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「PIHOTEK 北極を風と歩く」が 第28回 日本絵本賞「大賞」受賞。 文章に込めた想い

昨年の夏に出版した絵本「PIHOTEK ピヒュッティ 北極を風と歩く」が、このたび第28回日本絵本賞において、最高賞となる「大賞」を受賞することが決まりました。

授賞式は6月22日。

以前のnote投稿記事で、絵本制作に至った経緯などを書いたので、今回は私が書いた文章に込めた想いの部分を書きたいと思います。

今回の絵本のテーマは「風」そして「命」でした。

絵本制作の話が決まり、私が物語の文を書くにあたって頭の中に浮かんだイメージがいくつかありました。
まず一つ目が「命」とは何か。もう一つが、私が北極でこれまで何度も体験してきた不思議な現象についてです。

「不思議な現象」というのは、絵本の中にも登場しますが、夜を迎えてテントの中で就寝する私が、眠りに落ちる間際で「音楽」を聴く場面があります。あれは実は実体験で、絵本の物語を書くときにその体験を骨子として考えを膨らませました。

まず「命」とは何か。

「命」や「生と死」などをテーマとして扱うときに、世の中の多くの作品では主体と客体を分断します。つまり「食べる側」「食べられる側」を分け、「殺す側」「殺される側」を分けます。
食べる人がいて、食べられる動植物がいるので、感謝を込めて「いただきます」を言いましょう、というのは確かにその通りだし、何も間違っていない。でも、それを自発的に行う事とは別に、それを言う事によってある程度の原罪が軽減されるような語り口で誰かに「感謝をすることは良い事である」と説くその姿勢には大いなる欺瞞を感じます。

いただきますを言うとか言わないが問題ではなく、命というテーマを扱うときに、主体と客体を分断して物事を考えているうちはその射程距離ははるかに短いように感じています。
「食べる側」は永遠に食べる側に居続けるわけではありません。自分の身体を作る細胞は毎日少しずつ入れ替わり、排泄され、代謝され、その物質はまた別の存在に取り込まれてもいく。死ねば分解されて、他の動物の命になります。食べる側が何かを食べ、その食べられている側も何かを食べている。そうやって果てしない連鎖を続けて進んでくと、その連鎖が自分の後ろからやってきてまた自分に戻ってきます。

この連鎖を俯瞰してみた時に、では、この連鎖全体の中で主体とは「誰」なのかと問われても答えは出ません。全員が食べる主体であり、そして食べられる客体である。主体とは「誰」にあるのではなく、繋がりという関係性の全体にあるはずです。
主体と客体が明確に分かれているのは、その繋がりの一部をグッとクローズアップして見た時の、ほんのミクロな一瞬の現象にしかありません。

命はその連続性と関係性にこそ本質があるはずなのに、主体と客体を分断し続けて物事を語っても本質には射程が届かないように私は感じました。

「命」をテーマとするのであれば、主体と客体を分けるのではなく、まずはこれを主客混淆させていくべきだと考えました。主客を混ぜ、そして視座をミクロの主客分断からマクロの主客混淆に一気に俯瞰させていく。そしてまた、ミクロの日々の現実に戻っていく行程を描こう。それが主題としてありました。

主題として「命をテーマとした主客混淆」を軸に据え、ではどうやってその主客を混ぜていくかを考えます。

そこで話の中心に据えようと思ったのが、私が北極でたびたび体験する不思議な現象についてでした。

眠りに落ちようとする一瞬、風の向こうから音楽が聞こえてくる

北極を歩く毎日はソリを引いてクタクタになるまで歩き、テントを張って食事を終えると、寝袋で眠りにつきます。疲れも手伝ってすぐに眠りに落ちていくのですが、そんな時に時々不思議な体験をします。
風の強い日。テントがバタバタと風で揺れ、外では切るような風の音。寝袋の中、うつらうつらし始めたときに、風の向こうから音楽が聞こえてくるのです。
「あぁ、音楽が聞こえるなぁ」
そう自覚し、その瞬間がとても気持ち良い。どんな音楽なのか?と聞かれても、答えられません。こんなリズムで、こんな調子の音楽で、という表現はできない。でも、確かに自分は音楽を聴いている自覚があり、とても心地良い。
実際には音楽など鳴っていません。全く無人の北極の海氷上。でも、確かに聴いている自分がいる。

その心地よい音楽に誘われるように、スーッと眠りに落ちていく。これまで、何度も経験してきたあの「音楽」とはいったい何だったのだろうか?

北極でひとり、テントの中で眠りにつく

この体験が何だったのか、それを物語の中心に据えて考えました。さまざまな本を読む中で、この体験に視座を与えてくれる次のヒントとしたのが、中国の古代思想家である荘子でした。
荘子で有名なのは「胡蝶の夢」という話。「荘周夢に胡蝶になる」で始まる短い話ですが、荘子(荘周)がある日うたた寝をしていると、蝶になって舞っている夢を見た。それがとても楽しく、ふと目覚める。あぁ、いま自分は蝶になっている夢を見たなと自覚した途端に、はて、果たして自分が蝶の夢を見ていたのか、本当は自分は蝶でいま夢を見ているのか分からなくなった、という話。

私が絵本の物語のヒントとしたのが、荘子の斉物論にある「天籟(てんらい)」という話。

深い森にある百抱えもある大木に、たくさんの穴が空いている。その穴の一つひとつに強い風が吹き込むと、それぞれの穴からあらゆる音が出てくる。水が走る音、矢が飛ぶ音、叫び声、鳴き声、しかし、風が止めばその穴はひっそりとして静まり返る。
「そもそも大地の吐き出す息を、名付けて風という。風は吹かなければ何ということはないが、ひとたび吹きおこるや、ありとあらゆる穴が激しく鳴り立てる」
天籟とは天の籟(ふえ)である。
「地の籟(ふえ)の音はもろもろの穴により、人の籟(ふえ)の音は竹管による。では天の籟(ふえ)とは何なのでしょう」
「音響のあり方はさまざまに違っているが、どれも皆それぞれの持ち前から出ていて、自分が選んだものだ。そんなものを出させるのはいったい何者なんだろう」

ここからは私の創作に結びつけて、この天籟の比喩を考えていきました。ここからの考えは私の思想なので、いわゆる老荘思想とは離れていくところもあります。
なぜ、荘子はここで「籟(ふえ)」という楽器を比喩に使ったのか。地籟(ちらい)は物理的な音であり声。人籟(じんらい)は人間の音であり声。天籟(てんらい)は人には聞こえない、人ならぬ者たちの音であり声です。
それは誰か?それは私は「死者」であると考えますが、その「誰」という主体は存在しません。「死者」とは単なる死者でなく「命」の現象そのものであると言い換えられます。天籟は、命の関係性が奏でる大きなマクロ的な音であり声となるはずです。
天籟から地籟、そして人籟とどんどんミクロにクローズアップしていくと、その人が手にしているのが、竹管です。つまり、我々の知る「笛」です。
「風は吹かなければ何ということはない」と荘子が述べるように、笛も息を吹き込まなければ何ということもありません。ただの「穴」として、ただの竹としてそこにあるに過ぎません。しかし、一旦そこに息であり風が吹き込むと、ありとあらゆる音が出る。
風が吹き込む以前の「穴」というのは、何もない空間ですが「無」ではなく、とは言え「有」でもない。有るでもなく無いでもない。これから風が吹き込むことで、有となる可能性を有した存在として、有る。楽器とは、そのような思想を顕すために仮託されて使われていると感じます。

人間とは、そのような存在ではないのか?一人の人間がそこにいるだけでは、何も起きない。その人に対して周囲の環境が何かしらの影響を及ぼし、インプットが発生することでその人からのアウトプットが起きる。社会の中で他者との関係の中で個人が確立されて、その個人が個人としてアウトプットされていき、そのアウトプットが誰かのインプットとなって繋がっていく。
人間一人も、可能性を有した存在としてそこに有る。

絵本の中で、風の向こうから音楽を聴くページのあと、青い見開きのページが続きますが、そこが本作において最も重要なページになっています。上に書いたことは極めて簡略化してまとめていますが、その枝葉も含めて感じていること、人の言葉にならない私の「天籟」を、井上奈奈さんの絵に託しました。

私がテントの中で聞いた、あの音楽とは何だったのか?私の結論を述べれば、それは私自身が空洞として、無でも有でもない、まさに楽器のような存在として北極にいて、その私に対して動物や風や氷や暗闇や、ありとあらゆるものがインプットされた時に、私の空洞に反響してアウトプットされた音楽なのです。
私が聞いた音楽は、実際には鳴っていない。でも、確かに自分には聴こえている。私の空洞に吹き渡った風が、私の中から生み出された音楽となって、私自身が聞いている。
鳴っている音楽、聞いている自分、という主客分断であったはずのものが、実は全てが一体であり、主客が混淆していたことを暗に語っています。
鳴っている音楽、聞いている自分という、一見すると分断された主客の状況にいる私が、その音楽に誘われてゆめとうつつの「あわい」に飛び出ていき、混淆し、そしてまた目覚めて現実という「初めての今日」を歩き出す。

かなり抽象的に書きました。いま語ったことは絵本の文章に託した想いのうちのごくごく一部でしかありませんが、「PIHOTEK 北極を風と歩く」はこのような私の想いを文に載せました。
それを理解して素晴らしい絵に表現していただいた井上奈奈さんの力、デザイナー阪口さんの技術とアイデア。編集者、印刷、製本、それぞれ関わっていただいた全ての皆さんの力によって完成しました。

冒険研究所書店では、荻田泰永、井上奈奈の著者二人によるサイン本を用意しています。購入は以下よりどうぞ。

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