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註6の2

(註6の2)政治とは何か、人間支配とは何か

一方には天上との交通であり神がかりから占いにまで通じているシンボル思考があり、他方には地上の論理であり政治(人間支配)と社会適応(被支配順応)を支えている事実認識がある。

この両者の綱引きが相対的に早い段階でほぼ安定する社会もあるが、そうした社会は、より長くに渡って激しく綱引きを繰り返してきた社会に接すると、どちらにおいても(というのは神がかりの方面でも、事実認識の方面でも、ということだが)圧倒されてしまう。

神がかり(シンボル思考)における蓄積というのは、ほとんどが純粋な神がかりから儀式的な神がかりへと習俗化(堕落)していくことであり、いずれ純化(自己否定)を招来せざるを得ないものではあるが、それでもここには政治に対する耐性の獲得という面もあり、これがあればたとえば、神の階層化や変容の論理で異なる神をあっさり自らの体系に組み込んでしまうことも可能だ。

一方、事実認識(地上の論理)における蓄積は、相手を素早く値踏みし自らの目的のために何が使えるか(相手にどんな役を振ってやるか)を判断して駆け引きする政治の練達として、より素朴な政治しか経験していない人人をやすやすと操り翻弄するし、支配下においてしまう。

幕末の日本が当時の世界の列強に直接支配されなかったこと、西洋人によって行政府まで置かれるようなあからさまな植民地化にならなかったこと(また清朝の中国と比較して形の上では多いに自立性が保てたこと)は、日本人のプライドにとっては大きなことであっても、日本を大枠で思い通りに動かしたい側から言えば、むしろ手間も金も多いに省けたというだけのことかも知れない。

もしそうなら、総体として日本人が積み重ねてきた事実認識における蓄積、政治の練達は、日本を実質思い通りに動かした勢力が持っている政治の厚み(人間支配の透徹度)において到底叶わなかったということである。

するとまるで負け惜しみのように響くだろうが、他方でキリスト教が今日に至るまで本質的には日本人の大多数に浸透せず上っ面の風俗的な扱いに甘んじていることはやはり何ごとかなのだ。なぜならキリスト教とは、事実認識=政治の領分が、神降ろしから占いにまで及ぶシンボル思考の領域を、おそらく最大限に取り込んでみせた実質の政治体制(人類史上の限界まで政治化された神がかり)だからである。

これに対して恐らく日本人の神がかりは、大集団で保存されてきたそれとしては
「最も政治とすれ違うことに成功してきた神がかり」だろう。これはまたアニミズムが事実認識(政治と人間支配)の下で実に長らく生き延びてきた姿でもある。

「世俗の日常に対して神がかりの儀式(教会)を置く」といったハッキリとした対置を志向するのではなく
「世俗の日常の任意の場面に静かに神が降りてくる(あるいはふと気づくとすでにそこに神が降りている)」
かのような世界に住んでいる日本人は
(未だにアニミズムを引きずっている!)
とよく言われるが、そのような認識は、王の支配の元でいずれは必ず根絶やしにされるアミニズム……単に乗り越えられていくだけの未熟・未開のステップとしてのアニミズム……を前提にしている。

ところがアニミズムは条件さえあれば王の支配の元でも生き延びる。その条件とは、王の支配が大勢を抑えることであって虱潰し式のものにならない、ということである。西洋でもローマ帝国の時代まで人間支配は当たり前のように大勢を抑えることだった。

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