「オホーツク。」だいぶ長めの自己紹介
皆さん、こんにちは。オホーツク。です。
note自体は結構前からやっているのですが、これまで一度も自己紹介記事というものを書いたことがありませんでした。
今回は、2023年3月に大学を卒業し、4月から縁もゆかりもない宮崎県椎葉村で地域おこし協力隊×司書として働き始めた私オホーツク。の自己紹介をします。気軽にのぞいていってください。そもそもなんで「オホーツク。」って名前なのかもきっとわかることでしょう(笑)
ちなみにタイトルは、子どもの頃好きだった星新一さんの「ちょっと長めのショートショート」を意識してつけたものです。ちょっと長めならいいものの、だいぶ長めのと最初から宣言されてどれくらいの方が読んでくださるのでしょうか(苦笑)
では、はじまりはじまり~!
基本情報
【生年】
1999年(清宮・村神・リチャード世代!)
【月日】
ヌートバー・松本人志・山口一郎(サカナクション)と一緒!
【出身】
大阪?北海道?(後述します)
【高校】
山口一郎(サカナクション)と一緒!
【大学】
徳光和夫、みのもんた、関口宏、古舘伊知郎などと一緒!
【学部学科】
社会学部 現代文化学科
【部活・サークル歴】
小6~中2夏:野球
中2夏~高3:陸上長距離
大学:落語研究会
【趣味など】
福岡ソフトバンクホークス(三度の飯より鷹命)
落語(大学4年やってた程度の知識・技量です)
ラジオ(福山雅治、安住紳一郎、安部礼司など)
旅(結構予定詰め込んで旅しがち)
散歩(大学時代、山手線一周歩いたり、新宿から羽田空港まで歩いたり)
読書(家の中には積読本だらけ)
相撲、フィギュアスケートは観るのまあまあ好き
ランニング(最近全くしていない)
【よく見るYouTube】
カジサック KAJISAC
ロザンの楽屋(子どもの頃、「ロザンの道案内しよッ!」が好きやった)
パーソル パ・リーグTV
有隣堂しか知らない世界(これおもろいのよ、オススメ!)
乃木坂配信中(乃木坂はこれだけ見るようになった。曲は知らない。)
マリマリマリー
基本情報多めでお送りいたしましたが、ふーんくらいに思ってみていただければ幸いです。案外私と身近な人にとっても初出し情報が多いかもしれません。こんな感じのものを摂取してきてるんですよ、はい。
では、いよいよ本番に行きましょう。
始まりは実は大阪なんですけど、
私ね、生まれて此の方一番困る質問があるんですよ。
「出身どちらですか?」
これです。
別に困らないという人が大半だと思いますが、私は困るんです。
なぜかって?
転勤族の家庭で育ってしまったからです
(別に、育ってしまったっていう言葉尻からにじみ出ているマイナスなニュアンスはこれっぽっちもないんですけれど)。
そして厄介なことに、なまじ幼い頃の記憶もあったりするんですよ。
だから切り捨て御免とはならない。その土地で生きていた証も捨てたくないじゃないですか。
ということで、このままいくと私の出身地は大阪府豊中市ということになる。
しかし。
そうは問屋が卸さないのが私の人生でございましてね。
うちの母親が里帰り出産という選択を取った。
これが事態をさらにややこしくさせまして。
その場所がどこだったのかというと、札幌市。
はい、出ました札幌。北海道。
そうなんです、だから初めて吸ったシャバの空気は札幌の空気なんです。
なんだい、そんなら札幌出身でもいいじゃないかと言ってもらえるなら救われるんですけれどね。まあ、のちにしっかり住むわけだし。
でもねぇ、これが不思議と堂々とは言えないものなんです。
それにこれは誰の視点かというのでも話が大きく変わります。
母親目線で行きますと、母の出生地が札幌で、この子(私)の出身地は札幌と言うこともできる。
一方で、私目線で行きますと、私が初めて生まれた場所は正真正銘札幌でしかないのです。
非常に難しい問題なんですよ。
だから私は、某議員さんよろしく二重国籍とはいかないまでも、都合よく北海道出身と大阪出身というのを使い分ける人生を送ってまいりました。
私の経験上、北海道とか札幌という言葉に大抵の人間は弱いですね。
さすがは大人気の北海道物産展というだけあります、相手の目がパッと明るくなる。北海道ブランドにとにかく感謝です。
他方で大阪というものもインパクトはなかなか。
ところが、こちらはあまり私にとってメリットがないんですな。
そもそも大阪に住んでいたのは生まれてから2歳ごろまでと、小3~小5の3年間という非常に限定された期間だけだったものですから。
感染力が強いから身についたものの、所詮はうわべっつらのもんでしかないわけです。もう関西弁や関西人としてのガツガツさを忘れているところに大阪出身ですというのは、周囲の期待と実際の現実というギャップの狭間でなかなかキツイものがありまして。
ましてや同じ空間に、こってこての関西人がいようものならエセ扱いされるに決まっているわけです。
こりゃ、あまりいいことはないんですわ。
とまあ、よくもこんなに出身ってムズイねんという話だけでここまで引っ張れるわと呆れられているかもしれませんがまだ始まったばかりです。
そして、そこまでその気はなかったんですが、この手の話題をいつも高座でマクラとして振っていたもんですから、まあ落語チックな語りとなってしまいました。この先は気分次第で文体を継続させるかもしれませんし、変えるかもしれません(はっきりせえ!)。
この後の筋道だけ申しておきますと、北海道紋別時代、福岡時代、またもや豊中時代、北海道留萌時代、札幌時代、東京時代(大学生時代)と続きます。果てしなき旅の始まりです。
オホーツク紋別時代
ほとんどはっきりとした記憶は残っていませんが、2歳ごろに北海道はオホーツク海側の紋別市というところに行きました。流氷が来るところです。ガリンコ号という流氷砕氷船が有名です。クリオネなんかも見られます。あとは知る人ぞ知るモンベモンがいます。気になる方はお調べください。
その紋別ですくすくと育った私は、幼稚園に通い、小学校1年生の6月末まで住んでいました。
この頃の私は、今考えるとかなり内気で引っ込み思案な性格だったように思います…と書こうとしましたが、いや、活発に遊ぶのは遊んでいました。幼稚園時代は、母曰くママ友の間でも話題になるくらいにモテていたそうで(ホンマかいな)、たしかに外遊びも好きでしたが、仲の良い女の子たちとアイロンビーズで遊ぶ方が好きだったような気もします(笑)あとは、あれですね、ぬり絵。当時紋別ではまだテレビ東京系列の放送が見られず、ポケモンを見られなかったんですよね。ポケモンゲームも持っていない(なんならたまごっちも持ってなかった)。仕方なく、想像上の配色でピカチュウやフシギダネをぬりぬりしていたのです。格差ってこんなところにも影響するんですね(ムシキングは辛うじてやってたよ!)。
当時の内気さ、そしてその後も続く真面目さを表すエピソードがあります。
通っていた幼稚園では年長さんが一人一人クッキーをつくるというのがあったんですね。私はそのクッキーづくりが不安で不安で仕方なかったのです。それで、信じられないかもしれないですが、年少や年中の頃から年長さんがつくっている様子をめちゃくちゃじっと見て「予習」していたのです。ほんとに。できなかったらどうしようという感じで、とにかくじっと見ていたんです。そしたら、やっぱり大人はそう思うでしょうが、幼稚園の先生が連絡帳に「クッキーづくりに釘付けでした!早く来年作れるといいですね!」的なことを書いていたらしいのです。
いやいやいや、待たんかい!
こちとらやりたないねん、クッキーづくり。
予習してただけやねん!
そういうのいらんて!
当時はまだ関西弁も習得前で、もちろんこんな言語化能力もなかった頃ですが、こう叫びたかったのです。
結局年長さんになった時のクッキーづくりについてはあまり覚えていないのですが、どうやら事なきを得たようです。それくらいには引っ込み思案な子どもでした。
…これで紋別時代締めようと思いましたが、いろいろ思い出したのでもう少し。
運動会で選手宣誓を任されたことがありました。
先生に、「選手宣誓お願いできる?あ、先生じゃないよ。手上げて言うやつね」と言われ、うん、とうなずいたものの、選手宣誓なんて知らなかったですよ。だって、「宣誓」ですよ。漢字絶対わからないじゃないですか。「センセイ???」状態ですよ。今大人に書かせてもあんまり書けないんじゃないですか??ちなみになんでこんなに漢字のことを言うかというと、私、漢字変換しないと極度にモノを覚えられないんですよね。音で覚えられないんですよ。人名とかでも苦労してます。
ま、それはさておき、多分大丈夫だろうと見込まれたのでしょう、選手宣誓を他2人くらいと一緒にやったこともありました。
…ここまでお付き合いいただきありがとうございます。なんか自己紹介っていうよりも、自分史というか、著名人が出すエッセイ本くらいのボリュームになりそうな予感がしてきたんで、思い出したエピソードも少し端折ります。ほんとにエッセイ本出版することになった時に書きます(アホぬかすな!)。
以下端折るエピソード一覧
・自転車で森林公園へ
・バカでかい蜂襲来
・社宅の愉快な仲間たち
・公文生活の始まり
・紋小の給食
・トマトと蟹ミソ
・ヤマハの先生と花の色
幼稚園とか小1とかなのに結構思い出すとありますね。お楽しみに!
若鷹軍団に魅了された福岡時代
紋別小学校にいたのは入学してわずか3か月。入学してたった3か月でクラスメイト一人いなくなるって、周りのみんなからしてもなかなかのインパクトですよね。案外中身の濃い3か月を送っていたのではないかと思います。
オホーツク紋別空港を旅立ち、羽田空港を経由して降り立ったのは、九州の空の玄関口・福岡空港。時は梅雨真っ只中の6月末。家族全員福岡の知識がなく、大きい荷物があるとは言え地下鉄でホテル(博多だったはず)まで行けばいいものを、なぜかタクシーで移動し、余計な時間をかけるという始末。しかし、目に入るものすべてがはじめまして状態なものですから、まあ面白い。福岡空港の様子、効きすぎている冷房、ジトジトベトベト暑すぎる屋外、ヤシの木みたいな南国の木。目に入るすべてが新鮮でした。
しばらくはホテル暮らしをしつつ、生活する基盤を整えたうえで新生活が始まりました。福岡市西区姪の浜。ここが新生活のメインフィールドでした。地下鉄空港線の始発着駅であり、そのままJR線にもつながっているという非常に便利なエリア。今でも住みよい街だと思います。この姪の浜エリアでおそらく一番大きい学校だったであろう、姪浜小学校に転入しました。全校生徒余裕の1000人超え。同学年だけでは「友達100人できるかな」なんて達成できない紋別とはエラい違いです。
とにかく人、人、人。見渡す限り人。そんな学校の端の教室が僕のクラスでした。幸い担任の先生にも、クラスメイトにも恵まれ、非常に楽しい福岡生活が始まったのでした。姪浜小学校では昼休みが50分だったこともあり、何回か遊んでいればすぐ馴染んでしまうもの。とにかく外でたくさん遊び、家ではDSをたくさんして、と遊びまくっていた福岡時代です。
しかし、やはりストレスはかかっていたのかもしれません。身体は正直だったようです。転校して初めての体育の授業がマット運動だったのですが、その時間になんと人生で初めての鼻血を出しました。おそらく暑さによるものと思われます。驚いて動揺するということはなく、むしろあっけらかんとしていたように思いますが、人生初が重なった時期でした。ちなみに、北海道の小学校では指定の体操服がありません。体育の日はジャージを着ていきます。ですから、半袖短パン体操服デビューもこの日だったのではないかと記憶しています。
両親も九州に住む経験は当然初めてのことで、積極的に旅行に出かけた時期でもありました。長崎・佐世保、佐賀唐津、大分別府、熊本・天草、鹿児島・指宿など。宮崎以外の各県に足を運びました(今思うと壮大な伏線回収ですね笑)。福岡県内でも油山や能古島、太宰府、海の中道、などなどたくさんいろんなところに連れて行ってもらいました。
その連れて行ってもらった場所の一つが、当時のヤフードームでした。
当時の私は野球のルールさえも知らず、今のように野球に魅せられるようになるとは思いもしませんでした。正直に言えば、初めての野球観戦は退屈でしたから(笑)7回裏攻撃前のジェット風船で何とか堪え、見事ホークスの勝利で花火があがったことで嫌いにならずに済んだのだと思います(笑)初観戦の相手は楽天だったはず。母なんて今日マー君じゃないんだぁとか言ってたくらいですからね。ホークス球団のファン層取り込み経営努力がなかったら私はファンになっていなかったかもしれないですね。感謝です!
人生のほとんどを本拠地でなくビジターで過ごしている私ですが、やはり福岡のホークスへの一体感には目を見張るものがあります。私、『いざ行け若鷹軍団』は行きつけのダイエーの乳製品売り場から流れてくる無限ループ音源で覚えましたからね。ほんとに。それくらい街を挙げて洗脳、応援しているんですから、他のどこにも負けない地域密着型球団になり得るわけです。小学校のクラスメイトの女の子でも、小久保選手(現2軍監督)のリストバンドをしている子がいたり、かなりの数の男子がホークスキャップをかぶっていたりとその人気は絶大でした。札幌に行ったとき、ハム頑張れよ!と余計な一言が口をついて出かけたくらいです(ごめんなさい)。
そうした環境で育ったものですから、徐々にしっかりとしたホークスファンに成長し、ビジターで外野席で声を出して応援するしかないという環境で揉まれたことにより、なかなかの熱烈な鷹ファンがここにできあがり、今を生きているのです。
ついついホークスのことで熱くなってしまいました。家族3人、皆福岡が好きになったのですが、そういうときに限って長居はさせてもらえません。たったの1年9か月で再び大阪府豊中市へと舞い戻ります。
以下、端折るエピソード一覧(毎回つけることにします)
・福岡初年度、雪が降る
・七隈線スタンプラリー
・マンションの7階なのに…外来種イエヒメアリとの格闘
・マンションの子ども会
・姪浜中央公園のおっちゃんと僕
・みどりのおばちゃんは校長先生
・ダジャレにハマる小学校2年生
など
関西の魂を学んだ豊中時代
小3の頭から豊中。両親にとっては懐かしの豊中。私も2回目ではありますが、1回目の記憶はほとんどありませんでした。実質はじめての豊中。
2回目は阪急宝塚線服部(現服部天神)駅が最寄でした。転校した学校は中豊島小学校。あのあたりの地域では一番評判がよい小学校のようでした。ちなみに国道176号線(通称いなろく)を挟んだ四中こと第四中学校はあまり評判はよろしくなく、中豊島では中学受験をする人も学年が上がるにつれて増えていきました。
さて、新幹線で福岡から大阪の地に降り立った私が最初に感じた大阪の印象は、「みんな歩くの速い」でした。福岡と比べると明らかに速く感じられたのです。やはり大阪、さすが大阪と言ったところでしょうか。
大阪の洗礼は学校でも受けます。出席番号連番の女子に転校早々「アンタ、何しゃべってんの?」と博多弁をディスられた挙句、ものの1週間で関西弁に駆逐され、ある男子にはフジッコ、富士フィルムなどとポンポンポンとあだ名をつけられ(浸透はせず)、六甲おろしを大声で歌い金本の下敷きを持つ熱血男にやさしくされるなどが立て続けに起こりました。やはり大阪、さすがは大阪です。
お近づきになるグループ、近づくタイミングを間違っては大変なことになると数日で感じ取り、そこからはうまく溶け込んでいったように思います。おかげではっきりと親友と呼べるような存在もできました。その友人の家には週に2,3回遊びに行っていましたし、
「お邪魔します~」
「邪魔すんなら帰ってや~」
というやり取りを毎回してました(笑)
ちゃんと関西人です。
この頃も野球はずっと好きで、学校には野球チームに入っているメンバーがたくさんいたのですが、まだ内気な性格というのは残っていて、どうしても野球を始める勇気は出ませんでした。遊びでやるにとどめていました。ましてやそのチームが結構強いといううわさも聞いていて、運動部系のノリについていけるのかという不安もありました(実際、そのチームに所属していたかつてのクラスメイトが強豪・智弁学園のスタメンとして甲子園に出ているのを高校時代に見つけました)。今となっては、そうですね、もし人生に後悔が残っているとしたら、私は野球を始めた時期を挙げるかもしれません。
野球こそやりませんでしたが、年に1回、ちびっ子健康マラソン大会というものに出ていました。そのころから短距離よりも長距離が好きなのです。万博記念陸上競技場とその周辺がコースで、陸上ガチ勢も出ている大会でした。結果は毎回散々でしたが、のちに陸上をやるきっかけになっていたのかもしれません。
豊中は小学校6年間のうち、半分の3年間を過ごした場所でもあります。その意味では多くの思い出がある場所でもありますが、それをいちいち書いているときりがないので、例によって端折ります。
ただ、豊中を去る時というのは唯一無二の引っ越しでしたので、それについて少し。
豊中から留萌に異動と父が言い渡されたのは、2011年3月18日(金)のことでした。そうです、震災から1週間後のことでした(発表遅いですよね)。そもそも言い渡されるのが遅いのもあって、学校では別の友人の転校に伴うお別れ会を開き終わっていたくらいでした。先生も想定していなかったのでしょうね。でも、自分が転校する可能性というのは前もってわかっていたので、6年生の卒業式(5年生は在校生代表で出席)では自分がこの学び舎を卒業するんだという気持ちで臨んだのを覚えています。
発表が遅いわりに着任は4月頭。まして震災でまだまだ混乱が収まりきらない中での引っ越し。荷物は物流の関係で、2回に分かれて届くことになりました。2回目の受け取りはすでに留萌での新学期が始まっていたと記憶しています。
そうした引っ越しでしたので、当時の様子はわりかし鮮明な記憶として残っています。そして、初めて新天地への期待よりも離れることへの寂しさが勝った引っ越し・転校でもありました。
飛行機ではなくフェリーで舞鶴から小樽へ行き、いよいよ留萌へ向かったのでした。
以下、端折るエピソード一覧
・ちちんぷいぷい
・2人の本の虫
・城巡り
・えいこ先生、こんにちは!
・『ちいちゃんのかげおくり』と合唱
・田んぼと×〇
・履正スイミングスクール
・飛躍と苦悩の公文
・西門プライド
・浜しょーと漢検
・大山古墳、上から見た
などなど
風が吹いている留萌時代
少々変わった引っ越しとなった留萌の始まり。これ、そもそも皆さん読めないですよね?「るもい」と読みます。アイヌ語のルルモッペから来ています。
数の子の生産量日本一、自称日本一の夕陽、冬の暴風雪など見どころはたくさんある場所です。みんな大好き留萌港建設の父・五十嵐億太郎が留萌千望台から見守ってくれています。…その名からも容易に想像がつきますが、高台にある千望台。そこまでの険しい上り坂はトレーニングコースでした。体育の授業でも走りました。いつそこら辺から子熊が現れるかとヒヤヒヤしながら走っていました。今となっては懐かしい思い出。
世間的には5月5日は子どもの日、ですが数の子の日でもありまして、そこから数の子条例が制定されちゃったりしています。もちろんゆるキャラは数の子がモチーフのKAZUMOちゃんです。25歳1児の母です。とても自分と2つ違いとは思えません。気になるでしょ?調べてみてくださいよ、25歳の若いママではないですから。
とにもかくにもめっちゃ数の子推しています。
留萌についてもこれまで通り書きたいと思うのですが、2023年3月末でJR北海道留萌本線、留萌-石狩沼田が廃線となりました。一部界隈では話題になっていました。私も利用したことのある人間として寂しい思いでいっぱいです。最後にもう一度乗りたかったですが、留萌はあまりに遠かった。そして、私が地方創生とかまちおこしといった分野に足を踏み入れることになったのは、留萌での経験あってこそなのです。
ということで、近日中に「僕と留萌」なる記事を書く予定でいます。留萌時代についてはそちらで触れようと思いますのであしからず。
一つだけ言っておきましょう。留萌では思い切って少年野球チームに入りました。小6にして大きな挑戦です。そのまま、中学でも野球部に入りました。僕は留萌にいる間しか野球をしていません。その意味でも、特別な場所だということがお分かりいただけるのではないでしょうか?
屯田兵最初の入植地、札幌琴似時代
中学時代
中学校2年生の6月末。留萌港南中学校2年生だった私は、運命の日を迎えました。父の異動の発表が迫っていたのです。どうやら今回は動くっぽいと父が言うものですから、異動になった場合は高校受験も見据えて単身赴任の形を取り、母と私が札幌へ行くというような話になっていました。細かい場合分けは覚えていません。結論からいうと、そのような話が現実となり、父はまたもや紋別へ行き、母と私は札幌へ行くことになりました。
父方・母方ともに祖父母はずっと札幌市内に住んでいるため、毎年のように昔から夏休みや冬休みには遊びに行っていた札幌。結構知っている場所だけど、住んだことはない。会社に言われたわけじゃないから、引っ越し業者も住む場所も自分たちで決める。どこか不思議な引っ越しでした(まあ、手配は全部両親がやっているんですけどね)。♪近そうでまだ遠い大阪~、おっと違ったそこは札幌、ってね。
では、そんな中途半端によく知っている札幌のどこに住むことにしたのか。できうる限りの情報を両親も集めたようで、西区琴似に住むことになりました(そういえば福岡も西区でした)。転校先の中学校は札幌琴似中学校。歴史ある学校です。
実は琴似という場所は、札幌で最初に屯田兵が入植した場所として知られています。札幌の歴史のスタート地点と言っても過言ではありません(知らんけど)。琴似にはJR琴似駅と市営地下鉄東西線琴似駅の2つの駅があり、非常に住みよい街です。サツエキや大通にまでわざわざ出かけなくても事足りてしまう街、それが琴似です。
そんな札幌での生活は、中学2年の8月第1週、真夏の山の手のマンションの1室から始まりました。山の手地区は標高311メートルの三角山(今住んでいる場所からするとかわいいもんだ。あ、でもヒグマは出ることあるんだよな。)がシンボルの、緑豊かな雰囲気のよい住宅街です。近所の札幌山の手高校はスポーツが盛んな高校で、ラグビー日本代表のリーチ・マイケルの母校としても有名です。ちなみに私はリーチ・マイケルも来ていたという床屋さんが行きつけでした(笑)
位置関係としては、道路を挟んで山の手地区と琴似地区が相対している恰好です。高校入学直前だったかな、そのタイミングで近場での引っ越しをして、琴似地区へとやってきました。今もそこが実家です。
琴似中(琴中)はマンモス校でした。1学年7クラス!はじめての始業式の時は、どこぞの国の人々がお祈りでもしているのかと勘違いするような、大迫力の校長先生へのお辞儀の波でした。本当に壮観でしたよ、あれは。
さらにさらに、合唱部が全国大会に行くようなレベルで、学校を挙げて合唱に力を入れているもんですから、歌のうまさが半端じゃない。とんでもないところに来たなと思ったもんです。夏休み中に、事前に学校訪問した際にも、宿題とともに合唱コンに向けてのCD(課題曲・自由曲・学年で歌う曲すべて収録)を渡されたくらいですからね。クラスメイトの名前も担任の先生の顔も知らないのに、配属されるクラスの合唱コンの自由曲を先に知るありさまです。力の入れ方がすごかった。
(またそのうち合唱についてだけで記事1本書きます)
とんでもないところに来たなと思ったのは、野球部が強いという先入観も手伝っていたかもしれません。実は、さかのぼること数か月、まだ留萌にいる頃に琴似中と練習試合をしていたんです。もう笑っちゃいますよね。琴似中野球部の監督が学年主任の先生。留萌港南では格上の相手としてみていましたから、転校後その先生に野球部に勧誘されるも留萌時代でさえレギュラーでなく、まして小6から始めたような人間がやっていけるわけがないと思い、得意の持久力を活かすべく陸上部に入ったのでした。こうして、まず琴似の伏線を回収して実際に住み始め、さらにちびっ子健康マラソン大会の伏線を回収し、陸上部人生が始まったのです。どうやら私の人生は、伏線を張りまくり、それを長期スパンで回収すると相場が決まっているようです(笑)
留萌から札幌という変化は、大阪から留萌よりも身体に堪えました。都会から田舎より、田舎から都会の方が疲れるのだと思います。どの場所に引っ越してもぬぐえない「よそ者感」が一番強く出続けたのが琴似中時代だったかなと思います。まあ、とてもよくしてくれた友人も多いし、めっちゃ前からいた気がする!と言ってくれたクラスの女子なんかもいて、悪くはなかったんですけどね。でも、留萌時代の方がよかった、なんて思うことも多々ありました。
留萌時代の恩師が「南目指せよ」と言って、私を送り出してくれましたが、南高に行く気は全くなく、北高が第一志望でした(札幌は公立高校が超進学校として知られ、概ね南、北、西、東の順に偏差値が高い。西高は近所だったから目指す人は多かった)。けれども、あと一歩のところで不合格で、私立の札幌第一へ。スキー授業がない一高は最高の環境でした(笑)
高校時代
一高は野球部が強く、実際に在学中に2回春のセンバツ甲子園大会に出場しました。野球好きとしてはこの上ない環境でしたね。野球好きも多かったですから、連日野球トークで盛り上がりました。プレミア12を大人数で札幌ドームに見に行ったのはいい想い出です。普段はビジター応援席で細々と観戦しているだけですから、楽しいったらありゃしない(笑)まして学校から札幌ドームが見える位置でしたしね。最初から一高目指してもよかったくらいのもんです。
高校ではひたすら走りました。長距離部門でトラックを何周もしたり、秋の駅伝に向けてロードを走ったり。円山で走り、厚別で走り、千歳で走り、室蘭で走り、小樽で走り、北斗で走り、標茶で走りました。練習で札大で走り、朝練で学校敷地内を走り、マイナスの極寒の中月寒公園を走り、真駒内アイスアリーナで走り、つどーむで走りました。ひたすら走りました。
勉強もある程度ちゃんとやっていました。忙しい毎日だったなと思います。とはいえ、一般的な高校生活だったのではないでしょうか。
高校2年の時。野球部の全校応援がありました。
相手は札幌日大。
試合は負けました。
その時の試合展開としては、あと一歩という感じだった。
押せそうで押せない感じ。ずるずる負けちゃったという感じ。
その背景には、全校応援の完成度の差があったのではないかと肌で感じたのでした。実際問題として私は圧倒されたんです、日大さんの応援に。
で、その前にはセンバツ甲子園で戦った木更津総合高校の完成度の高い応援も目の当たりにした。そういうタイミングだったので、全校応援の在り方を問い、変革を提案する意見文を先生を通して学校に出したりしていました。おかしい高校生ですね。
その甲斐あって、学年ごとの配置を変えるなど工夫がなされました。
いい全校応援ができていったのは、ひとえに改革に動いてくれた先生方とクラスにいた生徒会長のおかげです。感謝。
実は個人的にはもっと収穫がありました。
その時に書いた文章を複数の国語の先生にお褒め頂いたのです。
男は単純でバカだなんて言いますが、私も例外ではないようで、それで調子に乗りました。
変な自信をつけた私は、高3時に当時の留萌市長宛てに、留萌線廃線議論に関しての意見文を、ノートに新聞記事のスクラップなどとともに書いて送ったのです。筋金入りのバカですね(笑)でも、それを書いているときが人生で一番熱くなっていたし、集中していたと思うんですよね。そうさせるものが留萌にはあったということで、それはまた後日。
高校時代は記憶も鮮明ですからキリがないのでこの辺で。さらに進学情報など知りたい方は以下の記事をお読みください。
https://note.com/ohotsuku/n/n516f1892ad71
以下、端折るエピソード一覧(札幌編全体)
・久住さんと教科書
・学級代表になって感じたこと
・塾で作った学びは生きているか?
・生徒手帳にサインをもらった話
・学校間抗争、勃発⁈
・○○点検とかウザイ
・行き帰りで会う奴と話すのが一番楽しい
・人間関係は面倒くさい(けどよそから見ていると楽しい)
・浪人と地震
などなど
もっとある気がするけど、とりあえずはこんなところ。
はじめての東京時代、そして。
1年間の浪人生活を経て大学へ入った。東京へ行きたかったわけではないが、はじめて東京へ行くことになった。
大学生活については、先にあげた記事とその続編に詳しいのでそちらをご参照いただきたい。
なお、大学3年生までしか振り返りできていない模様。
いつになったら大学4年生を振り返るのでしょうね。
この記事に組み込むのは危険なにおいがするからやめておきます。
結論から言いましょう。
東京生活は楽しかったです。とても。
でも、ずっと人生の長い時間を捧げる場所ではないとも感じました。
たまに刺激を受けに来ればそれでいいというか。
日常生活を送るにはあまりに刺激が多い。
それが時には心地よい。
が、期限を決めていないと、なんだかんだ井の中の蛙というか。
消費しちゃうループに永遠といるというか。
せかせかしたくなくてもしちゃうというか。
いくらグローバル都市TOKYOといっても、東京でぬくぬくしていたら何も見えてこないなと。
そんな感じもあって、東京を出ようというのは早々に決めていました。
昔、なんかの本で誰かが言ってたんですよね。
若いうちは5年以上同じ場所にいてはいけないと。鈍るからって。
それ、なんとなく経験則でわかる気がします。
だから、東京には4年もいてあげたんですから十分でしょう。
それに、関東にはあまりに縁がなくて、アイデンティティを見つけるのが難しかった。
好きになれない感じ。
東京は勝手に資本の動くままに成長するんだろうし、成長すれば?とどこか冷めた感じ。
でも、江戸は好き。昭和の雰囲気も嫌いじゃない。
下町は好き。意図的につくられた下町というより、ガチもんの下町。
いい。
俺は下町を見捨てない。
だから、東京に憧憬の念などを持ったことはない。
でも、毛嫌いしていた高校生当時の自分では想像のつかない東京の魅力を教えてくれたのも確か。
東京とは程々に付き合っていこうと思う。
んなわけで、地方にフィールドを移すのはもはや自分にとっては当たり前の選択。その程度がすごかったというだけで(苦笑)
大学時代の行動や経験から、そんなに不安を抱くことなく今宮崎県椎葉村に来ている。とても楽しい。充実しまくっている。
何なら、東京にいるころよりも多様な人と関わっている気がする。
まだ3週間程度。
でも、居心地はとてもいい。
椎葉についてもたっぷり書けるような濃い時間を過ごしたい。
以上で、だいぶ長めの自己紹介を終わりにしようと思います。最後の方はこちらがバテました。最後までお付き合いいただいた方、本当にありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いします。
なんで椎葉行ったの?という質問に対する回答は、各種椎葉村の媒体からお読みいただくか、私がここでまとめるのをお待ち下さい。
でも、ここまでお読みいただいた方は何となく想像できているかもしれませんね。
ではまた。
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