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成長への二段階「尖る」と「収まる」

いきなりですが…「尖る」って、どう思いますか??

「尖る」って、私のざっくりとした印象では、ある人が「独自の価値観を集団や社会に晒している」状態のことです。

例えば「あの人のセンス、尖ってるね」とかです。

尖ることは、安定を求める集団の中では「和を乱す」ので、心地よくない印象を持たれかねません。

確かに、事あるごとに全員が尖っていたら集団の統率がつかないので、時と場合によっては丸く収まるスキルは大切です。

ですが、成長を求める集団や人にとっては、「尖る」って実はすごく有益なことだなと思います。

例えば国際交流は、ある意味「尖ってる人」の集まりだと思うんです。それぞれ違う国や文化の人なので、互いに尖らざるを得ないというか。

そうすると、否が応でも刺激を受け合って、互いの棘がかちんかちんとぶつかり合って、その摩擦で次第に棘がすり減ったり、逆にさらに研ぎ澄まされたりして、形を整えていく。

すると最後には、どの棘とぶつかってもいい感じになる。

思えば、思春期や反抗期に「尖る」人が多いのは、成長するための足掻きなのかもしれませんよね。

自分なりの価値観を模索するために、まずは過激ともいえる行動をとってみて、それで痛い目見て、軌道修正してみて。

最後に、「これだ」っていう姿を見付けていく。

成長するためには、第1に尖る、第2に収まるが必要なのかなと思います。

「綺麗な形からはみ出ないように」と怯えて、万人受けする一定の内容をコンスタントに出していると、大きく外れることはないけど、大当たりすることもない。

なので、成長できる社会や組織は、尖ったことへのチャレンジやそれによる失敗におおらかな風土があるのではないでしょうか。

第1の「尖る」すらできなければ、第2の「収まる」に進む材料が手に入りません。

「万人受け」や「完璧」、そして「コンスタント」……これらにこだわると、尖ることができないので、成長という観点では危ういと思います。

なので、停滞しているなーと感じる時には、「ニッチ」で「不完全」で「一時的」なチャレンジに扉を開いてみるのはどうでしょうか。

ただし、ここで意識するべきことは、成長とは「尖る」を手放しに好き放題やらせることではないのです。重要な過程は第2の「収まる」です。

ただ、第1の「尖る」だけしても、場をかき乱すだけです。
第2の「収まる」まで責任を持って努めることで、尖ったことで得た原石にようやく磨きをかけることができるのです。

尖るだけの革命期と、収まるだけの安定期。
どちらもそれだけでは足りないのかもしれません。

第1に尖る、第2に収まる。
長い目でみて、両方を完遂すること。

その道のりが、振り返れば「成長」と言えるのではないのでしょうか。




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