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「よくできた社会理論」は滑稽でもある 『万物の黎明』ノート5

本書を読んでいるとときどき膝を叩きたくなるような箇所に遭遇します。pp.26-27での「よくできた社会理論」の話もそうでした。
著者たち(以下WDと略)は今までの標準的な世界史が初期の人類をあまりにも単純化し、ステレオタイプに還元しすぎていることを批判し、彼らを我々と変わらない人間として扱うことを呼びかけます。「高貴な未開人」も「野蛮な未開人」も、そもそも実在せず、それはモデル化された世界観の中だけに住んでいる退屈な存在だというのです。

ここでWDは矛盾するようなことを書きます。

「社会理論はつねに、必然的に、多少なりとも単純化を伴うということである」「つまり、本質的にいえば、わたしたちはすべてをひとつの戯画へと還元し、それによってふつうなら見えないパターンを探り出そうとする」「社会科学における真の前進のすべては、いささか馬鹿げて見えることをも述べる勇気によって生まれてきたのである」

p.26

そしてWDは、典型例としてマルクス、フロイト、レヴィ=ストロースの3人の名前をあげるのですが、つまり、「資本と労働」だけで社会構造を語ったり、「無意識と性欲」だけで人間の心理を語ったり、「構造」だけで未開社会を語ったりするのは、ある意味では「馬鹿げて見える」行為であると言ってのけているのです。

しかし、そのように世界をいったん単純化させることで新しい発見をしたのが彼らの功績だとし、本書で示したホッブズやルソーにしても、単純化によって同時代人に驚きを与えて、想像力の扉を開いたのだとして一定の評価を下します。社会理論とは、議論のためにあえて事象が単純なものであるかのよう装う「ごっこ遊び」のようなものだというのがWDの見解です。

そうした世界観も時間が経てば擦り切れた常識に過ぎなくなり、人間的事象を同じように単純化しつづける意味はなく、そこには「貧弱な歴史」しかなく、わたしたちの「感性の衰弱」しかないとWDは糾弾します。初期人類史を語るために、通説を片端から破壊していく本書の宣戦布告文みたいなものでしょう。通説はあまりにも初期人類を単純化してきたからです。

ともかくも、この部分は「よく出来た社会理論」の肯定的な側面と負の側面をうまく捉えているなと、私は思います。社会を上手く説明するために、新しい観点を提供するのが「よく出来た社会理論」であるならば、そこに固執し続ける理由は無いのです。新たな素材をもとにして、また別の視点を持ち込んで理解を深めるということ。じつに単純明快な考え方だと思います。

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