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未来は変わらない。変えられるのは過去だけ

変わるのは過去?未来?


「過去は変えられない。未来は変えられる」なんて言葉を聞くことがある。

いつも感じるのだが、ものすごい矛盾している言葉だ。だって、未来はまだ来てもいないし、何の現象も起きていないのに「未来を変える」ってどういうことだ?何を変えるというのだろう?変える主体がないものを、どう変えるというのだろうか?

「未来は変わる」という人の心理の大部分を意訳すれば「未来を自分の思い通りに誘導したい」ということだ。その人にとって、自分が望んだ通りの思い描いた未来になれば、それは思い通りに「変えられた」未来である。一方で、訪れた未来が望みとは程遠く、うまくいかないことの連続だった時には「変えられなかった」未来だと考えるのだろう。その時、変えられなかった未来というのは、それ以前の自らの行動の不足、意思の弱さ、計画の甘さ、そのような不足した要素が招いた未来ということになる。前未来的な瞬間、つまり現在における自分の行動を改めていけば、未来は変えられる、つまりは「思い通りの未来」が訪れてくれるはずだと信じている。

でもね、あなたの意思や行動や計画で思い通りの未来にはなりません。未来は、やって来た未来が全てであり、それ以外に「起こり得た」未来なんて存在しない。これから自分の身に降りかかる事態は、自分の意思や行動や計画によって「選択されたもの」だと思っているのかもしれないが、計画して選択された未来なんて、神様じゃないんだからそんなことは人間にはできない。

つまり、未来は変えられない。そもそも「変える」主体もないのだし、変えるもクソもなく、訪れた未来が唯一絶対の結果であって、変える変えない以前に「その未来でしかない」わけだ。それは計画や選択の結果ではない。意思や計画や選択で、これからやってくる「未来」が変わるのではなくて、いま現在の行動が変容することで、その連続性の延長に待っている未来こそが、唯一絶対の結果である。

つまり、未来は変えられない。あるのは現在の延長線上にある単なる結果だけだ。

では、過去はどうか?過去は変えられないとよく言う。確かに、すでに起きたことを起きなかったことにはできないし、その逆もまた然り。

しかし、そうやって「過去は変わらない」と諦めるのは早い。過去とは何によって成立しているのか?過去とは「事実」と「解釈」からできていると、私は思う。

事実と解釈

「事実」と言うのは、唯一絶対的なものだ。例えば受験に失敗した、という事実は変わらないだろう。それは動かしようのない事実だ。しかし、その事実をどのように解釈するかというのは、自由だ。

案外、人類が歴史を振り返る時には「事実」と同じくらい「解釈」が重要視される。記録が残っていない過去などは、ほぼ解釈で過去は出来上がる。きっとそうだったに違いない、そうであれば説明がつく、そうあって欲しい、と言うのは全て解釈だ。漢の高祖である劉邦の股には72のほくろがあったと、とある記録には書いてある。が、記録にあるからといってそれが事実かどうかは疑わしい。まあ、このほくろの話は作り話に違いないが、これも解釈である。事実はもうわからなくなっているからこそ、解釈によって過去を補っていくしかない。

そう、記録に残っていたとしても、それが本当だとは限らない。人間の歴史の中で、文章記録なんて大体が勝者が都合よく書き換える。劉邦の件だってそうである。もし項羽が勝っていれば、2200年前の事実とは別軸で展開される「解釈」によって「正しい歴史」とされたものが「事実」として我々の歴史に居座っていただろう。

一人の人の人生においても、それは同じだと思う。過去に起きた事実というのは、絶対的な出来事である。しかし、解釈というのはその事実に向かい合った時に「どの角度からその事実と向き合うか」という、相対的な問題となる。事実は絶対であり、解釈は相対である。過去を変えるためには、相対性で成り立つ解釈によれば良い。

絶対と相対

絶対性、相対性、とはどういうことか?例えば、富士山の絵を描いてくださいと頼まれた時に、日本人のほぼ全員は「末広がりの八の字型」に描くだろう。しかし、誰かが円を描いたとする。末広がりの八の字型とは、地上から見上げる視座で富士山と相(あ)い対(たし)したとき、相対(そうたい)した時の見え方である。その一方で円を描いた人は、宇宙から見下ろす視座で地上に均一に裾野が広がる富士山を描いているかもしれない。
この時、どちらが正解なのだろうか?言わずもがなで、どちらも正解である。
では、見上げるのでもなく見下ろすのでもなく、富士山を登っている人からの視座ではどう見えるか?となれば、また全く異なる答えが存在する。

つまり「富士山の形」というものに、人間が答えられる唯一絶対の答えなどない。全ては相対的。答えを述べる人が、富士山とどの視座で相対するか?によって答えは変わるのだ。
しかし、人はその答えがより多いものを「常識」と呼ぶ。地上から見上げる視座で富士山を見つめる人が多く、その印象が刷り込まれ、富士山を描くときに末広がりの八の字型を描く人が大多数になった時に、富士山の形とは「末広がりの八の字型」であるという常識が無自覚に形成されていく。
円を描く人を「非常識」であると糾弾する。が、それはそのように糾弾する人自身の視座が乏しいことを自白しているだけのこと。世の中には、想像もできない視座でものを見る人たちがいる。

では、過去の事実というものに人が向かった時に、そこには変わらない唯一絶対の過去は存在するのだろうか?起きた事実は唯一絶対的なことかもしれない。それは、富士山という存在と等しい。存在は動かしようがない。しかし、その絶対的な存在は、自分の目から見えている形、現象こそが唯一絶対の答えなのであろうか?そんなことはないよね。

過去の事実とは、その絶対的な事実に対して自らの視座を変えていくことで、相対的に答えはいくらにでも変容していく。それを「解釈」と呼ぶ。

北極での火災事故

私は2007年にカナダ北極圏を1000km、無人地帯を歩いていた。しかし、その中間の500km地点でテント内で火災を起こし、救助を受けたことがある、死にかけて、一歩間違えば危機的な状況になっていた。
詳しくは私の最初の著書「北極男」に顛末は書いた。

https://www.bokenbooks.com/items/80553290

また、その事故をどう振り返っているかについては2冊目の「考える脚」に書いた。

この事故は、救助された直後は私にとってはとても惨めで、目を逸らしたくて、悔しくて、情けなくて、なかったことにしたい出来事だった。

しかし、今になってみると、この事故は「やっておいてよかった」と思えるほどに肯定的に捉える出来事になっている。それがなぜかは「考える脚」に詳しく書いた。

簡単に述べれば、この事故は今の自分にとってもの凄く大きな教訓になっている。油断や慢心が招いた事故であったのだが、事故を起こした時には自分自身がその油断に気づいていなかった。偶然ではなく、必然性をもって起きた事故だった。

「火災の事故が起きた」という絶対的な事実に変わりはない。私は、時間の経過や私自身の心の変化に伴って、その絶対的な出来事に対して視座が変わっていった。相対的な答えが、ここで変化していった。

私の中で、過去は変わった。変わったのは事実ではない。解釈だ。

「過去は変わらない」という人の心理を、また冒頭のように私なりに意訳すれば、それは「起きてしまった事実はもう意思や選択では変えられない」ということだ。みんな、事実を変えようとしている。そして、変わるとか変わらないというのは、意思や選択によって可能だと過信している。もはや意思が通用しない過去の事実は変わらないのだと考える。

でもね、過去はいくらでも変わります。そして、未来は一切変わりません、というか、未来については変わるとか変わらない、という話ですらない。

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