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「生きたいように生きる」

もはや私たち一般庶民は、安心して平穏に暮らせないのか。

そう思っている人は多いだろう。

度重なる自然災害、新型感染症、政府の不作為、そして、いつまでも改善しなかった(庶民感覚としての)不況と格差拡大、果ては煽り運転殺人、匿名ネット中傷……

以前にも書いたことがあるが、これほどまでに一般庶民が「生きにくい」という感覚にされる時代は、ある意味で戦時中と同じと言えるかもしれない。

そんな中では、例えば地域社会の活性化だとか、テレワークで東京脱出とか、起業とか、なにやら意識高いことをしている人々にスポットが当たる。

このまま会社にしがみつく人生でいいのか?

やりたいことをやる人生にするべきではないのか?

そういうメッセージが、日々、耳を突いてくる。
そして何も出来ていない自分に嫌気が差し、生きにくい世の中を感じる。

この「生きにくい」という感覚はなぜ生じるのだろうか。

理由はいくつかあるだろう。
私は、最も大きな理由は、
この国にはびこる「べき論」にあると考えている。


昔と違って、会社員だけではない稼ぎ方があることや、結婚しない生き方、性的マイノリティの存在、などが社会全体に認識されるようになってきている。

それでも、例えば、近頃の自粛警察の跋扈はべき論者の弱点が顕著に表れた好例であろう。
SNSで「映える」ことを求めたり、リア充であることをアピールしたりする人がいつまでたっても絶えないことも。

彼らは、社会の危機にあっては大人しくお上の言うことを全面的に受け入れる「べきだ」と考えている。
そこに、社会には様々な人と事情があることや、政府と言えど科学的に明らかでないことも言ってしまうことはある、といったことは考慮されていない。

彼らは、都会的で知的で華やかな生活を送ることこそが勝ち組であり、そのような形の成功を目指す「べきだ」と考えている。
何が幸せなのか、の価値観・価値基準に優劣があり、彼らの華やかさが最上であると思い込んでいる。

あるいは、何歳までに結婚するのが普通だ、何歳ならいくら稼いでいるのが普通だ、子供は中学受験させるのが普通だ、大卒が普通だ、とか言った、ごく狭い社会におけるデータを意識した生き方も、べき論が顕在化した例である。


この「べき論」は実に巧妙である。

どれもこれも、面と向かって全面否定できる要素が無い。これが、一部の人をとことんまでに追い詰める。

例えば、コロナ禍にあって外出自粛するべきだ、という考え方は確かに正しい。危険な感染症を広めない最も効果的な手段が、外出自粛することであるのは論を待たない。

この先雇用が保障されるわけでもないのだから、自分一人で稼いでいける力を身に付けるべきで、そのための努力をするべきだ。これも、いかにも正しく聞こえる。

そして、これらのべき論は、かなり多くの人にとっては乗り越えるのに苦労しない壁である点が、最も巧妙かつ残酷なポイントなのだ。

べき論を述べる本人や、その他の多くの人にとって、外出自粛することはそれほど難しいことではなかったはずだ。

多くの会社が営業自粛したり社員に自宅待機を命じたりした。
また、仕事のスキルを磨こうとすることも、多くの人にとっては確かに普通だ。
結婚についても、「結婚しなくても幸せになれる時代だけど、あなたと結婚したい」というCMがバズる時代になっても、それでもまだ結婚する人の方が多数派である。


しかし、どんなべき論にも、必ず対応しきれない人がいる。

外出自粛すると途端に収入が途絶える仕事をしている人も、家にいなければならないのだろうか。

常に残業を強いられ、家に帰れば疲れて寝るくらいしか出来ない生活を送る人も、「会社に頼らず自分一人で稼いでいける力」を身につける努力をしなければならないのだろうか。そもそも会社員として雇用されながら働くことが好きな人は??

一つひとつのべき論は乗り越えられても、どこかに乗り越えられない壁がある。誰にでも、それはある。

ほとんどのべき論を跳ね返しても、たった一つでも乗り越えられなければ、そしてそれが自分にとって辛いことであれば、立ち上がれなくなってしまうこともある。

べき論に身を委ねることは、ある面から見ればとても素晴らしいことのように映る。
人として善い行いをしているように見えるし、今のべき論に流されまくった人々が作った社会においては多数派になれるので、自分が社会に認められたような気分にもなれる。

しかし、それこそが落とし穴になっている。

多数の人が越えられた壁を越えられないことがあると、途端に承認を失うのである。いや、失ったような気になる。

誰にどうしろと教えられたわけでも、法律に違反しているわけでも、誰に迷惑をかけているわけでもなかったとしても。


この世界には、

乗り越えるべき壁など無い、

と私は思う。


そもそも、私たちは何のために生きるのか。
動物たちは何のために生き、繁殖しているのか。

学術的に、この問いに答えられる者は、この世にはいない。
そもそも、生物として生きることに理由など無いかもしれない。

であるならば、私たちが「こうあるべきだ」と思っているべき論は、一体何を目指しているのだろうか。

科学的な正しい答えが無い。
ならば、私たちはそれぞれが考え、それぞれの答え、生きる理由を見つけるしかない。(別に見つけなくてもいいのだが。幸せになるため、という漠とした言い方くらいはできるだろうか。)

なのに、世にはびこるべき論は、それぞれ一つの「こうあるべき」という解しか示していない

幸せに生きるため、という目的があるとしても、各々に幸せの形は違うことが明らかな世界で、一つだけの解を強制するべき論は矛盾している。

幸せに生きるため、以外の目的があるとしても、私たちはそれぞれに幸せを求めていて、その幸せの形がそれぞれに違うのに、一つだけの解を強制するべき論はやっぱり矛盾している。


生きたいように生きればいい。
ああするべきだ、こうするべきだ、と「お前のためだ」と善人面で言ってくるやつの言葉に耳を貸す必要など無い。

生きた者が勝ち。
それは紛れもない、真実だと思う。


我々の祖先が言葉を獲得し、社会を作ったのは、特段崇高な目的があってのことではないそうだ。
むしろ、「生きるため」だったという。

言葉を後世に残し、技術を伝えることで、社会を作り多様性を持つことで、種として生き残る可能性を高めた。

しかし言葉は暴走した。抽象的思考を可能にしてしまった。
あるかどうかも分からない、生きる目的を探してしまえるようになった。
探せなくてもよかったものを。そうすることができる力=言葉を、不幸にも獲得してしまったのである。

私たちは人類、そして生物は、
生きるために生きる。
だから「生物」なのである。

生きるには、幸せを感じられた方がいい。
幸せな方が、健康だ。
健康な方が、長生きできる。

何が幸せかは人それぞれ。
ならば、やりたいように、生きたいように生きることこそが、たった一つの最適解ではないか?

なかなかそうもいかないだろう。
生きたいように生きるのは、人間社会では難しいかもしれない。

それでも少なくとも、自分ではない誰かが勝手に作った正しさを押し付けてくるべき論は、無視した方が楽に生きられる。

たぶん。

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