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大学生活を振り返る①~これから大学生になるあなたへ

今日で3月も終わり。
WBCが終わり、フィギュアスケートの世界選手権もいつの間にか終わり、大相撲3月場所も終わり、センバツ高校野球も佳境を迎え、プロ野球が開幕した。
スポーツだけ辿っても、あまりに濃い3月だった。

個人的にもこの1ヶ月は馬鹿みたいに予定を詰め込んだ(正確には2月中旬から)。

少し例を挙げよう。
・ヒューマンライブラリー実施
※説明すると長くなるので、気になる人は調べてみてほしい
・東京マラソンボランティア
・インターゼミ参加、発表
・オープン戦観戦
・卒業旅行(1泊2日で日光)
・札幌で寄席実施
・引っ越し(場所柄、ゆうパックとヤマトで)
・卒業式
・友人・先輩と飲む×複数回
・宮崎の山の中で暮らし始める

よく完走したぞオレ。自分で自分を褒めようと思う。ちょっと風邪引いたくらいで済んで良かった。

さて、大学生活最後の1ヶ月はバリバリ忙しく充実していたわけだが、もちろん4年間トータルで見ても充実していた。そんな大学生活を振り返りたいわけだが、如何せん切り口がいくらでもある。長編化待ったなしである。その割に、あまり好まないスマホでの執筆。どないしようかな。

とりあえず、書く。文章の書き方としてこれほど呆れる書き方はないだろうが、見きり発車でも構わない。案外手が止まった時のスタンダードな書き方かもしれないし。とりあえず、3/31という日付のうちに少しでもまとめておきたいのだ。

そして、今思い付いた。自分の振り返りという観点だけだと、とっちらかって収拾がつかなくなりそうだ。だから、これから大学生になる君に向けて書く。別に起業したわけでもないし、首席で卒業したわけでもないし、海外留学したわけでもなければ、大手企業に行くわけでもない。そんな平々凡々な僕の大学生活を語ろうと思う。

追記 : 数時間前には意気揚々と上記のように宣言していたが、段々独りよがりの文章になってきた気がしている。それでも何かヒントがあれば幸い。

道外大学進学はマストだった

転勤族の家庭で育った僕は、高校(私立)生活を札幌で送った。周囲を見回すと、当然のように北大進学希望者が多数を占めるのだが、僕はとにかく北海道を出ることだけは早々に決めていた。それもできれば西日本に行きたかった。福岡と大阪に在住経験があり、東京は未踏の地だったことが大きい。それに上京するという大きな流れに飲み込まれるのがなんとなく嫌だった。

そんな変なこだわりを持っていた僕だが、当時の第一志望は大阪大学だった。人間科学部というとらえどころのないおもろそうな学部があったのだ。そこに惹かれた。

子どもの頃はロザンの宇治原さんに憧れて京大に行きたいと思っていた。だが、高校時代には京大にそこまで惹かれるものがなかったし、何よりも実力が足りなかったので、阪大志望にしていた。

とは言うものの、阪大だってあの阪大である。受験勉強だけに集中しきれなかった僕は、受からない未来を見越しながら特攻し、普通に落ちて浪人した。親父が二浪経験者で浪人の許可が下りたからこその行動だった。

ちなみに現役の時、国立大後期日程で金沢大を受けた。その試験の小論文対策として、何となく気になった本を手にとって読んだ。それが僕を地域活性化・地方創生分野へ向かわせる決定打になったことだけは記しておく。

浪人時代は四谷学院に通った。大学受験予備校でありながら、高校の授業よりもアカデミックに感じられることもしばしばだった。迷える高校生に気軽に浪人を勧めようとは到底思わないが、決して無駄な1年でなかったことは断言できる。僕の場合、1年間で伸びたのは元々得意だったものが多い。数学は最後まで自分の物にはなりきらなかった。

浪人時代も当然最初は阪大を目指していた。だが、思うように伸びない自分に限界も感じはじめ、他の選択肢も考えはじめた。また、そこまで阪大の人科に魅力を感じなくなっていたのかもしれない。結局、パンフレットで直感的にこれだと思った九州大学の共創学部を目指すことにした。11月のことである。2次試験の科目が国語ではなく、小論文だった。国語は得意だったし、文章を書く力自体は自他共に実力があると思っていたのでこの選択に踏み切った。

センターはB判定だったか。あまりはっきり覚えていない。予定どおり、九大に出願した。

2次試験。九大伊都キャンパスはあまりにデカかった。英語上々、数学は予定どおりイマイチ。そして、小論文。時間足らずゲームオーバー。結果を待つでもなく、アカンかったとわかるレベルだった。

小論文は11月から個別指導で対策をした。だが、限られた時間内でまとめきるのがどうも苦手なようで、蓋を開ければ惨敗だった。なお、この自分の傾向は大学に入ってから確信に変わった。

そもそも飛び抜けたものがないなかで、まあまあチャレンジだったことは否めない。阪大志望だったなど笑い話である。そもそも自分は受験勉強というものが不向きなのではと考えてもいた。それでもあまりに後悔が残りそうな気がしたので、浪人という選択をしたのだ。そこに後悔はない。

さて、どんなに第一志望を譲っても大学には行くのだ。どうしたのか。

もちろん滑り止めは受験していた。
はっきりとは覚えていないが、東洋大、関大(2学部)、立教に出したはずだ。他にもあったろうか。東洋、立教はセンター利用、関大はたしかセンタープラス独自試験で、札幌で受験した。

上記の大学は全て受かった。
ここからは土地の選択と学部の選択だった。
馴染みのある大阪か、未踏の大都会東京か。

悩んだ。関大の1つの学部はありがたいことに成績優秀扱いだった。そこの学部に行けばもしかしたら、リンク見学できて宮原知子さんに会えるかもと期待した。だが、残念ながら一番興味のある学部ではなかった。

残すは関大社会学部と立教社会学部だった。
社会学部にしたのは、小論文指導をしてくれた先生の影響だ。自分が社会学に向いていることに気づかせてくれた恩人である。

悩んだ。大阪か東京か。

知らない世界の門を叩くことにした。東京は池袋にある立教を選んだ。国立大受験者向けの6科目型でのセンター利用を使ったため、大学が池袋にあることはこのタイミングで知った。なんなら、家を決めるために上京したタイミングで初めてキャンパスを訪れた。案外いい加減な進路選択なのだ。そして、とてつもなく経済的に親に依存した大学受験・大学生活であったことは反論の余地もない。恵まれていたことに感謝である。

一方で、子どもの頃に本州で暮らした経験のある人はその多くが道外に進学した気がする。北海道を出るというのは、経済面だけでなく、心理的な面からも1つの大きなハードルなのかもしれない。

コロナ前の大学生活

2019年4月に立教大学に入学した。事前に読んでいたパンフレットを見ても、ほとんどが関東圏在住者であり、地方出身者はレアキャラであることが予想された。まして浪人経験者である。期待と少しの憂鬱さを持ち合わせながら、はじめてキャンパスに行った。

だが、類は友を呼ぶらしい。初日に浪人経験者4人くらいと出会った。地方出身者もいた。探せばいるどころか、勝手に出会えた。これは幸運だった。コロナ禍で付き合いが途切れもしたが、卒業式で写真を撮れたのだからそれでよかったのだ。

やはりというべきか、おしゃれな人が多くて最初は気苦労の連続だった。無頓着な自分なりに気にしていたが、途中で諦めて開き直った(笑)

関東圏の人が多いという時点である程度想像はついていたが、附属校出身者が多く、さすが東京だなと感じることも多かった。男子校、女子高出身者がそこそこ多いのもまたそう感じさせた。

私立文系ということで数学捨てました勢が多く、また、倫理・政経なども必ずしも高校で学んでいない人が多い中にあって、浪人してまで国立を目指した僕は、その点楽なこともあったし、何より中身がわかるから楽しかった。やっぱり学んで損になることなどないらしい。

1年春学期はバイトをしないで、大学の勉強とサークル、学外の学生団体に顔を出す程度だった。今ではバイトをしとけばよかったのではと思うこともある。なぜなら、1年春学期の成績が一番悪かったからだ(4年春に唯一受講した講義のレポート提出をミスったことによる評価を除く)。だが、バイトをしていたら参加できなかったであろう学内外での講演会やイベントもあった。池袋のジュンク堂書店で大澤真幸さんの講演を聞いたのはいい思い出だ。学内のキャリアに関する講演では、ANAのお偉いさんが紙にメモする学生の様子を見て「共有できない形で記録することに意味はない」と言って、場を凍りつかせたことがよく記憶に残っている。僕も困惑した一人だ。

結局、バイトをしようがしまいが、何に重きを置くかの違いで時間の使い方が変わるということだったのではないだろうか。

ちなみに、この春学期の結果というのが先ほどの小論文と時間制限の関係につながってくる。僕はレポートの方が圧倒的に合っていた。テストはものによるが、教室での小論タイプの試験で良い成績だったことはほとんどない。

それを証明するかのように、提出までの時間を多く取ってくれていた(考える時間が多かった)コロナ初期、つまり2年の春学期は最高成績だった。普段のリアペ(リアクションペーパーの略。コメントシートなどとも呼ぶ。先生によってはお題が出されるが、多くの場合、講義を受けるなかで生じた疑問や感想、意見をまとめる。)でも違いは顕著だった。コロナ前だと、リアペをうまく書けなかった。だが、コロナ禍のオンライン授業では結構しっかり書けた。そういう感覚の時には、結構な頻度で取り上げてもらえることもあった。

話をコロナ前に戻す。
サークルは落語研究会に入った。これは高校時代から決めていたことだ。きっかけなどはまた別の機会に詳述しようと思う。

その他のサークルもお試し的に在籍したものはある。だが落研一本に絞った。落研がなかったらやってらんなかっただろうと、今振り返ると思う。

地方創生・地域活性化に関心を抱いていた僕は、友人の紹介から社会貢献を本気で考える人たちの学生団体コミュニティにも出会った。そこでの学びは大きかった一方で、内容やペースがその時の僕には合わなかったらしい。無理にやらされている感が出てしまい、秋ごろに離れた。今振り返れば、この時の経験が4年時に活きているから無駄とは思わない。

多忙の秋になったのは、10月から学習塾でのバイトを始めたことも関係していたかもしれない。もっと前から面接などは受け、採用も決まっていたが、夏休みは岩手の陸前高田に行ったり、札幌へ帰省したりと時期がずれ込んだのだった。このバイトは卒業間際の今年2月まで続けた。バイトから得たことに関してもまた別の機会にしよう。

一応、教育業界の端くれとして働いていたくらいだから教育への関心は持っていた。ただ、それは地域間格差という視点が大きく、教育資本という観点にもつながっていった。そのような意識を持つ原体験が学校図書館絡みであったため、大学一年の春から図書館司書の資格を取るべく司書課程を履修した。これまた1記事書けるくらいなので、あとで別枠でまとめようと思う。

こうやって書き出すと、結構いろいろやってたんだなぁと気づかされる(笑)多分、些細なことを含めればまだまだ書けるが、とりあえずコロナ前はこれくらいにしておこう。

2020年2月。胃腸炎になった。落研の先輩が全国大会で決勝に進出した。目の前でそれを見れたことは本当に幸せなことだった。
2020年3月上旬。コロナかと思いきや、インフルエンザにかかる。どのみち行けなかっただろうが、北海道上川町での地域系のインターン参加がコロナでなくなった。上川町はなんも悪くないのにお詫びとして、ジャガイモが10キロだか20キロだか送られてきたのには驚いた。

コロナ禍での大学生活(大学2年)

2020年3月。外出を控える動きが盛んになるなかで、僕は一人暮らしの無責任さでわりかしフラフラしていた。連日映画館へ行ったり、散歩したり。おかげで変な我慢はしなかった。

下旬には三省堂有楽町店に面接に行っていた。学習塾以外の世界も見ておきたかったし、本屋さんで働きたかったのだ。三省堂書店は留萌時代のご縁もあり、僕にとっては特別な存在である。そんな話もしたら、採用はあっさり決まり、いよいよ働き始めることになった。細かいことは覚えていないが、たった1度だけ出勤した。あれこれ研修を受けてレジに入り、そこそこ接客も行った。『鬼滅の刃』が面白いように売れていくのが1日限りでもよくわかったものだ。毎年出される女子アナのカレンダー用の、特殊サイズの袋の呼び名が「女子アナ」だったことが強く印象に残っている。

結局その後、緊急事態宣言が出されGW明けまで勤務もなくなるということになった。まだコロナがどういうものかわからなかったこともあり、そもそもキャンパスから行く想定での有楽町店の選択であったから、自宅から行くとなるとリスクと時間ばかりが気になることとなってしまったので、思いきって辞めた。その節はご迷惑をおかけしたなと思う。

オンライン授業は僕は結構好きだった。2年の春学期はどうせ家にいるしかないならと割り切って、多くの科目を選択し何とかこなしきった。先述の通り、より深く考えられる機会も増えたし、発言するにあたり周囲の目を一切気にする必要がなくなったため、この学期の成績が一番良かった。コロナであれこれ可哀想とのメディアの論調があったが、それにはあまり当てはまらない学生だった。学習塾のバイトもZoomを使って家から行うなど、経済的不安要素もあまりなかった。

Zoomといえば余談だが、僕はコロナ禍より前に一度だけZoomを使う機会があり、その存在を知っていたし、インストールもしていた。まさかこんなインフラのようなレベルにまで普及をするとはその頃は思ってもみなかったけれど。

2年の秋には、3年から所属するゼミ選びが始まった。昼休みの時間帯に連日各ゼミが説明会を行っていた。いくつか気になるものを選んで説明会に参加した。そうして選んだゼミは、倍率が高いことで有名なゼミだった。そのゼミの先生の授業を同タイミングで受けており、このゼミだなと決めた。面接もZoomを通して行われ、不思議と受かる気がしたが、果たしてその予感は当たり、晴れて第一志望のゼミに入ることができた。多分コロナがなかったらこのゼミを選ぶ思考にはなっていなかったと思う。天のいたずらってやつかもしれない。ジェントリフィケーションの動きのなかで生じる、大手デベロッパーと広義のクリエイターの間で繰り広げられる追いかけっこが、何とも面白いと感じられたのだ。そしてその先を行くクリエイターに惹かれた。だからこそ、地域のことを扱いつつアートも絡んでくるゼミを選んだ。

ちなみに2年秋の金曜日は1限から5限までフルコマにしていた。すべてオンラインである。さすがに疲労困憊の時間帯があり、この曜日に受けていた講義1つの最終レポートを出さなかった。出せなかったという方が正しいかもしれない。フルコマはあまりおすすめしない。

そういえばこの少し前だったろうか、北海道Likersというwebメディアでライターを始めた。以前出入りしていた学生団体関係で紹介してもらったライター執筆は介護に関する記事で、どうしても興味を持てずに書くのが億劫だった。そこで見つけたのが北海道について書くライターの募集。これだ!と思って以来、今に至るまで細々と続けている。

大学2年はこんなところか。
コロナ禍前後で考えがグルグルと迷走した感じはある。1度は見切りをつけたはずのアナウンサーにまた憧れて、アナウンススクールの説明会にオンラインで参加したこともあった。

でも結局その道ではないなと思って舵を切り直したり。

大学には本当にいろんな人がいるし、何をやっても正解なんだと思う。僕は案外いい加減な成り行きで立教大学に入ったけれど、大卒の称号が欲しいがために入学したなんてことは考えたこともない。いわゆる楽単なるものについての情報が入って来なかったわけではなかったが、積極的にそうした情報を取りに行こうとは思わなかった。新歓でのどこぞの先輩の一言は今でも脳裏にこびりついている。「社学は息してるだけで単位もらえる。ただし、呼吸の仕方にコツがある」。

結局真面目なんだなと我ながら思う。3年になってゼミの輪読の際に、ゼミ生が「(この本)ムズいよね~、入試の現代文みたい」と発言したのにはガッカリした。入試よりレベルの低いものを扱ってどうする。こういった、アクセル全開で議論できない環境には辟易した。だから、ある意味では大学内でそのような場を求めるのを半ば諦めた節もある。4年になってそういう議論をできる仲間や場が見つかったのは僕の学生生活にとっては幸せな終わりかただったのかもしれない。

さて、少しばかりまとめたが、大学3年、4年、司書課程、陸前高田での経験など、まだまだ書きたいことだらけである。今回の記事を前半とし、後半を近日公開としたい。

ひとまず大学生として最後の1日に書きたいだけ書いた。何かしら面白がって読んでもらえたら望外の喜びってやつだ。

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