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僕は僕のことを僕と呼べなかった

自分のことを何と呼ぶか。
些細なことのようで、結構深い。

僕は幼い頃、自分のことを「僕」と呼ぶことにためらいを覚えていた。
幼い頃と言ったが、その意識は中学生の時も持っていた。

何でなのかはわからない。
ただ、感覚的に僕は「僕」と名乗ってはいけないと感じていた。
自分に「僕」という一人称を使う、その資格があるとは思っていなかった。

かといって「俺」を使うのもちょっとなあと思いながら、「僕」よりはマシかなという思いだけで「俺」を使っていたように思う。
「俺」という器でないことも重々承知していたつもりだ。
「僕」と「俺」の間の言葉があるなら真っ先に使うのにと常に思っていた。

小学生時代の「僕」に対する嫌悪感は、教科書の登場人物のセリフだったからかもしれない。
国語や社会、道徳などの教材を通していろんな「ぼく」と出会うわけだが、どこか自分には似ても似つかない感覚を覚えていた。
自分は「ぼく」ではないなと強く感じていた。

だから、ただでさえ得意でなかった人前での発表のとき、判で押したように皆「ぼく/わたしの〇〇は~です」と進んでいく発表が嫌だった。
「ぼく」と発音した瞬間に変な緊張が訪れ、身体のどこかが痛んだ。
平静を装っていたが、内心では誰かから「お前は「ぼく」ちゃうやろ」と指摘されるのを恐れていた。

そう、「ぼく」じゃないことを自覚していたのだ。
その意識を倍増させるような親友と小3の時に出会った。
彼はモテ男だった。
「友チョコやで」と言いながら、バレンタインに合計15個くらいチョコをもらっているような男だった。
華奢な身体からは想像できない身体能力を持っていた。
ダンスと水泳で鍛えられたのだろう。
男女の距離が、小学生にしてかなり緊張感あるものだった大阪において、男女ともに自然に仲良くできる稀有な存在だった。どちらかというと、ザ・スポーツ少年みたいな男子とはうまくいっていなかったと記憶している。

彼こそ絵に描いたような「ぼく」だった。
実際彼の一人称は「ぼく」だった。
そしてそれが一番しっくり来た。
彼は「俺」ではなかった。
もう、彼を目の前にして「ぼく」と名乗ることなどできないと無意識のうちに感じたのだと思う。
それくらい「ぼく」の完成形だった。

時計の針を少し戻す。
福岡にいた頃の話。
当時小学校1年生で仲良くしていた友だち(男)がいた。
彼の一人称は「うち」だったようだ。
のちに振り返ってみて知った。
彼とよく遊んでいた僕は、知らぬ間に「うち」と呼ぶようになっていたみたいである。

とはいっても、頻度としてはそんなに高くなかったのではないかと思っている。
だって、同じく福岡にいた小2の頃は何も言われなかったのだから。
あるいは小1のクラスの環境が恵まれていたのかもしれない。
それについては、また後述する。

でも、転校した大阪でいきなり先制パンチを食らった。
小3の4月のことである。
まだ大して仲良くもないクラスメイトに言われた。
「男やのに「うち」って言ってるん?」
ヤバいと、転校生の第六感が働いた。
これは直さないとイジメられると。
家に帰って母親に聞いた。
「うち」って一人称、男が使ったら変なの?と。

母はのんきなもんで「別に変じゃないよ」と言ってくれたが、もうこれは絶対に直そうと決意した。
あの時の判断は正しかったと思っている。

先述の福岡の小1のクラスでこんなことがあった。
基本的には男の子は「ぼく」、女の子は「わたし」を使っていた。
ごく普通の光景だろう。
ある時、ある男の子が「わたし」と言って発言した。
彼は周りに流されないタイプのナイスガイだった(と勝手に思っている)。
周りからは笑いが起きた。
男が「わたし」と言ったからだ。
その時の先生がうまかった。

叱ることなく、
「あら、別に男子がわたしって言ったっていいじゃない。先生は「わたくし」って言いますわ。オホホホホ(笑)」
と切り返したのだ。

クラスからさっきとは違う種類の笑いが起きた。
子どもながらに先生を尊敬した。
今の時代でもこれだけの返しができる教師がどれほどいるだろうか。
大人になった今、改めて先生の偉大さが身に染みる。

というか、今書いていて思い出した。
この学校では男女の別なく「○○さん」と呼ばれていたし、呼んでいた。
そういう学校の方針も大いに関係していたのかもしれない。
他にも男女のジェンダーの問題の核心に迫るような授業を受けた記憶もある。
どうやら先進的な教育に恵まれていたらしい。
また別記事で詳しく書く。

自分で自分の名前を呼ぶ、ということも一時期やっていた。
これは家の中で親の前で使うことが多かったように思う。
自分が言われたかは定かでないが、自分で自分の名前を呼んでいる男子が「女子かよ」と突っ込まれているのは見たことがある。
多分これを見て気を付けていたに違いない。

こうやって見てくると、男女という意識は案外小さい頃の方が強いのかもしれない。
そして大人と違ってそれを口に出してしまうからこそ、その鋭さは増すのかもしれない。
逆に大人は感じても口に出さないから、変な空気が流れることもあるのかもしれない。
どんなことがらだってそうだろうけど。

高校生くらいになると、「僕」も「俺」も普通に言うようになった気がする。
単純に言葉を発する機会が増えたから感覚麻痺しただけなのかもしれない。
あるいはフォーマルな場面では私という言葉を(男である私が)違和感なくつかえるお年頃になり、それが共通認識として同年代に広まって、相対的に「僕」や「俺」への嫌悪感も薄らいだからなのかもしれない。
真相はわからない。

高校時代の部活では、面白いルールがあった。
先輩や先生など目上の方への一人称は「自分」を使えというものである。
「自分は~です」というわけだ。
これは最初こそ違和感があったが、慣れてくると便利だった。
性別に依拠しない一人称って案外少ないのだが、「自分」はその一つだ。
どういう経緯でそんなルールができたのか知らないが、意外と合理的でいい決まりだったように思う。
まあ、なんでそんなところにまで口を出されなきゃいけないんだという思いは少なからずあったけれど。

今となってはどの一人称を使うのにも、昔感じた違和感は消え去っている。
これが大学生という大人になった証なのだろうか。


でも、僕はあの頃の感覚を忘れない。



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