたのです。そして貴族、平民、奴隷の世襲身分があり、集団間で奴隷を奪い合っていました。また、貴族のみが守護霊と関わる儀礼的特権を持っていた反面、平民たち(芸術家や職人を含む)は縁組をする貴族を自由に選ぶことができました。首長は平民たちの忠誠心を高めるために宴を催し、娯楽を後援していました。こうした「漁夫王」はマフィアのドンもしくはヨーロッパの宮廷社会に似ています。

この二つの文化圏の差異はどのようにして生まれたのでしょうか?経済的要因なのでしょうか?組織的要因なのでしょうかか?文化的意味や観念によるものなのでしょうか?モースが提起したように互いを参照しながら自己を規定していった結果なのでしょうか?

カリフォルニアには身分制がなく、ポトラッチもりませんでした。季節ごとの集住はあったのですが、ポトラッチを正確に反転したものです。つまり、贅沢品ではなくて主食を食べ、儀礼的あるいは統制されたあるいは威嚇的ダンスではなく、遊び心に溢れたダンスを踊り、家宝は供儀にふされることなく、慎重に扱われてダンスリーダーに託されたのです。そして、首長たちには行事を主催することで名誉や利益を得ていましたが、ひたすら目立たないように努めていました。

カリフォルニアでも北西沿岸部でも「再配分の宴」が行われていることは共通します。基本的に同じ制度が、全く異なる制度で運営されているのでしょうか?それともこれらは全く異なる制度なのでしょうか?それはどうやって判断するべきなのでしょうか?これを解く鍵として(北西海岸には存在して、カリフォルニアには無かった)奴隷制度についての議論が始まります。

奴隷制度について

北西海岸では人口の1/4が世襲性の奴隷であり、木を伐り、水を汲み、サケの収穫と洗浄・加工に従事していました。奴隷制度がいつ始まったのかは定かではありませんがヨーロッパ人との接触より何世紀も前からあったようです。奴隷制に関連するいくつもの要素が中期パシフィック期(BC.1850--AD.200/500)の最初に出現しているのです。この時期にサケ類の大量捕獲が始まり働き手の需要が高まっていたことや、戦争が始まって要塞が築かれ始めたことや、貿易網が拡大しています。また中期パシフィック期の墓地では死者の扱いに極端な格差が現れます。

こうした特徴は同じ時期のカリフォルニアでは認められていません。この二つの地域の間では(シェルビーズ、銅、黒曜石などの)モノが広範囲に移動していましたから、十分な接触はあった筈です。交易のために人は移動しましたし、戦争による捕虜の移動も証拠もありますし、襲撃を想定したような要塞やシェルターも設置されていました。

アメリカ先住民の「奴隷制」とは

アメリカ・インディアンの社会で奴隷制度はまれにしか現れません。しかし、枠組みは北アメリカから南アメリカまで共通していて、古代ローマギリシャの家内奴隷制ともヨーロッパ人によるプランテーション奴隷制度とも違っています。フェルナンド・サントス=グラネロはそれを「捕獲社会」と呼びました。

奴隷が、農奴・小作人・捕虜・収容者と異なるのは「社会的つながりの欠如」つまり「社会的死」の状態にあるということです。奴隷になると、家族、親族、共同体など一切の繋がりを消されて、主人に完全に服従して、他人と約束することもできなくなります。ということは、奴隷を強奪するという行為は、一人の人間を育てるために投入されたケアリング労働を窃盗したとも考えられます。

アメリカインディアンの生業様式は恐ろしいほどに多種多様なので、一見したところ「捕獲社会」の共通点は見えません。たとえば、アマゾン北西部の河川沿いの定住農耕民と漁労民は後背地の狩猟採集民を襲撃していました。パラグアイ川流域では半遊動の狩猟採集民が農耕民を襲撃して服従させていました。フロリダ南部の漁労採集民のカルーサ族は他の漁労民や農耕民を襲撃していました。生業で分類しても共通項は見えません。WDが重要とみなしているのは、組織的暴力で他の集団を「食い物」にしている点にあります。「捕獲社会」では奴隷の捕獲自体が「生業様式」だったのです。ここでの生業は「カロリー生産」ではなく「活力」を欲しさに奴隷を捕獲することにあります。

アマゾンでは狩猟で生け捕られた動物はペットになりますがそれと同様に、奴隷狩りされた捕虜はペットとして扱われケアを受けます。捕獲者の世帯で飼い慣らされ、再=社会化されるということであり、それが完成すれば捕虜は奴隷でなくなりますが、社会的死のまま宙吊りにされることもあります。ときには、集団的宴会で殺害されることもありました。こうした人間関係は同族内では問題を生じますから、複数の社会間で継続的に奴隷狩りが行われました。

アメリカ大陸にやってきたヨーロッパ人には「未開人」をヨーロッパの貴族になぞらえた人もいました。ほとんどの時間を政治・狩猟・襲撃・戦争に費やしていたからですし、彼らが支配している農奴のような部族もいたからです。グアイクル族(パラグアイ)は貢納物のトウモロコシや遠征で捕獲した奴隷たちに囲まれて生活していました。彼らは奴隷をやさしく扱い、奴隷たちは余暇階級(お嬢様など)の世話をしていたのです。「捕獲社会」にとっての奴隷制とは、社会のケアリング労働の量と質を高めることだったようです。「捕獲社会」はそうやって、貴族、王女、戦士、平民、使用人などを「生産」していたともいえます。

インディアンの社会は捕虜や子供を養育と教育で「正しい」人間に育て上げることに誇りを抱いていました。しかし、奴隷は獲物からペットそして家族へと進む過程を、途中で打ち切って宙吊りされた存在であり、他者のケアに捕縛された非人間です。単なる一過性の暴力ではなく、ケアリング関係に変化した暴力行為ですが、これは持続的なものになります。

チェトコ族の「ウォギーズの説話」が語るもの

動産奴隷が北西海岸で普及して、カリフォルニアでは例外的になった理由を探るためにWDはチェトコ族(オレゴン州)の説話を引用します。

昔々、チェトコの祖先は北の果てからカヌーでやってきてこの川の河口に上陸した。そこには二つの部族が居た。ひとつはチェトコによく似た好戦的な部族だったが、チェトコに征服され絶滅した。もう一つの部族は温和な性格で白い小柄な人々だった。自分たちのことをウォーギーと呼んでいたのでチェトコもそう呼んだ。籠や縄、カヌーの制作に長け、チェトコの知らない獲物や魚の捕り方を知っていた。戦うことを拒んだ彼らは奴隷になりチェトコのために食料・住居・生活用品を作るべく働かされた。チェトコはどんどん肥えて太って怠け者になった。
ある夜、ウォーギーは逃げ出して2度と戻ってこなかった。最初の白人が現れたとき、チェトコはウォーギーが戻ってきたのかと考えた。

チェトコの説話

この物語から読み取れるのは:

  • チェトコが獲得したのは、自分たちの知らない技能をもつ奴隷たちだった

  • この舞台はカリフォルニアと北西海岸の中間地帯であり、奴隷制というものを強く考えざるを得ない場所だった

  • この物語の倫理的な含みは:奴隷を使うことで怠惰になった民が、帰ってきた奴隷(ウォギー=白人)から報復を受ける(説話論でいうところの「破滅的帰還」)

などです。つまり、カリフォルニアの奴隷制の拒絶には、強力な倫理的・政治的次元が潜んでいるということなのです。チェトコは北西海岸部とカリフォルニアの中間部にあり、奴隷制というものを意識せざる得ない場所にありましたし、物語には倫理的な色合いがあります(略奪で富と余暇を得た者たちが、その罰を受ける)。

これとは別のユロック族の「レメクウェロルメイの説話」は、奴隷略奪を繰り返していた冒険家レメクウェロルメイに対して、主人公の英雄が断固として人を奴隷にすることを拒否して、レメクウェロルメイが保持していた奴隷を解放するという話です。これもまた、奴隷捕獲に対するはっきりとした反感が語られています。

二つの社会の違いについての生態学的決定論(最適採餌理論)の説明

WDは、以上のように奴隷制の拒絶を倫理的・政治的なものと捉えるわけですが、生態学的決定論者は、もっと直接的な環境要因を主張します。以下ではその「最適採餌理論」が紹介されます。

最適採餌理論は人間以外の動物の研究から生まれたモデリング予測理論であり、人間の場合は経済合理性で行動を分析するものです。たとえば、「狩猟採集民たちは最小限の労働力で最大のリターンを得るている」(つまりは費用対効果の最適化)みたいな主張です。しかし、カリフォルニア先住民の行動は「最適」とは言い難いものです。彼らの主食はドングリや松の実ですが、一粒一粒がとても小さくて、毒を抜くなどの作業は大変に手が掛かります。またナッツ類の収穫量は変動が激しく、それに頼るのはリスキーです。サケなどの魚に栄養を頼る方がはるかに確実で栄養価も高く、サケはカリフォルニアの川にも遡上していました。最適採餌理論からすればカリフォルニア先住民の行動はナンセンスです。

最適採餌理論によるもう一つの説明

これを説明するための代替理論としては、魚はfront-loadedだというものがあります。採ったらすぐに加工しなければなりません。魚に依存すれば、収穫期は忙しく働いて保存食化して剰余物にしておくこと必要があり、これが略奪者を引き寄せます。だから、襲撃に備えた防衛を組織化しておく必要があります。

これに対してドングリやナッツはback-loadedなので収穫は急ぐ必要がありません。保存のための加工は必要なく、手間がかかるのは食事の直前です。生のドングリ倉庫を襲撃する魅力は少ないのです。だから貯蔵庫を襲撃に備えて守る必要もありません。

北西海岸はドングリがなかったので魚に頼るしかなく、好戦的で略奪に頼る社会が育ち、カリフォルニアはドングリがあったので平和を好む社会になった、、、、というのが適採餌理論によるもう一つの説明です。しかし、北西海岸での襲撃は魚の燻製目当てではなくて、奴隷狩りが主目的です。この最適採餌理論では奴隷への欲求が説明できません。

著者たちによる北西海岸の奴隷制の説明

WDは奴隷制の究極の原因は環境でも人口動態でもないとします。社会のあるべき姿について異なる人たちの駆け引きの結果だというのです。

北西海岸部では労働力は足りていました。少なからぬ割合を占めていた貴族(の称号保持者)は、自分たちは単純作業をするべきではないと強く感じていて、これが繁忙期問題になります。無尽蔵に魚は取れますが、貴族称号保持者たちは自分で魚の内蔵処理はやりたくありません。そして身分の低い平民は、貴族からの扱いが悪いとすぐにライバルの世帯に逃げ込みます。貴族と平民は常に交渉しており、貴族はポトラッチのときははもちろん、普段から気前の良いところを見せて自分の評判を維持しなくてはなりません。気前が良くないとみなされた貴族は殺害されることすらあったのです。貴族からすれば、統制の効く働き手が必要なのであり、それで人間狩りに手を出していたということなのです。

そう考えれば、生態環境から奴隷制を説明するのは意味をなさないとWDは言います。

カリフォルニアの北西部(シャッターゾーン)

カリフォルニア北西部は様々な民族集団・言語集団が入り乱れて圧縮されていました。(シャッターゾーン/粉砕地帯、上掲図参照。)この説で議論の素材になるユロック族もここに含まれまっす。この中のいくつかの部族は明らかに北西海岸由来ですが、動産奴隷を持ちませんでした。奴隷人口が1/4とも推定される典型的な奴隷社会の北西海岸からカリフォルニアに移動してきて、いつ、どのようにして奴隷制度を捨てたのでしょうか?「いつ」に関してはまだ分かりませんが、「どのようにして」は手がかりはあるんだとWDはいいます。これらの社会では捕虜が永続的なものになる(奴隷化される)ことを回避するために設けられた習慣があるのです:

ユロック族は戦いに勝つと、奪った命の数だけ賠償する義務があった。その賠償額は殺人での額に等しかった。買った側が損をするという制度で、集団間の略奪行為を抑制している。

また、既に紹介したチェトコのウォギーズの説話は「奴隷を持つことで失われる社会価値(太って、怠惰になる)がある」ことを示唆しています。カリフォルニアのシャッターゾーンでは社会生活が、分裂生成的な方法で北西海岸社会の反転鏡像社会を意識的に構築されていったんだとWDは推測するのです。

北西海岸:貴族と自由民は薪を割ったり運んだりすることを地位を貶めるものとして拒否し、すべて奴隷に行わせる。
カリフォルニア:薪割とそれを運ぶのは厳粛な公務であり、ウェットロッジの中核的儀礼に組み込まれていた。薪を集めること自体が道徳的目的ですらあった

北西海岸:脂肪や油脂の過剰な摂取がステータスシンボル
カリフォルニア:ウエットロッジで儀礼的発汗に励む

カリフォルニアの道化師:怠惰、大食い、権力欲などをおちょくるが、北西海岸の価値観をひっくり返している。

北西海岸の美術:スペクタクルとあやかしに満ちたもの、仮面大好き
カリフォルニアの文化:仮面を避ける。規律と内的自己研鑽の重視。

という具合に、北西海岸とカリフォルニアは価値観という点で真っ向から対立しています。

北西海岸:家具、紋章、ポール、仮面、マント、箱などの氾濫と浪費、ポトラッチの豪奢と演劇性は特定の人間(首長や貴族)に名誉を与えること。仮面、幻想、ファサードなど外面性というテーマへの焦点化。
カリフォルニア:「労働」を浪費する社会。不眠不休の労働は偉大な美徳。内面性と内省を重視。自己鍛錬を通して人は天職や人生の目的を発見する。その目的を邪魔するものがあれば、そのひとの奴隷やペットと化してしまわないように、その邪魔をやめさせなければならない。

カリフォルニア北西部と南部の違い

「正しい生き方」について自覚的な議論を伴い、文化が相互に自己規定する過程というものは、常に政治的です。ユロックの場合は、貨幣の獲得を重要視して、ピューリタニズムになり、奴隷狩りへの道徳的反発もありました。しかし死際に財産を儀礼焼却して世帯間の格差を平準化させているカリフォルニア南部の部族とは異なり、ユロックの地域はツノガイ貨が遺産相続される地域だったので、諍いが多くて、戦争に発展しやすい地域ではありました。ユロック族は数はすくないにしても奴隷を抱えていましたし、富裕層と平民と貧民に分割された社会でした。カリフォルニアでは一般的に、捕虜はすぐには奴隷にならず、すぐに買い戻されていましたが、ユロックでは債務奴隷が発生していました。南部は奴隷が全く存在せず、捕虜の買い戻しも集団で調達して(ユロックは家族単位で調達して)紛争を解決しました。南部での文化的生活の焦点は財産の蓄積ではなく、一年ごとの世界再生の儀式でした。

結論

環境決定論か文化決定論か

環境決定論は人間を自動人形のように扱う傾向があります。これに対抗して、文化で物事を説明しても説明したことになりません。「イギリス人はイギリス人だからあのように行動するのだ」みたいな説明にしかならないのです。文化的差異はサイコロ遊びのように恣意的なものであり、「たまたまそうなった」にすぎません。中国語が調性言語でドイツ語が膠着言語である理由は存在しないのです。しかし、言語の差異の恣意性をすべての社会理論の基礎としても、環境決定論とは似たような程度に機械的決定論になるだけです。そこに「私」の意思は反映されず、「私」が依拠する構造が私の行動の全てを決定しているのです。

人間の主体性/自由意志について

つまりどちらのアプローチも実質的に閉塞しているのです。だからWDとしては自己決定という考えを重視したいのだと言います。季節ごとに異なる組織形態を往来していた氷河期のマンモスハンターたちは一定程度の政治的自己意識を発展させていたはずです。最終氷期終了後の人類社会も、政治的内省を伴っていたはずです。もちろん、こういうアプローチも自己責任論のような極端に振れる可能性もあるのですが。

「人間の主体性(自由意志)」が歴史においてどれほどの影響力を持つのかは確実にはわかりません。だから自由と決定論のあいだに広がる目盛りのどこに議論を設定するのかは好みの問題だとWDは言い切ります。「本書のテーマは「自由」であるから、普通よりも自由側に傾けて目盛りを設定し、人間はみずからの運命に対して集団的統制力を有するという可能性を探りたい」とするのです。

この章では、北米太平洋岸の先住民が、ものごとを明確に理解しながら歩んでいたという可能性を探り、それを裏付ける証拠を見つけたということだとWDは総括します。北西海岸の奴隷制の普及は、貴族が自由民に従属労働を強制できなかった結果であり、そのために他集団から人間を捕獲するための暴力が広がりました。隣接する北カリフォルニアのシャッターゾーンの部族は、その暴力から自己防衛できる制度を自覚的に構築して、分裂生成の過程で互いを反面教師とする対照的な文化(法外な浪費と、厳格な簡素)を築いていきました。そして、カリフォルニアの北西以外の地域では奴隷制も階級制も完璧に拒絶されていました。これと似たようなことが世界の他の場所で新石器時代に起こっていてもおかしくはないとWDは言うのです。

支配は家から始まった

奴隷制の起源は戦争にありますが、奴隷制が見出されるのは、どこでも飼い慣らし(ドメスティケーション)の制度でもありました。もっとも粗暴なる形態の搾取(奴隷制)は、最も親密な社会関係(家族関係)にこそその起源を有しています。養育・愛・ケアリングの倒錯として始まったということなのであって、政治組織からは始まっていません。そもそも北西海岸には政体というものが存在していないのです。

ヒエラルキーと平等は同時に出現する傾向がある

北西海岸のトリンギッド族、ハイダ族の平民は、平民内部では平等でしたが、貴族とは明確なヒエラルキーがありました。そして、貴族は貴族内で誰が誰より偉いのかを常に争っていました。これに対してカリフォルニア社会は平等ではありましたが、貨幣への熱狂(誰がどれだけ稼ぐかの競争)が前提としてありました。このあと、こうした「下からの不平等」ともいえる動態が本書の議論ではくりかえされます。

支配が最初に現れるのは、親密な家庭的(ドメスティック)な次元です。自覚的平等主義的な政治が現れれば、そうした関係が小世界から公共空間に拡大することが阻止されます。こういった事態はおそらく農耕の歴史より古いと考えられます。

(その6につづく)

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