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今年はソクラテス! (8)

  8

ソクラテスが大抵の者たち(当時のギリシア語を話す人人の多く)を唸らせたと思われる、明解で、いかにもこれは正しいと聞く者に響いた論法……というのは、どういうものか?

古代ギリシアの言葉を一度も学んだことのないわたしが推測するのも無謀でおこがましいけれど、たとえば以下の論じ方などは、2500年後にこれを読むわたしにさえまったく明解だと感じられます。

これは『ソークラテースの弁明』の〈29A〉に出てくる断定、死を恐れるのは知恵がないのに知恵があると思っていることだ、とするそれです。

ソクラテスがこれを
「生きている人間は死を知らないのだから、恐れる根拠がない」
という意味で言っているなら、これは、ある水準では誤解の余地のない明解さを備えていると言えるでしょう。

その水準というのは
「死は、その者が、生者にはもう手の届かない向こう側へ行ってしまうという現象であり、人間は『こちら側にいる』のか『あちら側へ行ってしまった』のかのいずれかだ」
と、まずはこの決定的な断絶を受け入れる、そういう理解がはっきりと共有されている認識の世界です。

ここでもし
「いや、知らないからこそ『得体の知れぬもの』として恐れる、気味悪く思うのは自然ではないのか?」という反論があれば
「それは本来、他者の死について見たり聞いたりした事柄をどこまでも拡大したり、ついつい生きている自分に引き寄せて解釈しまう誤りなのだ」
「あなたは飽くまで生きていて、だからこそ、そうして『死についての空想』を語っている」
と応じればよい。

臨死体験を持ち出されても
「どんな状況にしろ結局死ななかった者が死を語っているだけだ。本当に死んだ者は何も語らない」
で済みます。

が、ソクラテスは果たしてそこまで考えて人間は自分の死を知り得ないと断定していたのかどうか、実は疑問です。

それというのも、裁判で死刑が確定したあとで、死刑に反対した裁判官たちにソクラテスはこう語りかけるからです。彼は、死ぬことは次の二つのうちの一つだと言います。(40CDE, 41A)ひとつは
「何も感じなくなるのか」
もう一つは
「魂が住所を移すようなものなのか」
で、これらはどちらも悪くないことではないかというのです。

こちら側(生者)とあちら側(死者)が断絶しているのなら先のようにその断絶だけを確認して、それ以上のことを考える必要はないのに、ソクラテスはこの地点からあっさりと後退して、知らないはずの世界を推測しています。

これはどういうことでしょう? 考えられるのは、こういうことではないでしょうか?

今の時代のわたしたち(2023年2月下旬の極東アジアの日本でわたしは今これを書いています)が生と死の断絶と言うとき、その確実さは、相当怪しくなっているとは言え、近代医学をおおむね受け入れてきた自分たちの歴史的な正しさ(?)にまで及ぶ、百年を超える蓄積を備えています。そうした蓄積のうちには実はかなり曖昧なものまで含まれているでしょうが、そういう周辺領域の広さがあればこそ、他方で

「死後の世界について見てきたように語るのは、実質的な趣味あるいは気軽な世間話としてなら誰にも許されている」といった常識も通用している。

ところがソクラテスの時代まで、人間は今と比較するなら、言葉は悪いが
(まだそれほどに人間の肉体をいじくり回していない)はずで、集団の中には例外的に死体に執着した者もいただろうが、その知見は集団の成員間で広く共有されるには至らなかったろう。そのため生体と死体の断絶といっても実は認知の周辺領域が違っていた可能性が高い。

今のわれわれは生体と死体の断絶を認めるということのうちに
「生体反応の根幹が失われたからこそ死体になるのだ」という理解があり、そのように理解した上で
「ほんとうに死体は(生体が感じるようには)何も感じていないのか」
などと言い出すのは矛盾だが、古代ギリシアで広く認められていた生体と死体の断絶には、まだその断絶認識のごく周辺に次のような見方の余地が残されていたのではないだろうか。つまり
「パッと見、死体はもう何も感じていないようだが、だからと言って『死者(あるいは死に行く者)の感覚』というべきものまで、まるで何もないのだとは言い切れない」といった見方が、である。


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