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No.449 小黒恵子氏の紹介記事-15 (私の学舎・恩師の言葉)

 こんにちは。小黒恵子童謡記念館です。

 前回と似た様な記事になりますが、今回は、婦人画報 それぞれの修行時代「私の学舎・恩師の言葉」 に紹介された記事をご紹介いたします。

それぞれの修行時代「私の学舎・恩師の言葉」
~子供が遊ぶのどかな風景。 
 叙情と郷愁を描いた谷内六郎氏との出会いから・・・・・・。~
  
                       童謡詩人 小黒恵子さん

 初めて童謡詩集を出版したのが四十二歳のとき。かなり遅咲きながら、その後、曲がついた童謡詩は四百余りになるという小黒恵子さん。木々が生い茂る屋敷で、動物たちと暮らしながら創作を続け、NHKの「みんなのうた」や「おかあさんといっしょ」に作品を発表。『ぼくんちのチャボ』『ドラキュラのうた』など、多くの曲が子供たちに愛唱されている。戦前の小黒家は多摩川の両岸で果樹園を経営していたが、農地改革で多くの土地を手放した。一人娘の小黒さんは「これからは法律を学ばなければならない」という父の言葉に従い、中央大学法学部へと進んだ。
 「大学卒業後、就職先の商事会社が倒産してしまいました。景気の悪い時代で再就職は無理だったものですから、渋谷に喫茶店を開きました。そこへいらしたのが、谷内六郎さん。あるとき、あちらから声をかけてくださったんです。こういう絵はお好きですか、というような言葉だったと思います。   
 そのとき初めて『週刊新潮』で表紙を描いている方だと分かったんです。『週刊新潮』の原画を見せてくださって、これはどうだろうか、批評してくださいとおっしゃるんですね。私には批評する目などありませんでしたが、谷内さんの描く世界に強くひかれました。谷内さんは当時それほど著名ではありませんでしたが、やがて『週刊新潮』といえば谷内六郎と言われるほどになりますよね。日本人の心の底に流れている叙情と郷愁を掴んだからだと思うんです。小さな子供が描かれている風景は、自然を愛する気持ちもあふれ、心を和ませてくれます。自分が育った幼い頃の風景があり、自分に置き換えることのできる子供がいる。そんな懐かしさが人気を呼んだ理由なのではないでしょうか。私自身も、その素朴な絵の世界と、谷内さんの純粋な心の世界に魅了されたんですね。私は、谷内さんの世界を歌で表現したいと思い、詩を書き始めました。谷内さんは絵を見せてくださって、私は詩をお見せして、そういう語らいがとても楽しかったんです。それまでは時代が時代でしたから、童謡とはほど遠い世界でしたね。谷内さんにお会いしなかったら、この世界には絶対おりませんでした。谷内さんの絵は、言葉以上にたくさんのことを語ってくれたと思うんです」
 谷内六郎氏は、漫画家として出発し、昭和三十年、第一回文春漫画賞受賞を機にして挿絵画家に転身。三十一年に創刊された『週刊新潮』の表紙絵を、五十六年に亡くなるまで描き続け、多くの人々に親しまれた。
 「詩を書いては谷内さんにお見せしていたんですが、せっかくやるんだったらしっかり基礎を習ったほうがいいだろうと『週刊新潮』の方に聞いてくださったんですね。すると、本郷弥生町でサトウハチロー先生がお弟子さんをとっていると聞きまして、門を叩いたわけなんです。サトウ先生のお宅へうかがうと、三十人くらいの先輩がずらっと座敷に座っているんですね。ここには先輩がたくさんいて、全国には自由投稿なさる方もいる。私は一番後ろからついていくんだわと思いました。作品を持ってうかがうわけですが、何を書いていいのか分からない感じでしたね。サトウ先生は、自分の部屋にいらして、集めたお弟子さんの作品に赤鉛筆で添削してくださいました。サトウ先生のところに通うときには、門の近くに車を駐め、その中では愛犬ロンがいつも待っていました。やがてロンが死んで『もうかえって来ないんだね』という詩を書いたんです。夏、九十九里浜に行った時の思い出を『霧だったね 九十九里の朝 露にぬれて はしゃいだのだれ ヒナギクの水玉 なめていたね おいしかったんだね~』というように夕方までの情景を描き、最後に『もうかえって来ないんだね』と書いたんですね。そうしたら、それを読んだサトウハチロー先生が『小黒くん、これなんだよ。分かるかい』とおっしゃたんです。そのときには何だろうと思いましたが、よく考えてみますと、人を感動させる心なんですね。そのときに初めて開眼したんです。その詩を読んで涙が出てきましたと、みなさんがおっしゃってくださったくらい。犬を心から愛していたという気持ちをこめて、語りかけるように、愛犬への手紙形式で書いたんです」
 その後、小黒さんは、日本作詩大賞・童謡賞、日本童謡賞、赤い靴児童文化大賞などを受賞。最新作はNHK「みんなのうた」で十二月から一月にかけて流れた『ジャガイモジャガー』と「おかあさんといっしょ」の一月の新曲『にゃあん体操』。
 「身近にいる動物、昆虫、植物を題材にして書いています。自然が大事だということを歌の中に織り込むようにして書き続けています。多摩川近くの緑に包まれた環境の中で育ちましたから、自然とそういう詩が生まれてきたんでしょうね。最初の童謡詩集『シツレイシマス』は、谷内六郎さんの装丁で出版することができました。あとがきで、身近な自然が大事なんだということを書いたんですね。その頃、オキシダントという耳新しい言葉が世間を賑わせていたんですね。オキシダントの影響で、若葉の季節に木の葉が落ちてしまったんです。そのショックってありませんでした。木を大事にして愛してきたのに、どうしてこんなことになっちゃったのか、本当に心が痛みました。何とかしなしなくてはいけないって書いたんです。その本を朝日新聞の方がたまたまご覧になって、記事にしてくださったんです。この本の中の詩に曲がついたなら、どんなに楽しい歌になるだろうかって。新聞の影響はすごいですね。レコード会社や出版社から、じゃんじゃん電話がかかってきて、えらいことになっちゃった(笑)。そんな力がないのに大変なことになったと思いましたが、そうだ、これから本当の勉強が始まるんだと思いなおしたんです。それからは、仕事をこなすために、努力努力の毎日でした」
 昨年八月には念願の童謡記念館が完成。結婚生活は五年で破れ、後継ぎもいない。一昨年三月に父親がなくなったため、他の土地を処分して相続税十一億円を支払い、ようやく童謡記念館用の敷地を確保したという。
「猫、九官鳥、犬が二匹、そして私の四種類、五人で生活しています。うちの子たちはよくできていまして、私が寝るときまで起きて待っていてくれるんです。終わったわよ、というと、みんなよかったねという顔をしてくれるんです。私には誰もいないんです。両親は亡くなり、兄弟もいませんから、まるっきりの天涯孤独。でも、身近にいる動物や昆虫や植物など、友達がたくさんいますから、毎日がとても楽しいんです(笑)」

谷内さんの絵は、言葉以上に
たくさんのことを語ってくれ・・・・・・・。


小黒恵子記念館/神奈川県川崎市高津区諏訪××× ☏044-×××-×××× 土曜と日曜の11時~17時のみ開館 童謡関係の資料等展示や専属ピアニストによる童謡の生演奏などを行う

婦人画報 平成4年(1992年)3月1日発行

 

これも、記念館開館にあたっても記事になりますが、かなり詳細に、ご自身のことが書かれています。開館情報については、現在は異なりますので、下記ホームページをご覧ください。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
 次回も、1992(平成4)年の雑誌に掲載された小黒恵子氏のエッセイや記事をご紹介します。(S)


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