東京から瀬戸内の島、久比に来て1年が経ちました。
流れるように「移動」して、気がついたら1年が経っていました。
そしてここでの暮らしが日常になってきました。
地域の人との会話が短くなるほど、自分がここにいることが当たり前のようになったなと内からも外からも感じます。
2ヶ月に1回東京に戻ると、電車に乗って通勤していたことが信じられない。
でも人と会った帰りに乗る、当時よりは密度が減った満員電車はなんだか懐かしくもあります。
こっちにきてのんびりと過ごしているかと思いきや、暮らすとはとても忙しないことに感じます。
東京にいる土日休みという概念はなく、仕事も休みも自分の意思でつくらないとできません。
「暮らし」という言葉は東京で働いているときは特に意識したことはありませんでした。
朝起きてベットの上からそのままパソコンに向かい、締切寸前まで何かを探し、つくり続け、夜の0時にご飯を食べてお風呂に入って寝ることを、そうだと思いたくなかった。
そんな生き方は二度としたくないなと思いながら、
ここ最近また、自分はどう生きたいのか考える時間が増えてきました。
やりたいことを考える時間、起こっている問題と向き合う時間、
異なる考えを理解しようと努める時間、なんでこんなことに頭使ってるんだろうって思うような時間、何も考えられない時間。
全て捨てて、本当に誰もいないところで静かに暮らしたいと思うこともあります。実際はすぐに飽きてしまいそうだけど。
何かを考えながら過ごす時間は、同じ二十四時間でも感じる早さが違います。土日休みという誰もが認める公の休みは、とても偉大な発明だったと思うと同時にあの月曜の朝の憂鬱は肯定できない。
何かを進めるのに選択肢があることや決定の意思を持てるということはとても素晴らしい生き方だと思いつつ、やり過ぎると息苦しい。まるでメドレーリレーのようです。
とにかく効率良く、成果を上げることでどこかのだれかに評価されるとか、そんなことが自分の行動基準になることから解放されたくて、
当たり前や常識から開放されたくて、本能的に「移動」してきた自分としてはこの場所は納得感があるはず。
でも人と繋がっている限りだれかの存在はあるし、それがないと今度は孤独みたいなものを感じてしまう。
なんて生き難い生き物なんだろうと野良猫を見ながら毎日思っています。
そんなことよりも、
今日の空気は気持ちがいいなとか、今日この人楽しそうだなとか、
今日なにもしなかったけどまあいいや
って過ごせることの方がよっぽどゆたかな時間だと思う。
あとはそういう生き方をどうやって自分が肯定していけるのか
そんなことを考えていたところ、
自分にとっての「暮らす」は目的がないことなんだと気がつきました。
目的がない時間を過ごすとき、普段目を向けない小さなものに気がついたりします。同時に自分の声も聞こえやすくなる。
久比は観光地のように、わかりやすく何かあるわけではないですが、
だからこそ今まで失っていた「時間」があるんだと。
目的がないとはマイナスなことではなく、むしろ目の前の些細なことにしっかり向き合える大切な時間なんだと思います。
今はたまにある、自分の声がよく聞こえる時間。
いつもどこまで自分の声を聞くか迷う。
今年も未知な時間で終わりそうです。
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