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一人称について思うこと

 文章を書くときは、一人称を「僕」で統一している。しかし、文章を書く習慣が無かったときは「僕」なんて日常では使わない。おぼっちゃまくさいし。

 だが、文章を書くことが日常化することにより、一人称が勝手に変化していった。毎日毎日文章の中では僕僕言っているのだから、それに慣れたのであろう。文章を書くとき以外にも、一人称は「僕」になりつつある。

 以前までは自分のことを「俺」と呼んでいた。男性なら一人称が「俺」は多いはずだ。
 もちろん、上司などの目上の人に対して自分を「俺」と言うことはないが、家族と話すときや友人と話すときは、無意識のうちに「俺」であった。

 今まで「俺」と言っていたのに、急に「僕」と自然と口に出るとなんか恥ずかしい。僕自身、小学生まで一人称は「ボク」であったが、周りの友人の一人称が皆「俺」であったため、皆に合わせる形で「ボク」から「俺」への転換をはかった。一言でいえば流されたのである。

 これまでの僕の一人称の経緯をまとめると、

小学生〜 「ボク」
中学生〜 「俺」(周りに流される)
〜今   「僕」(文章を書くことの日常化)

            ということになる。

 僕の周りの人間は一人称が「俺」であるから、彼らの前で自然と「僕」になってしまうのは少し恥ずかしさを覚える。彼らにとって「僕」呼びはイレギュラーだからだ。

 ポジティブに捉えるならば、「俺」とは没個性であり「僕」呼びは個性があるとも捉えられる。いや、しかし「僕」呼びする人は少数ながらもいるし、そもそものインパクトがないから個性はない。

 では一人称を何と呼べばいいのだろう。中高生の女子生徒の中には、自らをファーストネームで呼ぶ人たちが一定数存在する。例えば山田花子という女性がいたとしたら、「花子ね〜」と自称する。一度だけ、ラストネームが一人称の女子高生を見たことがある。そうなると「山田ね〜」となる。これは面白い。また、女性特有の「うち」と呼ぶ人間も女性の中には多く存在する。

 今はジェンダーレスの時代だから、彼女たちの一人称呼びを模倣すれば個性は出せる。けれども、いくらジェンダーレスの時代とはいえ、僕がファーストネームで自分を呼び始めたらインパクトが返って強すぎる。 

 ならば古風なのはどうか。数年前に「仁」という現代の医者が江戸時代にタイムスリップする話に、吉原の花魁ことノカゼという女性が登場した。彼女の一人称は「あちき」である。うむ。クセがなかなかにお強い。

 夏目漱石の小説、『吾輩は猫である』の「吾輩」も個性が輝きすぎる。
 あとは、「某」とか。読めない人も多いと思うが、これで「それがし」と読む。これも少々厳しいだろう。まず、意味が通じない人が出てきそうだし、一人称が気になりすぎて会話の内容が入ってこなそう。古風な一人称を現代的にアプローチすることは難しそうである。

 ならば方言はどうか。広島あたりの人たちが使う、「わし」とか九州の人たちが使う「おいどん」とか。どれも悪くはないし、愛嬌がある。だけれども、郷に入っては郷に従え。場違い感が出てしまうのが否めない。

 そう考えたら「僕」という一人称は「俺」に比べたら個性的だし、「あちき」とか「おいどん」に比べたらクセは強くない。つまり、いい塩梅の一人称である。

 あなたの一人称は何ですか。まさかいないとは思うけど、「朕」とか言ったら右翼にぶん殴られますよ。「朕」は天皇しか使えない一人称ですからね。



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